La tête d’un homme, Fayard, 1931[原題:男の首] 『男の首 黄色い犬』宮崎嶺雄訳、創元推理文庫Mシ1-1(139-1)、1969(合本)* 『或る男の首』永戸俊雄訳、ハヤカワ・ミステリ232、1956 『或る男の首』堀口大學訳、新潮文庫、1959 『男の首』宮崎嶺雄訳、創元推理文庫153、1959 『男の首・サン・フォリアンの首吊り男』三好格訳、中央公論社(世界推理小説名作選)、1962 『男の首』宗左近訳、角川文庫503-3、1963 『男の首』木村庄三郎訳、旺文社文庫610-2、1977 Tout Simenon T16, 2003 Tout Maigret T1, 2007 映画『モンパルナスの夜(La tête d’un homme)』ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、アリ・ボール、インキジノフ出演、1933 映画『エッフェル塔上の男(The Man on the Eiffel Tower)』バージェス・メレディス監督、チャールズ・ロートン、フランチョット・トーン出演、1950【註1】 TVドラマ『Death in Mind』ルパート・デイヴィス主演、1962(第36話)[精神の死闘]【註2】 TVドラマ『Una vita in gioco』ジーノ・セルヴィ主演、1965(第4話、3回連続)[ゲームの人生] TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、1967(第2話) TVドラマ『メグレ警視15 男の首』ブリュノ・クレメール主演、Maigret et la tête d’un homme, 1996(第21話) |
昭和六十四年は一週間で終わって、平成元年になった。昭和の最後の暮れから、新年にかけて、読んだ小説のなかで、もっとも興味深かったのは、アーサー・ライアンズの『消失のシナリオ』だった。
(中略)傑作とはいえない。舞台はパーム・スプリングズで、ロケーション撮影ちゅうの映画監督が、殺される。筋立ては、なかなか工夫してあるけれども、すこし複雑すぎて、かえって散漫になっている。(中略)
私が興味を持ったのは、事件にモデルがあるからで、訳者あとがきに、木村二郎も書いている。ロスアンジェルスで、無声映画の監督、ウィリアムズ・デズモンド・テイラーが殺された事件だ。この事件を、私に教えてくれたのは、ジョルジュ・シムノンの千九百三十一年の作品だから、おもしろい。
有名な『男の首』である。数年前に読みかえしていたら、その一節が急に気になった。容疑者ラディックが、つきまとうメグレに、カフェで話しかける。あなたは、ぼくが犯人だと知っていても、逮捕することはできない。千九百二十一年に、デズモンド・テイラーという、有名な映画監督が殺された。映画関係者は大勢まきこまれたが、いまだに犯人は、逮捕されていない。そのくせ警察は犯人がわかっていた。一年ほど前の新聞に、警察の首脳が、犯人が自首しても、証拠がないから、起訴できない、と談話を発表している。
それとおんなじことになる、とラディックはいうのだ。(後略)
ここに紹介したのは、作家・編集者・評論家などとして活躍し、日本ミステリーの歴史に大きな足跡を遺した都筑道夫氏(1929-2003)の晩年の長期連載をまとめた『都筑道夫の読(ドク)ホリデイ』(小森収編集、全2冊、フリースタイル、2009)からの文章だ。ハリウッドを意味する「柊の林」と題された、連載第3回(1989.3)の冒頭部である。
この『読ホリデイ』はつれづれの評論エッセイという体裁のものだが、下巻巻末の人名索引を見ると興味深いことがわかる。都筑氏がこの連載でもっとも言及していたのは、なんとダントツでスティーヴン・キングだった。そして第2位がジョルジュ・シムノン、しかも第3位はディーン(・R)・クーンツなのである。私は都筑氏に(やはり多くの先達と同じく)一度もお目にかかったことはなかったが、強い影響を受けて育ってきた。
この『読ホリデイ』を読むと、都筑氏が後年何度も岡本綺堂とシムノンを読み返していたことがわかる。ことにシムノンの話題は連載当初から終盤までふと思い出されたかのように幾度も差し挟まれる。それほど読み返し、連想しやすかったということだろう。そしてその都筑氏が『読ホリデイ』で最初に言及したシムノン作品は、今回取り上げる『男の首』だった。
江戸川乱歩の『海外探偵小説作家と作品1』(江戸川乱歩推理文庫45、1988)収載のシムノン論や、創元推理文庫版『男の首』巻末の中島河太郎氏による解説(後に合本版『男の首 黄色い犬』に再録)、また旺文社文庫版『男の首』巻末の松村喜雄氏による解説は、いずれも力のこもった、かつ明快な記述で、シムノンを読もうとする人々の助けになる。戦前の1935年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の映画『モンパルナスの夜』が封切られ、それと同じくして原作『男の首』が永戸俊雄氏により映画と同タイトルで翻訳刊行された。これが日本におけるシムノン作品の初紹介である。この映画を観て小説も読んだ江戸川乱歩がシムノンを絶賛し、紹介の労をとった。それをきっかけとして伊東鋭太郎によるドイツ語からの重訳が次々と刊行されてゆき、日本では英米に先駆けてシムノンの評価が高まっていったのだという。
