書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。

 (ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。
  6.  

 

川出正樹

『罪に願いを』ケン・ジャヴォロウスキー/白須清美訳

集英社文庫

 ケン・ジャヴォロウスキーの『罪に願いを』を読み終えて、今この作品に出会えて良かったと感慨に耽っている。舞台はラストベルトに点在する寂れたスモールタウンの一つ、ロックスバーグ。活気が失われて久しいこの町で、問題を抱えながらも質素で平穏な生活を営んでいた三人の住民が、それぞれある出来事をきっかけに犯してしまう“罪”の顛末を、抑制の利いた文章で活写した、やるせなくも一抹の爽快感のある犯罪小説だ。

 幼い頃から、「外から見れば何事もなく、物事を深く考える住人などいないと、ほとんどの人が思うような町」を出て行きたいと思い続けながらも叶えられずにいる組立工場従業員でありボランティア消防隊員でもあるネイサン。長年医師も機材も不十分だったため住民からも頼りにされていない病院で誠心誠意働く看護師キャリー。元麻薬常習者で同じ状態にあった妻とダウン症候群を患う娘とともにつましく暮らすガソリンスタンド従業員のアンディ。

 閉塞感漂う日々に降って湧いた事態によって、それまで鬱屈を押さえ込んでいたリミッターが外れた三人は、ままならない人生に、不公正な社会に、人道にもとる悪に一矢報うべく“罪”を犯す選択をし、その過程で自身の最も弱い核と対峙することになる。明らかな犯罪行為から、社会的には禁じられているものの人間として悪い行いと言い切れるのかというものまで、三者三様の行動を通じて作者は、現在のアメリカ社会を覆う根源的な問題を照射する。ラストに見えた三つの景色を希望ととるか絶望と取るか。今まさに読んで欲しい今年を代表する作品だ。

 他にも秀作揃いの六月だった。一年前に失踪した妹を探し続ける姉と連続拉致犯“わたし”の軌跡が交叉した時、全編にわたっていかに周到に罠が仕掛けられていたかが判明し作者の手腕に唸るキャサリン・ライアン・ハワードの『罠』(髙山祥子訳/新潮文庫)。騙し巧者ピーター・スワンソンによる非クローズド・サークル型『そして誰もいなくなった』というべきコペルニクス的転換のサスペンス『9人はなぜ殺される』(務台夏子訳/創元推理文庫)。前作に引き続き主人公エーレンデュルが不在の中、同僚のシグルデュル=オーリが自身も関係者となってしまった恐喝犯罪絡みの殺人事件を探るアーナルデュル・インドリダソンの『黒い空』(柳沢由美子訳/東京創元社)。正邪渾然一体となった真相がもたらすやるせない読後感という“灰色の物語(グレイ・サガ)”のごときシリーズの持ち味は今回も健在だ。

 

千街晶之

『罠』キャサリン・ライアン・ハワード/髙山祥子訳

新潮文庫

 個人的に、殺人事件よりも失踪事件の報道のほうに、ざわざわするような落ち着かない恐怖を覚えることが多い。殺人は誰かの悪意によって起こされたことが明らかだが、失踪は本人の意思によるものか、他人による拉致か、それとも事故の結果なのかが判然としないし、失踪者が見つかるまでは生死すらもわからない宙吊り状態が続くからだ。予測不能な展開のサスペンス小説を得意とするアイルランドの作家キャサリン・ライアン・ハワードの『罠』も、そんな失踪特有の恐ろしさを描いた作品だ。作中で扱われる事件は、若い女性ばかりが姿を消す連続失踪事件。主な視点人物となるのは、行方不明になった妹の行方を捜すのに必死のルーシー、警察の失踪者捜索班の職員(警察官ではない)アンジェラ、そして「わたし」という一人称で表される謎の人物。この「わたし」の語りが曲者で、「何が語られているか」だけではなく「何が語られていないか」にも注意しなければならない。序盤はこの作家の小説にしては比較的ストレートに思えるかも知れないが、やがてパターンから外れた要素がどんどん現れ、物語の異様な構図が明らかになってくる。巻末の「著者からの覚書」によると、アイルランドで実際に起こった複数の失踪事件を念頭において執筆された小説らしいが、ティム・クラベの小説『失踪』(あるいは、その映画化作品『ザ・バニシング 消失』)を意識したのではと思わせるくだりもある。掟破りの真相に暗然とさせられる問題作だ。

