書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。
暦の上では立秋を過ぎましたが、まだまだ感覚的には夏真っ盛りです。お盆で帰省されている方も多いでしょう。旅行のお供にはぜひ翻訳ミステリーを。今月も七福神をお届けします。
(ルール)
- この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
- 挙げた作品の重複は気にしない。
- 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
- 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
- 掲載は原稿の到着順。
千街晶之
『出口のない農場』サイモン・ベケット/坂本あおい訳
ハヤカワ・ミステリ
七月のベストは本書にするか、相変わらず魅力的な人間模様と謎解きで読ませるアン・クリーヴスの『水の葬送』にするか迷った結果、クリーヴスは以前に七福神で取り上げたことがあるので本書を優先することに。イギリスからの逃亡の果て、フランスの田舎町に辿りついた主人公は、足に傷を負い、ある農場に匿われることになるが……。主人公も農場の一家も何らかの秘密を抱えており、それを知られまいとしているせいで、互いの肚の探り合いが火花を散らし、物語はねじれにねじれてゆく。「法人類学者デイヴィッド・ハンター」シリーズの著者による、不気味な迫力に満ちた心理サスペンス小説だ。
北上次郎
『声』アーナルデュル・インドリダソン/柳沢由実子訳
東京創元社
邦訳3作目だが、今回も素晴らしい。それにしても、どうしてこれほど読みやすいのか。くいくい読んで、あっという間に読み終えるのである。今度こそ年間ベスト1は確定か。
酒井貞道
『声』アーナルデュル・インドリダソン/柳沢由実子訳
東京創元社
アイスランドを舞台にしたエーレンデュル捜査官シリーズの第四弾である。まずポイントになるのは、被害者グドロイグルの人生模様である。彼は少年時代に華々しく活躍しかけていたが、突如として転落し、以後四十年近くを細々と生き、クリスマスシーズンに、勤務先かつ居住所であるホテルの地下で殺害されてしまう。しかもサンタクロースの格好をして、だ。現在の孤独と栄光の過去の対比だけでも十分なのに、観光客やリア充でいっぱいのクリスマスの賑わいすら加わって、寂寥感が鮮烈に印象付けられる。さらに、エーレンデュル自身の苦難ある人生と、別件である子供の虐待事件のエピソードが、妙なる調和をもたらす。これらは、主筋のグロイドル殺しとは出来事としてはリンクしないが、内的・心理的・テーマ的には絶妙な関連を見せる。こういうのはモジュラー型警察小説の醍醐味と言えるのだが、その見せ方がうまい上に、アイスランドが小国(失礼!)しかも辺境(重ねて失礼!)であることを十分に活かした内容になっている。素晴らしい完成度。広く遍くオススメしたい。
川出正樹
『ネメシス 復讐の女神』ジョー・ネスボ/戸田裕之訳
集英社文庫
ネタは面白いんだけど、刈り込み不足と演出の手際の悪さ故、今一歩のところで傑作になり損ねていた感のある〈ハリー・ホーレ警部〉シリーズだけれど、本書は手放しでお勧めできます。
一切の手掛かりを残さない連続銀行強盗事件と、自殺として処理されたかつての愛人の不自然な死。せめぎ合うかのようにハリーを追い込む二つの事件に加えて、前作『コマドリの賭け』で積み残したエピソードまで絡んでくるため、ページを繰る手が止まりません。推理と検証を繰り返すたびに様相を変える局面と、想定を超える全体像に思わず嘆息。
「孫子は戦争の第一原理は欺瞞——騙しだと言っている。おれを信じてくれ——すべてのロマは嘘つきだ」。お互いの利益のためにハリーと共闘する伝説のロマの銀行強盗が吐く台詞が実に暗示的な騙し絵のごとき逸品だ。
霜月蒼
『ネメシス 復讐の女神』ジョー・ネスボ/戸田裕之訳
集英社文庫
熱い。とくに下巻に突入してからの加速が猛烈である。つんのめって指がもつれるような勢いでページを繰っていた。北欧警察小説を代表するノルウェーのネスボのハリー・ホーレ・シリーズ邦訳4作目。連続強盗事件と主人公ハリー自身をまきこむ殺人という2つのプロットに、マイクル・コナリー風の不敵なツイストを利かせ、さらにはハリーをつけ狙う悪徳刑事の企みをからませて、熱くスリリングな警察スリラーに仕立てている。この熱っぽい疾走を味わうのに、前作を読んでおく必要はない。これを読めば、前作『コマドリの賭け』を読みたくなるのは確実だし、未訳の続編を読みたくなるのはもっと確実だ。早く続きを読ませてくれ。
吉野仁
『出口のない農場』サイモン・ベケット/坂本あおい訳
ハヤカワ・ミステリ
ひとりの怪しげな男が田舎町の農場に迷い込み、そこから逃げられなくなってしまう。蟻地獄のような状況がじわじわと男を追い詰めていく。現在と過去が交互に語られ、次第に秘密が暴かれるというタイプの秀逸なサスペンスである。これと甲乙つけがたいのは、おくれて読んだリサ・バランタイン『その罪のゆくえ』高山真由美訳(ハヤカワ文庫)で、弁護士が主人公ながら、農場を舞台にした過去の謎が明らかになるという構成。トマス・H・クックに似た、あまりにも苦い人生の断面が描かれており、忘れがたい一作だ。来月刊某作とあわせて、噂どおり、今年は「農場ミステリ」の当たり年かも。
杉江松恋
『出口のない農場』サイモン・ベケット/坂本あおい訳
ハヤカワ・ミステリ
本当のことを言うと7月に読んでいちばんおもしろかったのは新訳版のカーター・ディクスン『ユダの窓』だったのだが、まあ、それはそれということで。数年ぶりに再読して、その構成の巧みさに驚嘆させられた。未読の方はこの機会にぜひ。というわけで新作から一つ選ぶとなると、かなり迷ってしまうのだが本書ということになる。ある状況の中に絡め取られた主人公が脱け出せなくなる、というだけのシンプルな物語なのだが、これが極めておもしろい。サスペンスの感覚が際立っており、読んでいる間はたまらない気持ちにさせられるからだ。ミステリーの基本に立ち返ったような作品で、学ぶことが非常に多かった。もう一冊、奥付では6月末の刊行になるのだが、クリスチアナ・ブランド『薔薇の輪』もぜひお薦めしておきたい。作品の途中で登場人物の一人が変なことを言い出すと、自明に見えていた前提条件が次々に覆り始め、今まではそう見えていなかったものに謎の要素が芽生えてくる。そういう波風を立てるというか、「要らんこと言い」の論理展開は、ブランドの独壇場だと改めて実感させられた。
良作が多く、目移りのする一月でした。今年の豊作ぶりを物語っているように思います。次月は三部作の完結編のアレとか、いろいろな作品が顔を出してきそうです。さて、8月はどうなりますことやら。どうぞお楽しみに。(杉)