戦前のメグレ像は映画『モンパルナスの夜』に出演したアリ・ボールによってミステリー愛好家の心に強く刻まれたといわれる。そして戦後の1956年、作家の木々高太郎氏がフランスで直接シムノンに会い、Simenon の読みが「シメノン」ではなく「シムノン」であることを確認し、以後邦訳表記が変わったことも、乱歩や中島氏の解説記事などに書かれている。【註3】
乱歩は特に本作『男の首』と『黄色い犬』を高く評価した。多くの評論家はそれに賛同しつつ、他の初期作品にもよいものがあると評した。中島氏は前掲『男の首』の解説で『サン・フォリアン寺院の首吊人』『ゲー・ムーランの踊子』『霧の港のメグレ』もきわめて感銘の深い作品と述べているし、松村氏は加えて『メグレと深夜の十字路』『オランダの犯罪』も初期の傑作と位置づけている。長島良三氏は初期作品のなかでは『黄色い犬』『サン・フォリアン寺院の首吊人』『メグレと深夜の十字路』が傑作だと述べた。
ただ都筑道夫氏は、初期作品以外のものにも強く惹かれていた。いわゆる第三期に属するメグレものと対比して、初期作品の性格を的確に把握していた。同じく『読ホリデイ』の「巴里の色彩」(1990.3)から引用する。
今月シムノン特集をやるそうで、ベスト5をえらべ、といわれた。(中略)
昨八十九年、シムノンの訃報を聞いたときにも、私は手もとのメグレものをぜんぶ、読みかえしたばかりだから、読んでいるうちに思い出すのだけれど、ストーリイがわかっていてもおもしろい。一冊おわると、また一冊と、けっきょく八冊、読みかえすことになった。ベスト5とおなじく、どれも五十年代から六十年代にかけての作品だ。
以前にも書いたが、メグレものは、この時期がいい。初期の『男の首』や『霧の港のメグレ』、『サンフォリアン寺院の首吊り人』も悪くないが、人物をつくりすぎているし、雰囲気を強調しすぎている。それが、五十年代にかかると、きわめて自然になって、さりげない展開のうちに、くっきりと人物の性格が浮かびあがる。
いままで自分の読後感が影響されないよう、なるべく巻末解説以外の評論には目を通さないようにしてきたが、初期代表作といわれる『男の首』まで辿り着いたのだ、もうそろそろよいだろう。そう思って都筑氏や乱歩の評論を読んでみたのである。そして都筑氏の感想が自分のそれに近かったことを知って、何か沁み入るような感慨を覚えた。
私の手元に、当該のハヤカワミステリマガジン1990年3月号「ジョルジュ・シムノン追悼特集」がある。「メグレ・シリーズ・ベスト5」として、都筑氏を含む4名が回答を寄せている。
- 矢野浩三郎
『メグレのバカンス』『メグレと若い女の死』『メグレ罠を張る』『モンマルトルのメグレ』『メグレと幽霊』
- 野口雄司
『黄色い犬』『メグレと殺人者たち』『モンマルトルのメグレ』『メグレと若い女の死』『メグレ間違う』
- 長島良三
『メグレと若い女の死』『メグレと殺人者たち』『モンマルトルのメグレ』『メグレ罠を張る』『メグレと首無し死体』(番外)『メグレ警視の回想録』
- 都筑道夫
『メグレ罠を張る』『メグレと首無し死体』『モンマルトルのメグレ』『メグレと優雅な泥棒』『猫』(非メグレもの)
*油の乗り切った1950年代の作品は他の何を読んでも損をしない。
まだ私の知らない未来のメグレがたくさん掲げられている。そのことにいまの私は胸が躍る。
以前『黄色い犬』の回で示したように、創元推理文庫版の『男の首 黄色い犬』を試してみたがピンと来なくてシムノンを読まず嫌いになってしまったという人は、意外と多いように見受けられる。私も今回、創元推理文庫版で読んでみた。私自身の結論からいえば、メグレシリーズを読み始めるなら、できれば最初期の娯楽作『怪盗レトン』か『サン・フォリアン寺院の首吊人』からのほうがよい。そしてシムノンらしさも出てきた『メグレと深夜の十字路』や『オランダの犯罪』を、ごく生活の一部として、前にも書いたがまさに呼吸するかのように読んでみるのがよい。『男の首 黄色い犬』に取りかかるのはそうした感触をつかんだ後でよいと思う。シムノンが書いてきた道を辿りながら読むのが、もっともメグレシリーズを楽しめる道筋なのだと、私は確信しつつある。
日本では本作『男の首』が最初に紹介された。このことによって日本におけるメグレシリーズの評価は、長いこと偏ったものになっていたような気がする。物語の途中でメグレは、警察官としては物的証拠や論理的結論を引き出して犯人を捕らえなければならないが、人間としては心的証拠も考慮しなければならない、といったことを呟いている。こうしたあからさまな台詞はむしろ珍しいのだが、本作が最初に紹介されたためメグレシリーズがひとくくりに心理犯罪小説のカテゴリーに入れられてしまった可能性もある。
