L’affaire Saint-Fiacre, Fayard, 1932[原題:サン・フィアクル事件]

『サン・フィアクル殺人事件』創元推理文庫139-5、三輪秀彦訳、1986*

『サン・フィアクルの殺人』創元推理文庫190、中村真一郎訳、1960

Tout Simenon T17, 2003 Tout Maigret T2, 2007

映画『メグレ警視 サン・フィアクル殺人事件』ジャン・ドラノワ監督、ジャン・ギャバン、ヴァランティーヌ・テシエ出演、Maigret et l’affaire Saint-Fiacre, 1959(日本公開は1986年4月)

TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、1980(第45話)

TVドラマ『メグレ警視21 サン・フィアクル殺人事件』ブリュノ・クレメール主演、Maigret et l’affaire Saint-Fiacre, 1995(第19話)

TVドラマ『ホーム・グラウンドのメグレ』マイケル・ガンボン主演、Maigret on Home Ground, 1992(第5話)[故郷のメグレ]

 私は本作の順番がやってくるのを楽しみにしていたのだ。ジャン・ギャバン主演で映画化された作品であるし、メグレの生まれ故郷が舞台だと聞いていたからである。

 だが、さすがにこれはだめだ。申し訳ないが、いままで読んだなかでいちばん出来の悪い作品だと感じた。なぜかシムノンは、『メグレと運河の殺人』『ゲー・ムーランの踊子』のように、自分がよく見知ったはずの舞台を描くと筆にキレがなくなる。本作も同じだ。

 メグレの幼少期のことが出てくるのは確かに興味深いのだが、物語としてそれ以上の奥行きが見られない。そしてかなり意外だったのだが、私は本作の方が『サン・フォリアン寺院の首吊人』よりもずっと江戸川乱歩の世界に近いと感じた。私は乱歩も好きなので、この印象を決して悪口に転換したくはない。だが本作の思わせぶりで大仰な筆致は乱歩に似ている。

 あと、作者は前作『メグレと死者の影』で描いた怒りを引きずっているのだろうか? 本作では最初から登場人物がみな癇癪を爆発させている。地の文では最初から「!」が踊りまくる。人物以上に文章が落ち着いていない証拠だ。

 なにより決定的にまずいのは、メグレが事件を解決しないことである。メグレは故郷に帰りながら、何の働きもなし得ない。そのあたりも乱歩の世界に近いのではないか。

「死人祭の最初のミサのあいだに、サン・フィアクルの教会で犯罪が起こる旨をお知らせいたします」

 発端は、パリ司法警察のメグレに謎の手紙が届いたことだった。メグレの生まれ故郷で何かが起こることをほのめかしたこの手紙に導かれ、メグレは久しぶりにサン・フィアクルへ戻ったのである。「死人祭」の原文は Jour des Morts、11月1日の万聖節としてもよいのかもしれないが、訳文ではカトリック教会で死者に祈禱を捧げる11月2日(万聖節の翌日)だと註が添えられている。

 前作『メグレと死者の影』でも万聖節は出てきたが、事件はその翌日ではなく、おそらく3年前のことだろう。理由はすぐ後で書く。

 このサン・フィアクルの地には古くから伯爵の一族が館に住んでおり、メグレの父親は30年もその館の管理人を務めていたのである。メグレ一家は館の離れに住み、幼いころのジュール・メグレは美しいサン・フィアクル伯爵夫人にほのかな想いさえ抱いていた。いまはゴーチエという男がメグレの父の後継者として館を管理している。

 メグレは前日のうちにサン・フィアクルに着き、幼なじみのマリイ・タタンが切り盛りしている宿に泊まった後、早朝のミサへ足を運んだ。メグレは注意深く人々の様子を窺う。そこには懐かしい伯爵夫人の姿もあった──だが福音書朗読のとき、まさに事件は起きた。伯爵夫人が動かない。夫人は祈祷席に座ったまま、心臓発作で死んでいたのである。

 呼ばれた医者が伯爵夫人の氏を確認した。ブーシャルドンというその医者は気づかないようだが、メグレはこの男と小学校がいっしょだった。この部分は原文でも「彼」という三人称が使われていて文意が取りにくいが、おそらくこういうことだ。ここでメグレは、医者が気づかないのも当然だ、自分はもう42歳だし、太ってしまったからだと感じている。『怪盗レトン』で正式に主役デビューしたときのメグレは45歳、季節は11月であったから、本作はそれより3年前の事件となるわけだ。