 

上條ひろみ

『地中海クルーズにうってつけの謎解き』ドーン・ブルックス/田辺千幸訳

創元推理文庫

 夏ですね! 夏が来てもウキウキしなくなったのは、昔とは大違いのこの暑さのせいでしょうか、それとも……。さて、クルーズ旅行に憧れるけどとりあえずこの夏は無理! という方に朗報です。『地中海クルーズにうってつけの謎解き』なら、大型の豪華客船で二週間の地中海クルーズを楽しみながら謎解きができます。寄港地でも船内でも殺人が起こり、観光もアクティビティもぎっしり詰まって、たったの279ページというコンパクトさも魅力。しかもシリーズ一作目。まさにこの夏の旅のおともに「うってつけ」ではありませんか。たとえ旅に出られなくても、クルーズ船の内部の様子やアクティビティが詳しく描かれているので、旅気分が存分に味わえます。

 新米警察官のレイチェルは、失恋の痛手を癒すため、友人のサラが看護師として働く豪華客船の地中海クルーズに参加。ところが不審死や殺人未遂が相次ぎ、レイチェルはサラの内部情報をたよりに事件を調べはじめます。たしかに看護師なら乗客や乗組員のいろんな事情がわかっちゃいますよね。ちなみに著者は元看護師で、趣味はクルーズ旅行ですって、やっぱり。

 お待ちかねのピーター・スワンソン『9人はなぜ殺される』(務台夏子訳/創元推理文庫)は、ご存じクリスティのアレがちらつくページターナー。タイトルどおりホワイダニットが最大の謎なわけですが、終始ゾクゾクが止まらない! 9人のリストに自分の名前が入っていて、その9人がひとりずつ殺されていくんですから。しかもまったく身に覚えがない! どうか皆さんも力技でねじ伏せられてください。

 フランシス・ビーディング『イーストレップス連続殺人』(小林晋訳/扶桑社ミステリー)を一切の予備知識なしに読んだら、なんとなく1960年代の話かな?という印象なのに、1931年に発表された作品と知って驚きました。これはたしかに「早すぎた傑作」。ジャンルでくくれない不思議な魅力があります。ドロシイ・B・ヒューズ『ゆるやかに生贄は』(野口百合子訳/新潮文庫)はアメリカン・ノワールの先駆的名作で、途中あることが明らかになって、すべてがくるりとひっくり返る仕掛けが見事。L・M・チルトン『死のマッチングアプリ』(山田佳世訳/ハヤカワ文庫HM)は突っ走るヒロインがちょっと疲れるけど、ラストの疾走感はなかなか。マッチングアプリより怖いのはやっぱり人間?

 