作品や訳者に責任はないが、『男の首』からシムノンに入門するのは得策ではない。いままでシリーズを読んだ限りでいうと、本作は異色中の異色作、屈折した若き知能犯が登場し、メグレと対決を繰り広げる物語なのである。
*
10月の深夜2時。パリのサンテ監獄から、ひとりの囚人が脱獄をしようとしていた。その第十一号囚の名はジョゼフ・ウルタン、花屋の配達人として働いていた、大きくてひょろひょろとした、頭ばかりがむやみに大きい男である。彼のもとへ脱獄を指示する奇妙な手紙が届けられたのだ。その手紙の通り、時間になると独房の鍵は開いており、塀の外へ出る準備までがなされていた。
ウルタンの逃亡を密かに見守っている人たちがいた。そのひとりがメグレである。この脱走劇はメグレが自分の刑事人生を賭してあえて企てたものだった。
その年の7月、富豪のヘンダーソン夫人とその小間使いが自宅で惨殺されるという事件が起こった。現場にはくっきりと靴跡や指紋が残っており、それがウルタンのものと一致したのである。すぐさまウルタンは捜査陣に捕らえられたが、「自分はやっていない」と主張する。メグレはこの男のいい分を確かめるため、共犯者の存在を探るべく、わざとウルタンを断頭台での処刑前夜に放ったのだ。自分の首とこの男の首がかかった、一世一代の大ばくちである。
ウルタンは方々を彷徨いながら、やがて繁華街モンパルナスに辿り着き、そこで宿を取って泥のように眠った。メグレとその部下たちは彼の一挙手一投足を見守り続ける。だが翌朝、新聞に驚くべき記事が載っていることがわかった。いったい誰が密告したのか、ウルタンの脱走は当局が仕掛けた罠だというのだ。眠りから覚めたウルタンはカフェで新聞を読もうとする。これが罠であることを知られてはまずい。刑事のひとりがウルタンから新聞を奪おうとするが、そこでひと悶着が起こり、ウルタンは刑事の頭を瓶で殴って逃走してしまう。
メグレは新聞社宛の密告書を入手し、その筆跡鑑定を専門家に依頼した。その結果に拠れば、密告者はわざと左手で文字を書いているが、極めて優れた知能犯であり、かつ難病を抱えているという。そして手紙のインクがモンパルナスのカフェ《クーポール》【註4】のものであることが突き止められた。メグレは《クーポール》に向かい、そこで殺されたヘンダーソン夫人の甥であるアメリカ人、ウィリアム・クロスビーやその妻ヘレン、さらには夫妻の友人であるエドナ・ライヒベルグ婦人のみならず、恐るべき人物と相まみえることになる。
本作『男の首』がシリーズ初期の異色作である所以のひとつに、その舞台がパリのモンパルナスであることが挙げられる。思い出していただきたいが、これまでメグレシリーズの主要舞台はほとんどがパリから離れた郊外や遠くの地であり、そうした土地に住む人々との価値観の違いや、そしてそういった違いから生じる摩擦が人間にとって普遍であることが、物語の主題となっていた。
本作は初めてパリの名所、しかもしゃれた都会人だけでなく外国人も多く集まる繁華街が舞台なのである。被害者の甥クロスビーは上流階層の人間を気取っており、エドナを情婦にしている。ヘレン夫人はそのことを知りながら、両手に花の夫の脇で酒を飲んでいるのである。これまでシムノンは遠地の情景を的確な筆致で表現してきたが、今回その腕の冴えはさまざまな人間が集まるパリのカフェの描写において力を発揮する。こんな具合だ。
たいへんなこみようだった。部屋の奥に設けられた小さな窓口が、絶えず開いたりしまったりしては、オリーブや揚馬鈴薯(チップス)やサンドイッチや暖かい飲み物などが、料理場から送り出されて来た。
さらやコップのがちゃがちゃぶっつかり合う音のなかで、四人のボーイがいっせいに声を張りあげれば、客は客同士が種々さまざまな国語で話しかけ合っていた。
しかも、何よりもはっきり感じられることは、客もバーテンダーも室内の装飾も、すべてのものが渾然として、一つの全体を作り出しているということだった。
人々はなれなれしくひじを触れ合い、そしてくろうと女であろうと、陽気な取巻連を引き連れてリムージン型の車から降りてくる実業家であろうと、あるいはエストニア生れのへっぽこ絵かきであろうと、みんな同じように、いちばん古参のバーテンに、〈ねえ、ボッブ……〉と呼びかけていた。
この《クーポール》にウルタンがやってきたことにメグレは驚く。だがウルタンは扉の外から店内を窺うだけで、なかに入ろうとしない。ウルタンは被害者の甥たちを知っていて、このカフェまでやって来たのだろうか? やがてクロスビーたちはメグレに挨拶した後、扉を開けて店を出て行く。彼らはウルタンとすれ違う。このあたりの緊迫感はさすがといいたくなるほどだ。しかしクロスビーたちもウルタンも、互いにまったく見知った素振りをせずに過ぎ去るのだ!
