書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。
この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。
(ルール)
- この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
- 挙げた作品の重複は気にしない。
- 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
- 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
- 掲載は原稿の到着順。
川出正樹
『罪の水際』ウィリアム・ショー/玉木亨訳
新潮文庫
「とてつもなく悪いことが起きようとしている」。そんな休職中の刑事アレックスの述懐で幕を開けるウィリアム・ショーの『罪の水際』を読み始めた瞬間、これは傑作に違いないと直感した。舞台はイングランド南東部の英仏海峡を臨む町ダンジェネス。荒涼とした砂利浜の西端に二基の原子力発電所がそびえ立ち、背後には生態系豊かな沼沢湿地のある最果ての地だ。よく晴れた夏の日、幸せそうな観光客が溢れるこの海辺の町へと通じる軽量軌道鉄道の終着駅に併設されたカフェで、なぜか不吉な予感が頭から離れないアレックス。やがて花嫁どうしの結婚パーティを祝う一団を乗せた列車が到着し、祝宴の席に参加することになったアレックスは、涙を拭おうともせず近づいてくる年配の女性に気づき、急遽席を立つ。
ここまででわずか7ページ。この後2ページで劇的な一言とともに第一章が幕を下ろし、続いて、町で惨殺事件が起きたことが明らかにされる。アレックスは、過去の凄惨な体験が積み重なってPTSDを発症し休職中であるにもかかわらず、二つの事件の解明に乗り出す。
誰もが顔見知りである小さな町に暮らす人々の人生をしっかりと見据え、一見穏やかな風景の影にある悪意と悲劇を核に彼らが織りなすドラマを、理知と自尊心をベースに描き出す。隅々まで目を配って組み上げられた複雑なプロットと意外な真相、そして練り上げられツイストの利いたクライママックス。外連を排し、確かな人間観察力に基づく些細な違和感から推理し真相を見抜く。そんな英国ミステリが培ってきた精髄を心ゆくまで味わわせてくれる逸品だ。
ところで、本書を読んでるあいだ常に頭に浮かんでいた作品がある。イギリスのテレビドラマ史上空前のヒット作となった、デイヴィッド・テナントとオリヴィア・コールマン主演の警察ミステリ・シリーズ「ブロードチャーチ~殺意の町~」だ。両者には、舞台や主役の設定、住民同士の関係性など共通する要素が多分にある。「ブロードチャーチ~殺意の町~」は、2013年から2017年にかけて断続的にシーズン1から3まで放映され、後者は2017年にシリーズ第一作のThe Birdwatcherが刊行されていることから、ウィリアム・ショーの《アレックス・キューピディ》シリーズは、「ブロードチャーチ~殺意の町~」に触発されて誕生したのではないかと思うのだけれど、果たしていかに。ちなみに最大の共通点は作品に漂う空気感であり、具体的な設定は、むしろ意図的ではないかと思うほど対照的なので、どちらか一方を気に入った方は、ぜひもう片方を、どちらも未体験の方は、ぜひぜひ両方を味わってみてください。
霜月蒼
『#ニーナに何があったのか?』ダーヴラ・マクティアナン/田辺千幸訳
ハーパーBOOKS
今季最強のページターナーかもしれない。たいていの読者が一気読みしてしまうのではないか。オーストラリア在住の著者の日本デビュー作『#ニーナに何があったのか?』のことである。