 舞台のサン・フィアクル Saint-Fiacre は、ムーラン Moulins から25キロの場所だと書かれている。ムーランはパリから南へ260キロ下ったところの町で、地中海沿岸の都市モンペリエとの中間くらいに位置する。地図を見るとムーランから25キロ圏内にはサンなんとかという地名がいくつもあるので、これらの小村がモデルだろう。【註1】

 故郷へ戻ってきたメグレが見たものは、少年期の甘い思い出を打ち砕くような現実だった。メグレの父が仕えていた伯爵は既に亡くなり、伯爵夫人はジャン・メタイエという若い秘書を雇っていたが、彼は夫人の愛人であった。伯爵位を継いだ30歳の放蕩息子モーリス・ド・サン・フィアクルは、パリで資産を食い潰していた。医者は伯爵夫人の遺体を安置した寝室で、平気で煙草をふかしている……自分は我慢しているというのに、ブーシャルドンはメグレが神聖だと感じていた館のなかで煙草を吸っている! 

 道楽息子モーリスがスポーツカーを駆って、恋人を連れて戻ってくる。確かに自分は母の死を願っていた、そうすれば遺産が手に入るからだ、とモーリスはいう。伯爵夫人の心臓が弱っていた原因のひとつは、確かに息子との確執であった。そしてメグレは、伯爵夫人が死ぬ直前に見ていた祈禱書が教会からなくなっていることに気づく。

 捜査が始まってもメグレは苛立ちを押さえきれない。父の墓前に向かう途中で、オレンジを売っている老婆を見かけたときの描写がこうだ。

 オレンジ! 大きくって! 熟してなくって! 冷たい……歯を痛めるし、のどを悪くする。しかし、十歳の頃、メグレはそれでもオレンジをかじった。なぜなら、彼はオレンジが好きだったから。

 エヴァリスト・メグレ Evariste Maigret──それが父の名である。メグレは墓前で次のように思う。

 彼は館へ帰りたくはなかった。あそこには、何か彼の気分を悪くさせ、腹を立てさせるものがあった。

 彼はもちろん人間に対して、なんらの幻想もいだいていなかった。それでも彼は、幼年時代の追憶を汚す者には激しい怒りを感じた! とくにあの伯爵夫人、まるでおとぎ話の主人公のように気高く美しく見えたのに……

 ところが彼女は、ジゴロを養っている気ちがいばばあだったのだ! 

 いや、それ以下だ! どうもすっきりしない! あのジャンの野郎は秘書役だった! やつは美男でもなければ、あまり若くもない! 

 それに、むすこのいう「かわいそうなおかあさん」は、館と教会の板ばさみになっていた! 

 それに、最後のサン・フィアクル伯爵は、不渡小切手の発行で逮捕されようとしているのだ!

 メグレに対して温和なイメージしか持っていない読者なら、本当にこんなことが書いてあるのかと吃驚するだろう。だが本当にこう書いてあるのだ! あらすじを書いているとこちらも感嘆符を連打したくなる!  

 ほどなくしてメグレは聖歌隊の少年が伯爵夫人の祈禱書をこっそり隠していたことを知る。祈禱書を返してもらう場面の描写は、きっと作者シムノン自身の思い出が投映されているのだろう。聖歌隊の少年はラテン語とフランス語で印刷された金縁の祈禱書に憧れを抱いていたのである。

 祈禱書に挟まっていた新聞の切れ端には、モーリス・ド・サン・フィアクル伯爵が前日パリにて自殺を遂げたと書かれていた。そして伯爵は死ぬ前に家庭内のスキャンダルを恋人に語ったとも。伯爵夫人は祈禱書を開いたとき、この記事を目にしてショックを受け、心臓発作に至ったに違いない。つまりこの事件は殺人なのだ! 

