書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。
(ルール)
- この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
- 挙げた作品の重複は気にしない。
- 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
- 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
- 掲載は原稿の到着順。
北上次郎
『悪魔の羽根』ミネット・ウォルターズ/成川裕子訳
創元推理文庫
ミネット・ウォルターズの作品はいつも、ミステリーでありながら小説としての読みごたえがたっぷりあるのが特徴で、この作品も例外ではない。どんどん引き込まれていく。ホントにうまい。この作家にも外れがないわけではないが、これは安心印の強力おすすめ作だ。
川出正樹
『悪魔の羽根』ミネット・ウォルターズ/成川裕子訳
創元推理文庫
2004年、殺戮の巷バクダッドで拉致監禁され三日後に解放された記者コニー。一切の質問に答えることなくイギリスへと帰り、絵に描いたような田園地帯の古屋敷に隠棲することにした彼女の身に、いったい何が起きたのか、そしてなにが起きようとしているのか?
小規模なコミュニティを舞台に、マイノリティに対する蔑視と偏見、弱者に対する支配、家族のあり方を問う姿勢はデビュー以来一貫している。けれどもコニーが、「いまや世界はグローバルな村だもの」と述べているように、本作では〈境界〉はなきに等しい。可視化と繋がりが急激に進む世界にあって、凄惨な目に遭ったコニーは、田舎町の人間関係にいやおうなく巻き込まれつつ、過去と対峙し、脅威に立ち向かわざるを得ないのだ。「幸せの秘訣は自由である……自由の秘訣は勇気である」(トゥキディデス)というエピグラムを深く?みしめ再読したくなる、謎解きの興趣とサスペンスの妙味を堪能できる逸品です。
今月は、中村融編訳『街角の書店 18の奇妙な物語』(創元推理文庫)もおすすめ。副題にあるように〈奇妙な味〉を揃えているんだけど、これが読み進めるにつれて徐々に変化していく絶妙な〈味〉加減になっているところが素晴らしい長く読み継がれて欲しい名アンソロジーです。
霜月蒼
『彼らは廃馬を撃つ』ホレス・マッコイ/常盤新平訳
白水uブックス
ひたすらぶっとおしでパートナーとダンスを踊り続けるという「マラソン・ダンス大会」に出た若い男女の悲劇を冷たく描いた名作パルプ・ノワールの20年ぶりの復刊。純然たる新刊でいえばウォルターズの『悪魔の羽根』も傑作だが、本書は圧倒的なのだ。
夜明け前の暗い海を見つめながら主人公ふたりが会話する数ページ。ここである。そっけない叙景と台詞と最低限の心理描写しかない。文章は平易で冷たくクールだから読解にストレスはかからないはずだ。だが私はそこを何度も何度も読んだ。一言一句を確実に目を経由してとりこんだのに、なお味わいきっていないような思いにとらわれ、5回、6回と、そこだけくりかえし読んだ。文字にされているのは単純な感慨だけだが、その向こうには複雑に屈折した感情の軌跡があり、その軌跡はそこまでの物語の結果としてそこにある。膨大な量の感情が、小さく深く暗い結晶となって、そこにごろりと転がされているのだ。
その感情は、まったく古びていない。むしろ現代的であるかもしれない。ここにあるのはクライム・フィクションの真髄のような何かであり、ジム・トンプスンの空虚な饒舌と対極にありつつも同質の何かだ。タイポグラフィめいたインサートの効果も酷薄と悲しみを交錯させる見事なものである。いますぐ走って買いに行け。
千街晶之
『クリングゾールをさがして』ホルヘ・ボルピ/安藤哲行訳
河出書房新社
五月はルネ・ナイト『夏の沈黙』やバリー・ライガ『さよなら、シリアルキラー』など、本邦初紹介作家のミステリに優れた収穫が多かったが、その中から選んだ本書は、ヒトラーの科学顧問だったという謎の人物をめぐる探索を通して、科学者の戦争責任を問う異色の歴史ミステリ。史実とフィクションが交錯する構想と、科学と魔術が入り混じる膨大なペダントリーは、海外ならばウンベルト・エーコ、日本で言えば奥泉光や柳広司の作風を連想させる。ワルキューレ作戦やトゥーレ協会といった単語に反応するナチスマニアは必読だ。なお、本来なら先月紹介しておくべきだった『Zの喜劇』のジャン=マルセル・エールも本邦初紹介の作家。ユベール・モンテイエやピエール・シニアックやダニエル・ペナックあたりの、ブラックな味わいのフランス・ミステリを愛好する方にお薦めしたい。
吉野仁
『さよなら、シリアルキラー』バリー・ライガ/満園真木訳
創元推理文庫
連続殺人犯の息子である高校生が探偵役という、実にユニークな青春ミステリ。殺人のための英才教育を父から受けた主人公は、その知識を活かして事件を調べていく一方、父の存在に反発し立ち向かう、という設定をはじめ、章が変わるたびに織り込まれたサスペンスの妙など、娯楽小説として申し分ない。続編にも期待。今月は読み応えのあるものが多く、グスタボ・マラホビッチ『ブエノスアイレスに消えた』(ハヤカワ・ミステリ)は、ある場面で久しぶりに内蔵をぎゅっとつかまれたような衝撃とともに、大いなる虚無感を味わい印象深く、ジェニファー・ヒリアー『歪められた旋律』(扶桑社文庫)は、脇役たちの個性が光っており、一気読みだった。
酒井貞道
『夏の沈黙』ルネ・ナイト/古賀弥生訳
東京創元社
ミネット・ウォルターズの『悪意の羽根』と悩みに悩んだが、今日のところはこちらで。買った覚えのない本がヒロインの自宅にあり、そこにはヒロイン自身のことが書かれていた……と、冒頭から素敵な《不気味さ》が演出される。続く老人のパートも、静かだが実に不穏な空気感である。以降、物語は緊張感をしずしずと上げて行くのだが、心憎いのは、本に書かれていた内容や、老人の目的、そして過去に何が起きたかが、徐々にしか明らかにされない点だ。具体性がまだない序盤で、雰囲気だけで読者の心をがっちりつかみ、具体性を高めて興味を持続させ、そして終盤に至っての見事な《逆転》。キャラクターの心理も深いところまで抉り込む。作者が素晴らしい手腕を見せつける逸品だ。
杉江松恋
『クリングゾールをさがして』ホルヘ・ボルピ/安藤哲行訳
河出書房新社
メキシコの新時代を切り拓く作家による意欲的な大戦文学、なのだが題材とされているのはスペイン語圏ではなくナチス・ドイツで、ヒトラーの科学顧問を務めた物理学者を捜し当てるというフーダニットである。第二次世界大戦直前のドイツには、後にアメリカに亡命した者も含めて現代物理学会の礎を築いた物理学者が綺羅、星の如くにひしめいていた。これら実名の人々を登場させて、その中から戦争犯罪者をつきとめるという物語の結構自体が、20世紀科学文明への批判になっているのである。さらにいえばこれは男性の無節操な下半身が引き起こす事態を描いた小説にもなっており(と書くとトマス・ピンチョン『V』を連想してしまうが)、男性優位主義の社会原理に対する諷刺としても読める内容である。重層的な読みが可能で、かつミステリーとしても皮肉な味があってたいへんにおもしろい。分厚さにめげずに読むことをお勧めしたい。