書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。
そろそろ年末に向けての動きが出てまいりました。豊作揃いだった2015年、10月には隠し球も出揃うのではないでしょうか。その前にまず、先月のおさらいです。今月も七福神をお届けします。
(ルール)
- この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
- 挙げた作品の重複は気にしない。
- 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
- 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
- 掲載は原稿の到着順。
千街晶之
『ホテル1222』アンネ・ホルト/枇谷玲子訳
創元推理文庫
北欧ミステリにありそうでいて意外と少ない、「吹雪の山荘」に挑んだ異色作。列車が脱線事故を起こし、乗客たちは近くのホテルに避難する。ところが、そこで殺人事件が発生した。ホテルに集った二百人近い人間の中に潜む真犯人は? 荒れ狂う雪嵐、相次ぐ死者、反抗的な少年、ヒステリックな評論家、ホテル最上階にいる謎の客。混迷を極める事態に、車椅子の元警部ハンネ・ヴィルヘルムセンが直面を強いられる。謎解きそのものより、ノルウェー社会の縮図のような人間模様と、彼らを襲う極限状況の迫力が印象的な小説だ。
吉野仁
『調教部屋』ポール・フィンチ/対馬妙訳
ハヤカワ・ミステリ文庫
題名からして、間違いなくエロティックなサスペンスが展開されていく、と思うだろう。だが、あくまで連続女性失踪事件の捜査が物語の中心なのだ。こればかりは書かずに紹介できないし、ネタをばらすわけではない。そもそも版元がつけた邦題やカバー、帯がとてもヘンで偏ってるのだ(原題は、Stalkers)。ちょっと違うかもしれないが、リー・チャイルド〈ジャック・リーチャー〉シリーズに近い印象もある。絶体絶命の主人公とその相棒が窮地を切り抜ける展開の数々は、ヒーローものアクションの典型だ。トンデモ邦題のせいで、予想を大きく超えた活劇スリラーとなった。でも、シリーズ続編、読んでみたい。
川出正樹
『フェイスオフ 対決』デイヴィッド・バルダッチ編/田口俊樹訳
集英社文庫
これぞ本気の対決、ガチンコ勝負。まさに夢のような企画といっていい。
流行作家がお互いの人気シリーズのキャラクターを共演させる試みは、これまでも数多書かれてきたけれど、どこか腰が引けたジャブの打ち合いで終わってしまいがちで、ファン・サービスとしてはありだけど、一個の作品として見た場合、どうしても食い足りなさを感じてしまうものが少なくなかった。
まぁ色々と事情もあるだろうし、この手の企画モノはそこそこ愉しめればいいかぐらいの気持ちで本書も手に取ったのだけれど、申し訳ありませんでした。こんな真剣勝負を見せて貰えるなんて。
いずれもハイ・レベルな十一篇の中で、特に好きなのは「黒ヒョウに乗って」「忌むべきものの夜」「短い休息」。競演する二十二人の中に知らないキャラクターがいたとしてもまったく問題なく愉しめる。シリーズ・ファンへの贈り物であると同時に、新たなファンを生み出すに違いない理想的なアンソロジーだ。
北上次郎
『アルファベット・ハウス』ユッシ・エーズラ・オールスン/鈴木恵訳
ハヤカワ・ミステリ
若き英国空軍のパイロットがドイツ上空で撃墜され、負傷したドイツ軍人に化けたものの、着いた先は精神の病んだ者を収容する通称「アルファベット・ハウス」。その中の日々を描くのが第1部だ。二人の若きパイロットは幼なじみだが、病院を脱出するのは一人だけ。28年後の第2部では、ドイツに残した相棒を探しにいく話が展開するが、この基本ストーリーをどう肉付けしていくかが腕の見せどころ。ある意味ではシンプルな結構だが、ここから色彩感豊かな物語を紡ぎだすのは見事。
霜月蒼
『偽りの楽園』トム・ロブ・スミス/田口俊樹訳
新潮文庫
こう来たか!と唸った。『チャイルド44』で冒険小説とスパイ・スリラーの骨太な原点を繊細に描いたトム・ロブが三部作の次にドロップしてきたのは、大きなイベントでなく「語り」自体に重点を置いたドメスティックな心理サスペンスだった。隠された罪をめぐる狂気と嘘、それを象徴するような荒涼たる風景——本作はアーナルデュル・インドリダソンの作品と比較すると面白いし、いわば北欧ミステリへのイギリスからの回答とも言えそうだ。だがトム・ロブは変節したわけではなく、この閉塞した陰鬱さは旧ソ連3部作にもあった。物語を主人公の視点に落とし込む繊細な筆致もまた然り。そんな繊細な筆致を通じて、物語が読み手に肉薄してくる呼吸がトム・ロブの美点であり、それゆえにインドリダソンよりもおれはトム・ロブを推したい。次点は『カルニヴィア3 密謀』。
酒井貞道
『偽りの楽園』トム・ロブ・スミス/田口俊樹訳
新潮文庫
レオ・デミドフ三部作は、ソ連社会の七十年にわたるあらゆる歪みが主人公一家に集中して発現するという展開がどうにも作り物めいている(忌憚なく言えば、作家/物語にとって展開の都合が良すぎる)と感じられ、いまひとつ乗れなかった。しかし今回は違う。家族の問題は、両親と子の双方向の隠し事にベースが置かれる。親は暮らし向きの実態を子に隠し、子は自分が同性愛者であることを親に明かしていない。これらはもちろん深刻な問題だが、世界を一家族で体現するような大仰なものでない。そしてこの双方向の隠し事から生じる疑念や淀みが、《明らかに変調を来している母》の話が妄想か真実かを探るという、ミステリ的な本筋に、実によく馴染むのだ。そしてもちろん、この作家のことだから、ストーリーテリングは抜群にうまいのである。
杉江松恋
『ジゴロとジゴレット』サマセット・モーム/金原端人訳
新潮文庫
一瞬、新刊かな、と思ったが以前に出ていた田中西二郎訳の同題短篇集とは収録作が異なるし、新訳だからいいでしょう。え、モーム、と思わないでミステリーファンならまず本作中の「征服されざる者」だけでも読んでもらいたい。第二次世界大戦下のフランスが舞台で、駐留するナチスドイツの若い兵士と、彼に強姦されたフランス人女性との心理的闘争を描いた作品で、なんとも凄まじい迫力がある。まさに短篇、と言いたくなる切れ味であり、モームの印象がいっぺんで変わることは間違いない。その他「良心の問題」はフランス領ギアナの流刑地を舞台にした奇譚で、ある殺人者についての回想録とでもいうべき内容だ。そうかと思えば「アンティーブの三人の女」は、ダイエットに励む女性を主人公とし、滑稽極まりない。ダイエットという多くの人に関心あるであろうテーマがこんなおかしな小説になるのだ、と嬉しくなってくる(これは訳者のお手柄でもあると思うが、性差の固定観念にとらわれない女性の描き方が本当に見事である)。実に短篇集らしい短篇集だ。いわゆる「奇妙な味」などをお好きな方もぜひどうぞ。長篇では『偽りの楽園』が抜群におもしろかったのだが、目に留まっていない読者のほうが圧倒的に多いと思い、薦める次第です。
大作ラッシュだった8月に比べると、やや落ち着いた観のある9月でした。これは嵐の前の静けさか。次はいよいよランキング月間となる10月です。どうぞお楽しみに。(杉)