冒頭でニーナという若い女性が恋人サイモンに不信感を感じ、山荘で彼に別れを告げるまでが不穏な空気とともに描かれ、物語はスタートする。ニーナは帰宅しない。彼女が恋人サイモンと出かけたことを知る母は、サイモンの両親に突撃して詰問する。警察に届け出がなされ、SNSで犯人探しが沸騰しはじめると、富裕層であるサイモンの父は業者を雇い、ニーナ一家の印象操作キャンペーンをSNSで展開する……。
真ん中に「謎」というブラックボックスを置き、二つの「家族」が我が子を守るためにダーティなチェスゲームを開始する物語。物語が進むとニーナに何があったのかはおぼろげに見えてくるが、核心部分は隠されていて、物語がどちらに進むか分からないのがいい。両陣営は相手に情報を隠し、読者のみがそれを知る。それゆえの皮肉な結末は、いい意味で古風なサスペンスのようであるし、最後の1行で鳴らされる「音」は、痛快から不安まで、重層的な音色の交じるものだ。なかなか技巧的な好編でした。
ほか、フェリック・フランシス&加賀山卓朗『覚悟』の「これぞ王道」なスリラー感に、最高にうまい洋食屋のような愉楽をおぼえました。
吉野仁
『覚悟』フェリックス・フランシス/加賀山卓朗訳
文春文庫
読むまえに「覚悟」したのは、茂雄を期待しながら一茂だったらどうしようという一抹の不安だった(引合に出して失礼!)。しかもシッド・ハレーの登場なのだ。『大穴』『利腕』を何度も読みかえしているわたしにとって単にフランシスの息子がシリーズ新作を書き継いだという以上に高いハードル(障害)がはなから待ちかまえている。だがそれは杞憂におわった。型どおりに展開しながらも、フランシスの主人公ならそうつぶやくだろうという決めの独白をはじめ、絶妙な塩梅で踏襲しており知らず興奮はおさまらない。それでも義父やチコとの関係など前2作を知っているからこそ楽しめる部分も多く、競馬シリーズ未体験の読者がこれを気に入ったならぜひ『大穴』『利腕』に向かって欲しいと念を送るばかりである。チコ甘えてばかりいてごめんねシッドはとっても幸せなの、なんて戯れ歌、誰にも通じないことはすでに知っているが。もう一作、こちらも夢中で読んでいったのがウィリアム・ショー『罪の水際』だ。主人公は休職中の女刑事アレックスで海辺の町ダンジェネスを舞台に、町の人々の秘めた謎から悲劇が起きて、という展開だ。三人称ながらPTSDを患うヒロイン、彼女の人間関係、探偵行の流れ、荒涼とした土地の風景など、どれをとっても巧みに描かれており、CWAゴールド・ダガー最終候補作というのも納得である。しかもこれシリーズの五作目であり、第一作の主人公はアレックスではないというのでぜひぜひ最初から読んでみたい。今月も豊作なのかやたら夢中にさせられる本はつづく。ダーヴラ・マクティアナン『#ニーナに何があったのか?』は、サイモンとニーナの若いカップルが休暇中の山間の別荘にやってきたものの、ニーナひとりだけが行方不明となり、心配した家族は捜索をはじめた、というサスペンス。自国ならぬ家族第一主義、マスコミではなくSNSが騒ぎ立てる(ゆえに「#ニーナ」)という、トランプ大統領時代にふさわしいきわめて現代的な趣向と思いつきのような展開でこれでもかと謎を深め次のページを読まずにおれなくさせていく。さぁいったいニーナにナーニがあったのか。おそらくこれから世界的にこの手のドメスティックスリラーが流行していくのだろう。エイミー・チュア『獄門橋』は、獄門などとおぞましい題名がついているものの、原題はザ・ゴールデン・ゲートで、ごぞんじカリフォルニアの有名な橋のこと。終戦間際のアメリカ西海岸を舞台に、蒋介石夫人まで登場する歴史ミステリだ。とりわけサンフランシスコに興味のあるわたしは読みごたえたっぷりだった。歴史ものといえばピエール・ルメートル〈栄光の時代〉シリーズ第一作、『欲望の大地、果てなき罪』もまた第二次大戦後のフランスとインドシナを舞台に、富豪一家、四人の兄妹それぞれの運命を追う大河小説。歴史の闇をあばき家族の運命を描いた人間ドラマかと思えば、前半のある場面でガツンと驚かされてしまい、さすがルメートルで、この続きをはやく読みたいぞ。