 だがモーリス・ド・サン・フィアクル伯爵は生きている! 記事は巧妙につくられた偽物なのだ。誰がこれをつくり、夫人の祈禱書に挟んだのか? 館に出入りするすべての人が怪しい。秘書のジャンは自分の立場が危うくなるのを怖れて腕利きの弁護士を呼び寄せる始末だ。伯爵モーリスと秘書のジャンは対立を深める。メグレは精神的にも肉体的にも疲労困憊してゆく。

 伯爵は関係者を一堂に集め、夕食会を催す。円形テーブルについたのは、伯爵、メグレ、管理人ゴーチエとその息子エミール、教会の司祭、医者ブーシャルドン、そして秘書のジャンとその弁護士だ。夜も更けてから、伯爵は突然「まるでウォルター・スコットの小説のなかにいるような気がしませんか?」といい、皆を見回し、犯人捜しの大演説を始める。そして拳銃をテーブルの中央に置くとこういったのだ。──「十二時には犯人は死ぬでしょう」

 その12時まで、あと10分。

 なるべく興味をそそるようにあらすじを書いてみた。こうしてまとめると本作が乱歩に似ているというのもわかっていただけるのではないか。

 古い館に集まった人々が、夕食の席でひとりずつ嫌疑をかけられてゆく……そして一発の銃声が忌まわしい事件の決着をつける……古き時代のスリラーそのままであるが、先に述べたように問題なのは、ここで人々を追い詰めるのが探偵役のメグレではなく、容疑者のひとりでもある伯爵自身だということなのだ! 主要人物を集めて延々と謎解きをする展開は『黄色い犬』『メグレと深夜の十字路』でも使われていたからその趣向自体に異議は唱えない。だがそれらに比べると本作は謎の論理性という点でもかなり落ちる。この真相を見抜ける読者はおそらくいまい! メグレはいったい何をしているのか? 次のような感興に浸っているだけだ! 

 メグレはもはや、がまんできなかった。なぜなら彼は、その芝居の外にとり残されたように感じていたから。

 芝居? そうだとも! どうして医者は口ひげの下で微笑するんだろう? そして、どうして司祭はサン・フィアクルの頭をそっと押しているのか?

 全体がまるで芝居のようだ、という描写は『メグレと深夜の十字路』にもあった。そちらではメタフィクショナルな視点も機能していたと思う。だが本作はまったくへたな芝居そのものでしかない! 

 本作では祈禱書に挟まれた新聞記事がどのようにつくられたのか知るために、メグレが《ムーラン新聞》の印刷所へ行って活字の特徴などを尋ねる場面がある。そこはシムノンの若きころの経験が活かされているようでやや面白いところか。あとは作中でメグレが飲む「熱いグロッグ」がうまそうだった。

 映像化作品の紹介へ移ろう。本作で初めてジャン・ギャバン主演の映画に言及することになる。ジャン・ギャバンのメグレ映画は3作つくられており、最初の2作は『田園交響楽』(1946)で知られるジャン・ドラノワ監督作品。第1作が『メグレ警視 殺人鬼に罠をかけろ』(1958)[原作『メグレ罠を張る』で、第2作が翌年の『メグレ警視 サン・フィアクル殺人事件』だ。このふたつは日本でも統一パッケージでDVD販売されている。もうひとつはジル・グランジェ監督『メグレ赤い灯を見る』(1963)[原作『メグレと生死不明の男』で、こちらはVHSでしか観ることができない。なおドラノワ監督はシムノンの短編「Le Baron de l’écluse, ou la croisière du Potam[水門の男爵]」(未訳)を原作としてギャバン主演の『ギャンブルの王様』(1960)も撮っている。

 ジャン・ギャバンは上述のジル・グランジェ監督作品『駆けおち』(1956)[原作『カルディノーの息子』で初めてシムノン原作の映画にお目見えし、『殺人鬼に罠をかけろ』が2作目。生涯で8作ほどのシムノン映画に主演した。ドラノワ監督としては一作目でパリを舞台にしたので、めりはりをつけるため二作目でメグレを帰郷させたのだろう。『サン・フィアクル殺人事件』の日本公開は1986年4月と遅れたが、シムノンの原作も創元推理文庫の改装新版がそれに合わせて出ている。【註2】

 観てみると、これが悪くない出来映えだ。ドラノワ監督を含む脚本陣は原作のまずいところをしっかり改良し、それなりに納得のゆくストーリーに仕上げている。まずメグレのもとに届く冒頭の怪文書は、サン・フィアクル伯爵夫人が受け取った脅迫状に変更されており、伯爵夫人が自らパリのメグレへ捜査を依頼して呼び寄せた、という設定になっている。メグレは年齢を重ねても美しい伯爵夫人と会い、館に泊まり、そして翌日のミサに行くという段取りだ(原作ではなんと、冒頭の怪文書を出した者が誰なのか最後まで解明されない!)。金目の絵画などがすでに売り払われ落ちぶれた伯爵邸の雰囲気も出ているし、クライマックスの夕食シーンも巧みな改変がなされている。このとき伯爵夫人の遺体がある二階の寝室から物音が聞こえて不気味さが増し、伯爵が「まるでポーのようだ」というのも面白い。メグレシリーズの作風がわかったうえで観ると、なかなかの異色作だと肯定的に楽しめる作品になっている。メグレ役のジャン・ギャバンがずっと抑えた演技を続け、最後の最後に怒りを爆発させるのも、原作とは異なっているが効果的で好印象だ。