メグレはこの展開に驚く。ではウルタンは誰を待っているのか。彼は店内の自分を見ているのか。いや、そうではなかった。店内の鏡にひとりの若者の顔が写っている。先ほどからヨーグルトを啜っていた男だ。その若者が鏡越しに、メグレを見つめていたのである!
ここは屈指の名シーンだ。異様な緊張が文章から迸り出ており、いままで読んできたメグレシリーズとは違う、エンターテインメントとしての底力を感じさせる。読者の胸ぐらをつかんで離さない、あの感覚だ。
若者は店内がまばらになってもまだ残っていた。ウルタンはこの若者を待っていたのである。若者はキャビアのサンドイッチをいくつも平らげた後、泰然としたふるまいで、支払いは明日にするといい出す。怒った店主は警察を呼び、若者はしょっぴかれた(そのためウルタンは若者に声をかけることができず、去って行ってしまう)。メグレは警官たちに同行したが、若者は尋問されても他人を見下す態度を改めない。彼の名はジャン・ラデック、チェコから来た25歳の医学生であった。
メグレはクロスビー夫妻らが泊まっているホテルへ行き、ラデックという名の若者を知っているかと問う。だが彼らは知らないと答え、札束を持って慈善パーティへと出かけていった。
翌日、メグレが再び《クーポール》に行くと、ラデックが不敵な表情で待ち構えていた。彼は大金を入手しており、あろうことかメグレに話しかけ、自らヘンダーソン夫人殺害事件のことを切り出す。関係者しか知らないことまで話し始める。暗に彼は自分が主犯であり、自分がウルタンを操って殺害を実行したと仄めかしているのだ。そしてメグレに札束を放り投げ、この出所を調べてみろと挑発する。それはクロスビーが慈善パーティで寄附したはずの金だった。
一方、ウルタンは行方を眩ましていた。だがラデックはメグレに挑発を続ける。彼はメグレにいってのける。「すべての前提が、そもそもの最初から、まちがっていたんです」「あなたにはなんにもわかっていないんです。今後ますますわからなくなるばかりでしょう!」と。そして本稿の冒頭に掲げた都筑氏の文章の通り、迷宮入りしたかつての事件を引き合いに出しながら、あなたにはこの自分を逮捕することはできないとうそぶくのだ。
さらなる事件が発生する。それもラデックの遠隔心理操作によるものなのだろうか。メグレはぴったりとラデックについて、彼の行動を観察し続ける。ラデックはそれをおもしろがるように、パリの街を堂々と歩いてみせる。この自己顕示欲の強い若者を相手に、メグレの反撃はいつとなるのか?
ジョルジュ・シムノンを日本で語る際、必ずといっていいほど言及されてきたのが映画『モンパルナスの夜』であった。『十字路の夜』『黄色い犬』に続いて1933年に本国で公開された、シムノン三番目の映画化作品である。
ジュリアン・デュヴィヴィエは『にんじん』(1932)やヴィヴィアン・リー主演『アンナ・カレーニナ』(1948)などの名監督として映画ファンの間で知られている。後にシムノンの原作をもう一度、『パニック』(1947)というタイトルで映画化している。原作はパトリス・ルコント監督の映画『仕立て屋の恋』(1989)と同じ『Les fiançailles de Monsieur Hire』(Fayard, 1933)[原題:イール氏の婚約、小説の邦訳タイトルはルコント監督の映画に合わせた『仕立て屋の恋』(ハヤカワ文庫)だが、仕立屋という設定は原作にはない]。ただ、それほどの名匠でありながら一部の作品はいまだフランス本国で限定的に映像ソフト化されたきりで、手軽に観ることはできない。『モンパルナスの夜』もそういった視聴困難な作品のひとつだ。
都筑道夫氏が『読ホリデイ』の「五十余年目の再会」(1994.4)の回で、当年2月3日の節分の日にNHKの衛星第二TVがこの『モンパルナスの夜』を放映するので、それを知ったときは飛び上がらんばかりに喜び、朝から待ち遠しかったと綴っている。日本での公開は1935年だから、タイトル通り59年ぶりに都筑氏は『モンパルナスの夜』に接したのである。刑事たちの聞き込み捜査のところでモンタージュが用いられていることや、当時の人気女性歌手ダミアが登場し歌をうたうシーンなどを、かつての記憶と照らし合わせながら観ている。そして終盤、シベリア生まれのインキジノフ扮する若者ラデックがついに追い詰められ、夜のモンパルナスの街路を走り、ラストを迎える部分が、思ったより短かったものの自分の記憶通りだったことを確認し、ほっとしている。