千街晶之
『密やかな炎』セレステ・イング/井上里訳
早川書房
五月の新刊では、テーマ的には似通っているが印象は異なる二作品が印象に残った。アメリカの作家セレステ・イングの『密やかな炎』と、アイルランド出身でオーストラリア在住の作家ダーヴラ・マクティアナンの『#ニーナに何があったのか?』である。『密やかな炎』では、リチャードソン家という裕福な一家の末娘が自宅に放火したらしい……という事件が冒頭で描かれ、そこから過去に遡って、リチャードソン家と借家の住人ウォレン家の関係が綴られる。鼻持ちならないエリート意識に囚われたリチャードソン家の母親エレナと自由を愛する芸術家タイプのウォレン家の母親ミア、そしてそれぞれの子供たちの交流が、幾つかの原因からこじれてゆき、誤解に誤解が積み重なってカタストロフィに至るまでが丁寧に描かれていて読み応え充分だ。一方、ニーナという大学生の失踪から始まる『#ニーナに何があったのか?』はタイトルから想像される内容とはやや異なり(失踪の真相は途中であっさり明かされる)、娘の行方を必死で知ろうとするフレイザー家の両親と、嫌疑をかけられた息子(ニーナの恋人)を守り抜こうとするジョーダン家の両親の、マスコミやSNSを利用した情報戦の行方がメインとなっている。我が子を思うあまりの親の暴走が二組の家族同士の確執を招く点や、登場人物それぞれの表の顔と裏の顔を群像劇の構成によって掘り下げた点は両作品に共通しているが、『密やかな炎』は階級や人種の問題といったアメリカの社会的事情を浮き彫りにすることに重点が置かれ、『#ニーナに何があったのか?』はSNS社会の暗部を強調している。小説としての深みという点でここでは前者に軍配を上げておくけれども、ややラストを綺麗にまとめすぎた感もあり、最終ページの切れ味という点では後者を評価したい。
上條ひろみ
『罪の水際』ウィリアム・ショー/玉木亨訳
新潮文庫
なんとなくアン・クリーヴスを思わせる警察小説だ。イングランドはケント州南東部の海辺の町ダンジェネスを舞台に、PTSDの治療のため休職中にもかかわらず、女性刑事アレックスが町で起きた事件を独自に捜査するウィリアム・ショー『罪の水際』(玉木亨訳/新潮文庫)は、〈刑事アレックス・キューピディ〉シリーズの第五長編で、CWA最優秀長編賞最終候補作。
凄惨な犯罪現場や捜査中の壮絶な体験により、悪夢に悩まされているアレックス。仕事は抜群にできるが、曲がったことが大嫌いで融通の効かない性格のため、元同僚を窮地に追い込んだこともある彼女が(その四角四面な性格のせいでメンタルを病んでしまったのかも)、だんだんと変化していく過程やその心の葛藤が丁寧に描かれていて、読んでいるうちに共感を持てるようになっていくのが心地よい。憎まれ口を叩きながらも母を心配するゾーイはいい娘だなあ。よくも悪くも濃密な田舎の人間関係に絡め取られて葛藤する人びとが哀しくも愛おしい。
アレックスの両親はともに警察官で、その両親が主人公の1960年代ロンドンを舞台にした〈刑事キャサル・ブリーン&女性警官ヘレン・トーザー〉シリーズというのもあるらしい。警察官サーガですね。若き日の両親の活躍も、アレックスのこれまでのシリーズもぜひ読んでみたい。それには本書が売れないといけないらしいので、みなさんぜひ読みましょう。アン・クリーヴスのファンには間違いなくお勧め。
アシュリー・ウィーヴァー『金庫破りの謎解き旅行』(辻早苗訳/創元推理文庫)は、第二次大戦中のロンドンで女性錠前師エリーがスパイの手先となる『金庫破りときどきスパイ』シリーズの三作目。今回エリーは極秘任務(もちろん金庫破りつき)のため北部のサンダーランドへ向かいます。軽快さが魅力の謎解きミステリで、エリーの金庫破りのスキルが遺憾なく発揮されるスリリングなシーンや、イケメン貴族だけど何を考えているかよくわからないラムゼイ少佐とのラブコメ展開、エリーの両親をめぐる暗い秘密など、今回も飽きさせません。柿沼瑛子さんの解説がナイスすぎて共感の嵐でした。