 ジャン・リシャールのTVドラマ版はいつも通り原作に忠実な脚色だ。本当にメグレが活躍しないまま終わるので、もし放送時にリアルタイムで視聴していたなら、「ヘンなものを観てしまったなあ」と、かえって強く印象に残ったかもしれない。クライマックスの20分間、伯爵が原作と同じように夕食の席で延々としゃべりまくる。酒に溺れつつ半ば狂気に達した伯爵の怒りと苦しみがひしひしと伝わってくる迫真の場面だ。このとききれいなメイド役が思わせぶりな行動を続けるので、奇怪な雰囲気がいっそう掻き立てられる。お約束のように外は嵐となり、電灯も消えかかる。伯爵はゲーテやシェリーの名前を出す。

 捜査の場面では時代を反映してブロックくずしゲームやディスコ風バーも出てくるので、メグレの世界観にそぐわないと思う人もいるだろうが、私はこうした風俗描写は嫌いではない。シムノン自身も小説のなかでおこなっていたことだと思うからだ。少年時代や青年時代のメグレが画面に登場するのも面白い。また墓参りのシーンでは両親の名前と生没年も出てくる。Evariste Maigret(1900-1968)とMarie Maigret(1909-1971)。母の名は原作と違う。

 ブリュノ・クレメール版のTVドラマスタッフは、先行映像化作品を研究して制作に臨んでいたのではないか。このドラマ版では明らかにドラノワ監督版からの踏襲と思われる脚色が見受けられる。しかし一方で大胆な独自性も打ち出している。なんと本作でメグレは夫人を伴って故郷へ帰るのだ。メグレはマリイ・タタンの宿に夫人と泊まるが、この太ったマリイがかつてのメグレの恋人で、「なぜ私を捨てて町を出たの」と途中で詰問してくる。この場面は妙にリアルでどきどきする。またメグレが事件をうまく捜査できないので夫人にやつあたりすると、「故郷に戻ってあなたはおかしくなっている」と逆に夫人から非難される。原作でメグレが終始かっかしている異常な状況を、夫人が指摘することで視聴者にも受け容れやすいものにしているのだ。また『男の首』でも同様だったが、あえて先行作品と異なるイメージの俳優を伯爵役に持ってきているのもいい。現代の視点で見れば、このブリュノ・クレメール版がいちばん納得できる映像化かもしれない。

 もうひとつ、初お目見えのTVシリーズを紹介しよう。イギリスのグラナダテレビが1991-1992年に製作した、マイケル・ガンボン版のメグレである。日本でもかつてNHK BS2で放送されて人気を得た。日本版の吹き替えではメグレを瑳川哲朗氏、メグレ夫人を加藤みどり氏、リュカを田中信夫氏がそれぞれ担当した。吹き替えを制作した株式会社テレシス様( http://telesis.co.jp/index.htm )に問い合わせたところ、株式会社テレシスUi様( http://www.telesis-ui.co.jp )からお返事を頂戴し、放送時の各エピソードの邦訳タイトルを教えていただいたので、本連載ではそのタイトルを示した(テレシスUi様、ありがとうございました!)。

 マイケル・ガンボンは映画『ハリー・ポッター』シリーズの二代目ダンブルドア校長役で有名だが、実は初代ダンブルドア校長のリチャード・ハリスも単発TVドラマ『警視メグレ 上流階級の罠』(1988)[原作不明、オリジナルストーリーか]でメグレ役を演じたことがある。

 シリーズの総タイトルは『Maigret』、日本版では『メグレ警部』。第1話「メグレと宝石泥棒」(日本では最終話)のみ78分で、他はどれも52分ほど。ジャン・リシャール版やブリュノ・クレメール版より尺が短く、ルパート・デイヴィス版のように物語はテンポよく進む。画面全体の雰囲気づくりはなかなかのもので、視聴し始めて数秒も経つと、もう心はフランスにシフトしてくる感じなのだ。イギリス製のドラマだが、精緻な演出によってちゃんとフランスの空気感が出ているのである。