こういう古い映画を、あまり期待して見ると、がっかりすることが多い。「モンパルナスの夜」にも、まだ無声映画の演出方法を、ひきずっているところがある。さっきいった早まわしで走るところとか、あくの強いインキジノフの演技を放置している点なぞに、それを感じた。だが、がっかりはしなかった。たいへん原作に忠実だし、インキジノフの大芝居も、そのつもりで見れば、おもしろい。顔と手足の歌舞伎を思わせる演技になる直前に、こまかい表情の変化があったりして、アリ・ボールの能面的な顔の芝居と、いい対象をつくっている。
とにかく、五十余年目の再会に、私は満足した。(後略)
読んでいてこちらもほっとする文章である。
今回、私も『モンパルナスの夜』を観てみた。当然モノクロだが、まず『十字路の夜』や『黄色い犬』と同様、シムノンがメグレを書いていたのと同時期のパリが映し出されているのが感興をそそる。都筑氏は原作に忠実だと書いているが、実は冒頭から物語の展開手法は原作と大きく違う。まずカフェでクロスビーが何者かから手紙を渡され、そしてダイスを振る。このシーンは原作の終盤で明かされるものだ。続いてアレクサンダー・リニョオ演じるウルタンが深夜に夫人宅へ忍び込み、夫人が殺されているのを発見する。そこへ手袋を填め、靴を布で覆ったもうひとりの男が現れ、ウルタンを逃がす。この男がインキジノフ演じる若者ラデックであることは、最初から観客に知らされるのだ。
そしてメグレらの捜査が始まり、ウルタンは逮捕されるのだが、共犯者の存在を感じたメグレはわざと護送車が故障したふりをさせてウルタンを放つ。
モンパルナスのカフェでメグレはラデックと遭遇する。店内から出て行くクロスビーとウルタンがすれ違うシーンは、原作ほどの緊迫感はない。だがラデックの登場シーンはなかなか鮮烈である。ひとり席に座り、俯きながら、ぎょろっ、ぎょろっ、と視線を上目遣いに動かし、ときには白目さえ見せるのだ。そして皿の縁をスプーンで神経質そうに何度も鳴らして店員を呼ぶ。
私には林のなかを逃走し彷徨うウルタンの影が、まるでボリス・カーロフの演じたフランケンシュタインの怪物に思えた。そして小柄で東洋風の顔つきをし、鋭い視線をつねに周囲に投げつけるラデックが、まるで怪物を生み出すマッドサイエンティストさえも操る研究助手のように見えた。映画のなかでは何度も登場人物たちが視線で戦い合うシーンが繰り返される。早々に捕らえられ事件現場に連れて来られたウルタンが、自分の犯行ではないといい募り、メグレに追い詰められる場面が出てくるが、ここでもメグレ役のアリ・ボールはじっとウルタン役のリニョオの目を見つめ、鼻先が触れんばかりに近寄ってゆく。その戦いにリニョオはついに負けて怯え出す。ラデック役のインキジノフも、アリ・ボールやクロスビーの情婦役の女優と目で戦う。
確かにこれを無声映画のような大芝居ということもできるのだが、目と目で戦うこのシチュエーションが繰り返されることで、絞り込んだ配役全員がエンターテインメント映画として充分な個性を獲得し、強い印象を観客に刻みつけることに成功しているように思う。つまりこの映画はシムノンの原作よりはるかにきちんとエンターテインメントとして駆動しており、その演出作法に忠実なのである。
正直にいうと、ラデックとウルタンを演じたふたりの俳優の印象があまりに強く、メグレ役のアリ・ボールは私の心に残らなかった。このメグレがファンの間で長く賞賛されてきたというのはちょっと信じがたい。よく引用掲載されるアリ・ボールのスチール写真が、顔面をドーランで塗ったかのように白っぽく写っているため、「能面的」とか「宗教的要素をおりこんで成功した」(『世界の名探偵コレクション10 6 メグレ警視』巻末解説、長島良三訳、集英社文庫、1997)といった印象が後になって定着したのかもしれない。
本作は再映画化され、またメグレの各TVシリーズで何度も映像化された。バージェス・メレディス監督版の映画『エッフェル塔上の男』(1950)は英語のカラー作品である。おそらく初めてカラーで撮影されたメグレだろう。関係ないことだが、これまでずっとフランス語のTVシリーズや映画を観てきたので、字幕なしに俳優たちの台詞がわかるこの映画にはちょっとした驚きを感じた。映画『敦煌』で登場人物がみな日本語をしゃべっているようなものだが、それでも言葉がわかることはこんなにも理解を助けるのかと、奇妙な感慨を覚えたのである(ちなみにメグレの部下であるリュカ Lucas 刑事は、英語風に「ルーカス」と呼ばれている)。
タイトルが『エッフェル塔上の男』となっているのは、容疑者ラデックがパリのエッフェル塔の高さに自分の虚栄心を重ね合わせ、よく展望台に上っているという設定が加えられているからだ。フランチョット・トーン演じるラデックが、途中でチャールズ・ロートン演じるメグレを展望台に誘うシーンがあり、終盤でもこのエッフェル塔を使った危険な追跡劇が繰り広げられる。CGに慣れすぎた現代の私たちからすると、命綱もないのにこうしたスタントを見せられると「大丈夫なのか?」と不安な気持ちになる。実際のところエッフェル塔はほとんどストーリーと無関係なのだが、監督はきっとカラーでエッフェル塔を撮りたかったのだろう。面白いのは監督自身(?)がウルタン役をやっていることで、果敢にエッフェル塔の鉄骨を上ってゆく。