リース・ボウエンの『貧乏お嬢さまと消えた女王』(田辺千幸訳/コージーブックス)も同じ時代(と言っても戦争前夜の1936年)のイギリスが舞台。国王エドワード八世ことデイヴィッドの親戚であるジョージーは、国王の恋人であるあのシンプソン夫人を屋敷に匿いつつ、屋敷で映画の撮影をしたいというハリウッドの撮影隊を迎えるハメに。想像以上のドタバタが楽しい一冊で、一児の母となり、たくましくなったジョージーの成長に胸熱です。
酒井貞道
『罪の水際』ウィリアム・ショー/玉木亨訳
新潮文庫
ダンジェネスという特徴的な土地を舞台にした、現代英国謎解きミステリの登場である。アン・クリーヴスに匹敵し得る才能がいたんだと驚愕しました。私が解説を書いている作品ではありますが、そんなことはどうでもいい。土地柄と人間描写、人間模様を丁寧に描いて、それがシームレスに謎、ヒント、伏線、謎解きに、実直に繋がっている心地よさ。これはイギリスの優れた現代謎解きミステリ「ならでは」と言ってもいい特徴で、だからこそ読む価値があるのです。この作品単体でも十全に楽しめるはずですが、恐らく、この作家はシリーズ全体で読めば更に味わいを増すタイプだと思います(これまたアン・クリーヴスと同様)。本書が売れて、翻訳が増えると良いのですが。
杉江松恋
『罪の水際』ウィリアム・ショー/玉木亨訳
新潮文庫
こういうのが英国推理の醍醐味だよなあ、と言いたくなる作家が毎年紹介される。今年はこれだな。英国推理というのはいかにもイメージ先行の言い方で申し訳ないのだが、人物造形が優れており、それが描かれた風土と融け合った形で書かれているというのが第一の条件である。一人として同じような登場人物はおらず、彼らの多岐に渡る性格描写が、ミステリーとしての謎解きにしっかりと結びついていなければならない。立体的に性格が描かれる人物も、平面的なキャラクターも物語上の役割をきちんと担って舞台に登場するということだ。それに加えて視点人物である主人公が世界に向ける視線に特徴があり、だからこの人が主人公なのだ、と読者を納得させてくれなければいけない。
『罪の水際』は上記の条件をすべて満たした小説である。主人公のアレックス・キューピディは休職中の警察官だ。パニック障害のため、世界が時折危険に満ちたものに見えてしまう、という視点人物のありようがおもしろい。実際にはそんなことは起きていないのに、景色の中に今まさに人を殺そうとしている者を見てしまうのである。PTSDの原因となった出来事については序盤に説明がなく、物語の中で少しずつアレックスの人となりが明かされていくことになる。他にもいくつか語られない要素があり、それらを知りたくなってページをめくらされてしまう。
複数の事件を同時に追っていくという形式の警察小説である。休職中だからアレックスの行動は制限されており、誰もが知り合いであるという小さい町の事情が見えるものに紗をかけてしまう。うまい舞台設定だ。謎は複数あるので、それに関する手がかりがかわるがわる物語の表面に浮上してきては読者に注意を呼び掛ける。ずっと緊張が途切れない物語運びも抜群に巧い。そうそう、こういう小説を読みたいのだよ、と思いながら堪能した。500ページ超という分量は、まったく気にならなかったな。
票が割れた先月とはがらりと変わって集中した五月でした。全体的には、イギリス勢強し、ということになるのでしょうか。こういう波があるから毎月おもしろいんですよね。来月はどうなりますことか。どうぞお楽しみに。(杉)
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