吉野仁

『9人はなぜ殺される』ピーター・スワンソン/務台夏子訳

創元推理文庫

 差出人不明の手紙に書かれた9つの名前。物語はそのリストの9人を順に追っていく。そして彼らは次々と死ぬ運命にある。なぜ、どうして、だれが、なんのために。思考をめぐらせながらページをめくっていくものの、とうぜんすべての予想は裏切られる。海外ミステリ愛読者なら誰もが読んだことのあるだろうアガサ・クリスティの名作を下敷きにしながらも、名手スワンソンならではの大胆なサスペンスが展開していくのだ。これはもうたまらない。文句なしにベスト。で、リストの人たちが次々に殺されるといえば、L・M・チルトン『死のマッチング・アプリ』で、ヒロインが出会ったダメ男たちも同じく順番に死んでいく。容疑者として警察にマークされながらもヒロインはまだ殺されていないマッチング相手に会い、殺人鬼の正体をつきとめようと奮闘する。スワンソンと異なり、軽い感覚と強引な展開で読ませてゆき、いくらなんでもという結末ながら、作者は男性でデート中毒者とあり、この事実のほうがより驚いたかもしれない。一方、対照的にものすごく難渋な作品がジェシカ・ノール『夜を駆ける女たち』だった。大学の女子寮で学生が殺された場面から幕を開けるのだが、これは名前を書けば誰もが知っている実在の連続殺人鬼をモデルにしたミステリなのだ。ぐうぜん事件を目撃したヒロインが犯人を追っていくのが話の軸とはいえ、彼女の視点で当時の出来事がくわしく語られていくのに対し、なかなかこちらの理解が追いつかなかった。アーナルデュル・インドリダソン『黒い空』は、〈犯罪捜査官エーレンデュル〉シリーズ第8弾ながらも前作同様エーレンデュルは登場せず、主人公は友人の厄介ごとがらみの犯罪に巻き込まれた捜査官シグルデュル=オーリだ。そのせいか、これまでとは感触が異なり、刑事らしからぬ庶民的な人間くささがあちこちに感じられる物語で、すごく味わいぶかかった。ドロシー・B・ヒューズ『ゆるやかに生贄は』は、1963年発表のもので、アメリカでは今世紀になってから再評価され有名な叢書に復刊収録されている名作だ。ヒューズは江戸川乱歩が注目した初期作こそ翻訳がつづいていたが、肝心の戦後の代表作が邦訳されず残念に思っていただけに今回の「海外名作発掘」はとてつもなくうれしい。もう一作『ピンクの馬にのれ』が残っているけど。同じく新潮文庫で、作品ごとに趣向を凝らし話題にのぼるキャサリン・ライアン・ハワードの新作『罠』もまた出だしは『ゆるやかに生贄は』と似たようなところがある(男の運転する車に夜ひとりで歩いてた女性が乗る)ものの、こちらは失踪した妹の行方を探す姉の物語で、仕掛けられた「罠」に驚かされる。姉妹といえば、サリー・ヘプワース『グッド・シスター』もまた双子の姉妹の話で、それぞれの視点で過去や現在が語られる心理スリラー。妹の職場が地元の図書館であることから本の話題も多く、そのすこし頭がぼんやりしている妹の描き方がじつにうまい。そして最後にケン・ジャヴォロウスキー『罪に願いを』は、アメリカの現実をつきつける衝撃的な犯罪小説だ。もし近年のアメリカに興味があるのならぜひ読んでほしい。ラストベルト地域、ペンシルヴェニアの寂れた田舎町における三人の男女を描いたもので、ひとりは火災現場で見つけた大金を横領し、ひとりは生まれつきの疾患をもつ看護師で、もうひとりは元麻薬常用者で妻とともに再生をめざすもうまくいかず、という三者三様の救いのない人生が描かれていく。けっして洗練された小説とは言い難く、ざらざらした感触を受けるものの、もう心も身体も深くえぐられるような痛切なラストが待ち受けている。これはただものではないと思わされた。

 

酒井貞道

『ゆるやかに生贄は』ドロシイ・B・ヒューズ/野口百合子訳

新潮文庫

 1960年代、ヒッチハイクしていた十代の少女を、主人公の青年医師ヒューが車に乗せてあげたら、街で降ろした後も追いかけてきて堕胎手術してくれと迫ってくる。断って追い返したら今度は彼女が死体で発見されてしまい、ヒューは警察から疑われてしまう。ヒューは知人の協力も得て、濡れ衣を晴らそうとするのである。この危機に対してヒューが抱く恐怖はシリアスなものであり、行動は見るからに必死である。と同時に、どこか諦めもあって、最終的にはどうなっても構わないと言わんばかりの態度や言葉を示す場面もある。ここで、読者は思うはずである。「主人公はなんでこんなにビクビクしているの?」その理由ははっきりしている。だが言えない。そこがミステリ的な仕掛けの在処だからである。ただしそれが判明するのは中盤であり、その後で、この物語は、自らがどういう小説であるのか性格をはっきりさせるのだ。そして、通常のミステリであれば最終盤でちょろっと描くだけで終わる「判明後に読者に明かされた真のテーマ」を、本書は中盤以降しっかりと深掘りし、小説として血肉化していく。現代のアメリカ、いや現代の全世界が、いまだに直面している問題が、62年も前に書かれた作品にもここまで明瞭に刻印されている。なお息苦しい小説ではなく、ユーモアや希望もあるのが救いで、読んでいて暗澹とした気分にならないのは救いだ。しかし、その救いの一部として描かれる女性登場人物には、「ワシントンD.C.から来た」という属性が開放的なニュアンスをもたらしている。62年後の現在のワシントンD.C.にこのようなニュアンスを求めるのは不可能であり、私は1963年の小説にではなく、2025年の現実に絶望した。いずれにせよ、今読むべき価値のある作品であり、傑作。