チャールズ・ロートンのメグレは申し訳ないが歳をとった豚のようでミスキャストに思われる。その他、主要な配役も、あまりフィットしていない。冒頭部は完全にジュリアン・デュヴィヴィエ版の再現で、途中からシムノンの原作に近くなるが、エッフェル塔でスタントをやったという以外には見所に欠ける作品だ。やはり関係ないことだが、エッフェル塔のエレベーターが登場するのを見て、そういえばこのエレベーターをつくった技師の話をショーン・コノリー『2階から卵を割らずに落とす方法』(古谷美央訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2014)で読んだなと思い出した。
本連載でイタリアのメグレを紹介するのは初めてである。本作はジーノ・セルヴィが主演したTVシリーズ『Le inchieste del commissario Maigret』[原題:メグレ警視の事件簿]でも映像化されている。1965年から1972年まで、4シリーズ全16作が製作された(さらに映画版もひとつある)。原作が短編のものは一回で終わるが、長編のものは数週に分けて放映されたため、かなり時間が長いのが特徴だ。本作も3週にわたって続いたので総時間は211分に及ぶ。
ジーノ・セルヴィ演じるメグレは怒りっぽく、コメディ的であるが、決して悪くない。だがスタジオセットや全体の撮り方は安っぽい。登場人物もわかりやすい演技で動き、台詞も長い。つまりホームドラマのつくりである(ただ、一部のロケは実際にフランスに行って撮影しているように見受けられる)。よってこちらもゆったりとした気持ちで、食事でもしながら観るのが正解だろう。
ストーリー展開は原作とほぼ同じである。尺が長いためか、たとえばウルタンが脱走時に塀の上でしばらく躊躇ったり、大金を手に入れたラデックが老婆をカフェで愚弄したり、といったような細かいシーンまで再現されている。本作では2週目以降に登場するラデック役の俳優が、最終回になってかなりの熱演を見せ、がぜん画面が引き締まってくる。この俳優の風貌が、どこかかつての小室哲哉を想起させる。
ジャン・リシャール版は、TVシリーズが始まってまだ2作目のドラマだが安心して観られる。人々の生活感がさりげなく滲み出る画面づくり、効果的なロケーション撮影、原作に忠実なストーリー展開とイメージを裏切らないキャスティングで、早くも長期シリーズの風格を醸し出している。何より今回は、最初に映し出される独房内のウルタンの面構えがいい。知能犯ラデックを演じる俳優は、他の映像版と比較していちばん?若造?感が出ている。そう、メグレは45歳前後だが、ラデックはわずか25歳なのだ。
そして今回はブリュノ・クレメール版も頑張っている。これまで観てきたものではシムノンのストレートな物語を複雑化しようとして失敗している様子も見受けられたが、今回の脚色は見事だ。
たとえば新聞のエピソードは細かな修正が功を奏しているし、原作で不自然だった夫人ヘレンと情婦エドナの関係もうまくつくり直している。《クーポール》店内での鏡やガラスへの映り込みを多層的に利用した撮影・演出も素晴らしい。
それにあっと思ったのは、このヴァージョンのラデック役が、いちばん自然であったことだ。顔立ちで早熟の天才らしさや凄みを出そうとしていない。それがかえって効果的で、なるほどこういう演出方法があったのかと思わされた。ミュージカル『オペラ座の怪人』を思わせる伴奏はご愛敬だが、歌手の歌が流れるシーンさえある。きっとジュリアン・デュヴィヴィエ版へのアンサーだろう。いままでブリュノ・クレメール版のドラマは苦手だったが、今回はあっぱれといいたいほどの出来映えである。いま『男の首』を映像で観るのなら、このクレメール版で決まりだろう。
*
当時のシムノンはメグレシリーズを通して大衆小説のフォーミュラを総ざらえしようとしていたかに思える。本作『男の首』も小説の定式を取り入れた作品だ。貧乏だが自尊心と自己愛が強いラデックの造形は、いくらでも他の文学作品のなかに類型を見出すことができるだろう。実際、そうした作品群と本作を比較した評論もある。