 

霜月蒼

『夜を駆ける女たち』ジェシカ・ノール/国弘喜美代訳 

ハヤカワ・ミステリ

 ピーター・スワンソンやインドリダソンなどご贔屓の作家たちの好編がドカドカ刊行された6月、年末ランキングをにらんでの目玉作品ラッシュがはじまってきたようである。迷った末に、まだ日本ではあまり名の知られていないジェシカ・ノールの二作目の邦訳『夜を駆ける女たち』を推すことにした。不用意に触れればこちらも火傷を負いそうな野心作だからである。

 謎めいた序章ののちに物語は一気に1978年にさかのぼり、女子大学寮で深夜に発生した凄惨な殺傷事件が描かれる。主人公のパメラは、現場から逃走する犯人の男と鉢合わせしつつも難を逃れた。寮生2人を惨殺、2人に無残な傷を負わせた犯人は脱走中のシリアルキラーであり、ほどなくして逮捕された。犯人は自分の弁護を自分でするとぶちあげたという……。

 シリアルキラーの元祖とも言われるテッド・バンディ事件に材をとり、傲岸な男性殺人者に命や尊厳を奪われる女性たちを描く文芸寄りの犯罪サスペンス。事件の公判を追うのではなく、犯人に殺害された別の女性の人生のドラマを描き、主人公の苦悩を描き、犯人を「すごいやつ」のように扱って真実から目を背けるメディアや男たちを容赦なく描く。義憤の域を超えてページのこちらまで攻め込んでくる著者のエネルギーは強烈で、「野心作」という言葉がここまで似合う作品もないのではないかと思わされた。作中で犯人の名前を一切出さず、徹底して卑小な人物として描く意志にも圧倒された。

 ほか、アメリカのラストベルトの荒廃をスモールタウンの人々の悲痛な戦いを通じて描いたケン・ジャヴォロウスキー『罪に願いを』がすばらしかったが、本稿ではジェシカ・ノールの怒りの熱をとることにした。読み終えてしばらく、何かに殴られた痣のようなものが残り続けている気がしたのだ。

 

杉江松恋

『黒い空』アーナルデュル・インドリダソン/柳沢由実子

東京創元社

 アイスランドを代表するミステリー作家の、エーレンデュル捜査官シリーズの邦訳第八作だ。といっても、前回訳された『悪い男』に続き主人公であるはずのエーレンデュルが開幕早々不在であることがわかる。休暇に行ったまま音信不通なのである。で、今回はエーレンデュルの同僚であるシグルデュル=オーリが主役を務める。

 という話であることを前作『悪い男』の訳者あとがきで知って、おいおい大丈夫か、と思った。『悪い男』の主人公は、これまたエーレンデュルの同僚であるエリンボルクなのだが、彼女の口から何度も、シグルデュル=オーリがごりごりの男性優位主義者で人の話をまったく聞かない独善的な性格であると語られていたからだ。そんなやつが主人公の話を楽しく読むことができるのだろうか。

 心配しつつページを繰ってみたところ、早々に杞憂であることがわかった。なるほどね。これは欠陥のある人物を中心に配して、彼の歪みを通じて社会を見るというタイプの犯罪小説なのだ。犯罪小説とは個人と社会とのかかわりを描くものだから、カメラに生じた歪みや瑕がそのまま見ている者に伝わってくる。うまい書き方をするものだ、と感心させられた。だいたい話の始まり方から偏っていて、シグルデュル=オーリが友人から依頼を受け、あるリベンジポルノ案件を内々に解決するために動く。その結果暴行事件の目撃者になってしまうのだ。この事件が物語の軸になる。シグルデュル=オーリは事件関係者の知人だから捜査に加わるべきではないのだが、彼は自分を正当化し、同僚の意見も無視して、そのまま居座ってしまうのである。おいおい。シグルデュル=オーリは自分が間違っているかもしれないという可能性を基本的に無視する男なので、物語はかなりねじ曲がったものになっている。ねじ曲がっているのにそれに無自覚な男の物語として、私はたいへん楽しく読んだ。

 ひさしぶりに全員ばらばらの月になりました。豊作です。全体としては犯罪小説強しと感じましたが、探偵小説エッセンス充分な作品もあり本当にばらばら。この調子でどんどん行ってもらいたいです。(杉)

 

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