ラデックの人物造形はそのように文学のフォーミュラを踏襲したものであり、それ以上の凄みは残念ながら本作から感じ取れない。終盤、かつて本連載の第5回で引用したフランソア・フォスカ氏の批判のごとく、メグレは電撃的にラデックから主導権を奪い、一気に決着をつける。そしてかなり長い第11章を費やして、事件の真相を語り尽くす。冷静に考えればメグレたちの捜査もラデックの行動も穴だらけであり、本格推理小説のつもりでページをめくっていた読者ならきっと狐につままれたような気分になることだろう。だから本作をメグレの入門書として最初に読むのは薦められない。どのような心構えでメグレと向き合えばいいのかわからないまま読み終わってしまうに違いないからだ。
しかしシムノンはこの時期、あらゆる小説のフォーミュラを、メグレという45歳の大人の胸を借りつつ試していたのだと考えることはできないだろうか。その鍛錬が後の作家ジョルジュ・シムノンを生み出す助走となったと捉えることはできないだろうか。
このときシムノンはペンネームですでに大量の娯楽小説を書いていた。ちょっとタイトルを眺めただけでも、恋愛小説から秘境冒険小説、ウェスタン、そしておそらくはソフトな官能小説まで、あらゆるジャンルを手がけていた。そうした時期を経て、シムノンは父親の面影を持つメグレを主人公に、ミステリーのフォーミュラをいくつも試し、後の自分への糧としていったのではないか。
本作を書いたとき、まだシムノンが27歳の若造であったことは、思い出しておく必要がある。メグレシリーズは大人の小説と思われがちで、私たちも初期の作品さえつい大成した作家が書いたものだと考えてしまうが、この作品が書かれたときシムノンは主人公メグレより若き知能犯ラデックの方に、はるかに年齢は近かったのだ。
それなのに、このラデックに対する突き放し方はどうだ。ラデックは自分のことを頭の働く男だと思っているが、しょせんは25歳の苦学生に過ぎない。冷静に作品を読めば、彼のやったことはあまりに凡庸でつまらない犯罪だ。大人のメグレが本気を出せば、ほんのひとひねりで屈服されてしまうほどの弱き存在なのである。27歳のシムノンがそうした若造を書いていたのだ。この達観ぶりには少し恐ろしいものがある。
そのことがよくわかるのが、本作のラストだ。これまでメグレシリーズは、実質的な第一作である『怪盗レトン』の全19章構成を除くと、すべて全11章で書き上げられてきた。ところが本作に限っては、長い第11章の後に、エピローグ的な第12章が設けられている。この部分に私は驚き、そして唸った。本作はまだフォーミュラ小説の域を出ていないかもしれない。だがこのラストは誰にでも書けるものではない。そして私が観たどの映像化作品も、このラストを再現していないのだ。
つまりこの部分に関してのみいえば、作者シムノンは監督たちに完全に勝っている。この関係はちょうど『第三の男』(ハヤカワ文庫epi)におけるキャロル・リード監督と原作者グレアム・グリーンの関係を逆さにしたかのようだ。本作におけるシムノンのラスト1ページはあまりに鮮やかで、映像化した瞬間に監督側が負けることがわかりきっているほどなのである。
シムノン全集のウェブページ(http://www.toutsimenon.com)に拠ると、シムノンは本作『男の首』を1930年9月から1931年3月にかけて書いたようだ。一作の完成にこれほど時間をかけることは、シムノンにしては珍しい。1931年2月、それまで書きためていたメグレシリーズの原稿が出版される。本作を終えた後、シムノンは同じく1931年3月の1ヵ月で次の『黄色い犬』を書いた。続く『メグレと深夜の十字路』は同年4月に書き、『オランダの犯罪』は5月に書いた。本作『男の首』の刊行順序は9番目だが、8番目の刊行作『港の酒場で』の執筆は同年7月、10番目の『ゲー・ムーランの踊子』(創元推理文庫)の執筆は9月、11番目の『三文酒場』(創元推理文庫)は10月だった。
1931年にシムノンは本名名義で12冊の長編小説を刊行し、また多数の写真が挿入された特殊な体裁の短編ミステリー書籍『イトヴィル村の狂女』(本文のみハヤカワミステリマガジン2000年2月号に訳載、長島良三訳)も書き下ろしている。長編12冊のうち11冊、すなわち『怪盗レトン』から『三文酒場』まではメグレシリーズだ。
シムノンは本作『男の首』を書き上げてから『黄色い犬』『メグレと深夜の十字路』『オランダの犯罪』『港の酒場で』と書いていった。『メグレと深夜の十字路』でシムノンの腕は飛躍的に発展し、『オランダの犯罪』と『港の酒場で』の2作では見事なラストを読者に与えた。
私は刊行順に読んできたので、『オランダの犯罪』『港の酒場で』の鮮やかなラストに目を瞠った。だがそれらの萌芽は、この『男の首』にあったのだ! この驚きは、唐突なたとえで恐縮だが、映画ドラえもんのシリーズを観直していたときに第7作『のび太と鉄人兵団』で強い印象を残す最初と最後の俯瞰視点の萌芽が、すでに第5作『のび太の魔界大冒険』のラストにあったと大人になって気づいたときの衝撃に近い(ともに芝山努監督)。あまりにわかりにくいたとえで申し訳ない。だがそれほど私は驚いたのである。
シムノンは本作にいままであり得なかった第12章をつけ加えることで、作家として大きな成長を遂げたのだということはできないだろうか。本作の第12章は特別だ。なぜなら次の刊行作である『ゲー・ムーランの踊子』も、次の『三文酒場』も、目次を見ると全11章の構成に戻っているからだ。
私にとっては、このことがいちばんのどんでん返しだった。
シムノンは最後の1ページに、後年彼の作品を読む未来の読者たちにあっといわせる手がかりを、密かに仕込んでいたのである。その手がかりとは、作家シムノンの成長の足跡であったのだ。
【註1】
本連載では第5回で紹介した資料『シムノン・シネマ』の記述を典拠として、映画の製作年ではなく本国における公開年を記載する。この映画の製作年は1948年だが、公開は1950年1月。
【註2】
正規販売ソフトではないがBBC製作のルパート・デイヴィス版TVドラマも観たので簡単に感想を書いておく。このドラマは最初期のヒットシリーズで、総タイトルは『Maigret』[メグレ]。以前にも述べた通りロン・グレイナー Ron Grainer のテーマ曲は広く親しまれた。
ジーノ・セルヴィ版やジャン・リシャール版がじっくりと役者の演技で見せるのに対し、このルパート・デイヴィス版はとにかくテンポがいい。原作のストーリー骨格を踏襲しつつも、末節を積極的に刈り込んで1時間以内に収め、スタイリッシュなミステリードラマに仕上げている印象だ。高い人気を得たのも頷ける。ただルパート・デイヴィスのメグレは、ときおりアガサ・クリスティーのエルキュール・ポアロのように見える。全体的にフランスというよりイギリスっぽい。
こちらのウェブサイト(http://www.trussel.com/maig/penguin/penguin.htm)にペンギン・ブックスのメグレシリーズの書影があるが、躍動感のあるスチール写真に大胆な横線をあしらった1963-1965年のデザインは、このドラマのエンドクレジットを応用したものである。
【註3】
松村喜雄氏は著書『怪盗対名探偵』(双葉文庫、2000)で「デュヴィヴィエの「パニック」(「イール氏の婚約」の映画化)の字幕には、アクサンがついて、シメノンとなっている。(中略)けれど、筆者が出会ったフランス人やベルギー人は、ひとり残らずシムノンと発音した」と記し、当時の「シメノン」というカタカナ表記が映画由来であった可能性を示している。
そこで初期の映画『十字路の夜』(1932)、『黄色い犬』(1932)、『モンパルナスの夜』(1933)、『Annette et la dame blonde』(1941)、『Les inconnus dans la maison』(1941)、『Monsieur la Souris』(1942)、『署名ピクピュス』(1942)、『万聖節の旅人』(1942)、『L’homme de Londres』(1943)、『Cécile est morte!』(1943)、『Les caves du Majestic』(1945)、『パニック』(1946)の各タイトルクレジットを見たところ、確かに『黄色い犬』『署名ピクピュス』『Les caves du Majestic』『パニック』ではGeorges Siménonとなっていた。他は Georges Simenon 表記。
【註4】
《クーポール( La Coupole )》はパリのモンパルナスに実在する有名なブラッセリー(カフェレストラン・ビアホール)。1927年開業とのこと。公式ウェブページはこちら(http://www.lacoupole-paris.com)。
ここでビッグニュース! 本稿を書き終えてから、なんとドイツでルパート・デイヴィス版メグレシリーズのDVDボックスがアナウンスされた。世界初の映像ソフト化である。『Kommissar Maigret』Vol.1(9話収録)は2015年7月15日発売。嬉しい!
詳細はこちら。http://www.pidax-film.de/product_info.php?products_id=745
瀬名 秀明(せな ひであき) |
---|
1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞、1998年に『BRAIN VALLEY』で日本SF大賞をそれぞれ受賞。著書に『デカルトの密室』『インフルエンザ21世紀(監修=鈴木康夫)』『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『科学の栞 世界とつながる本棚』『新生』等多数。 |