 物語の途中でほぼ犯人は確定し、夕食会のシーンが省かれ、あとはだめのひと押しをどうするかという話になる。今回は原作がこんな具合なので、これひとつだけでどうこういうのは難しい。もう少し視聴したらシリーズの特色も見えてくると思う。ラストで墓参りのシーンがあり、父の氏名と生没年は Evariste Maigret(1879-1923)だった。ドラマの時代設定は原作が書かれた時期になるべく合わせているわけだ。

 このシリーズは全12話と決して多くを映像化したわけではないが、タイトルリストを見る限り原作の選択は手堅いと感じる。あと11回、マイケル・ガンボンのメグレに会うのが楽しみだ。

【註1】

 ジル・アンリ氏は著書『シムノンとメグレ警視』(桶谷繁雄訳、河出書房新社、1980)のなかで、シムノンが最初の結婚後ド・トラシー侯爵の秘書となり、その侯爵がいくつかのシャトーの持ち主で、かつ新聞の社主であったこと、当時シムノンが侯爵の仕事でムーラン近くのパレー・ル・フレジル Paray-le-Frésil(パライユ=ル=フレジル)という町に出かけていたこと、その町でシャトーの管理人ピエール・タルディヴォンと仲がよかったことを挙げ、サン・フィアクルのモデルはパレー・ル・フレジルだと推測している(アンリ氏だけでなく多くの研究家がこの推測を採っている)。またシムノンは後の作品『メグレ推理を楽しむ』(1957)で、ついメグレが子供のころパレー・ル・フレジルにいたと実在の地名で記述しているそうだ。

【註2】

 1986年版の創元推理文庫の訳文は、(たぶん)初版の1960年版と同じである。1960年版は三輪秀彦氏が下訳をしたのかもしれない。

【ジョルジュ・シムノン情報】

▼大戦下のシムノンとその弟クリスチャンの関係を、想像を交えて描いた長篇小説『L’autre Simenon』[もうひとりのシムノン](Patrick Roegiers著、Grasset)が2015年8月にフランスで発表され、物議を醸しているらしい。私は読んでいないので、どんなものか不明。(《ル・モンド》紙の記事 http://www.lemonde.fr/m-actu/article/2015/10/09/georges-simenon-rattrape-par-le-passe-accablant-de-son-frere_4786162_4497186.html?xtmc=simenon&xtcr=1 を参照のこと)

▼ルパート・デイヴィスが主演したイギリス製TVドラマのドイツ版DVDボックス、『Kommissar Maigret』の第2集が PIDAXfilm社から2015年10月に発売された(詳細は http://www.pidax-film.de/Serien-Klassiker/Kommissar-Maigret-Vol-2::820.html)。このDVDボックスシリーズは、当初のアナウンスでは英語とドイツ語吹き替えの両方が収録されるとなっていたのだが、途中で仕様が変更され、ドイツ語吹き替えのみの収録となった。第1集は少し観たが、ドイツ語かつ吹き替え版なので予想していた以上にわからない(汗)。だが、ここでドイツ版ならではの楽しみ方もぜひお伝えしておきたい。それは、ドイツでの放送時に採用された、本家イギリス版とは違うテーマ曲である。本家イギリス版の作曲者はロン・グレイナー Ron Grainerだが、ドイツ版の作曲はピアニスト Ernie Quelle(Ernst August Quelle)が手がけており、これがとても親しみやすい曲なのだ。私は本連載のおかげで世界各国のメグレドラマを観る機会に恵まれたが、このドイツ版テーマ曲がいちばん好きだ。残念ながらCDやMP3ファイルでは購入できないようなのだが、YouTubeで「Ernie Quelle Maigret」と検索すれば個人的に楽しむことができるだろう。アレンジの効いた演奏としてはダニエル・コラン『パリ、街角のアコーディオン〜私の愛した名曲達〜』が購入できる。

『フィルム・ノワール ベスト・コレクション フランス映画篇 DVD-BOX2』が2015年12月に発売されるようだ。シムノン原作の映画『Les inconnus dans la maison』『Cécile est morte』が収録される模様。どちらも本邦未公開作、日本ではこれが初の映像ソフト化。なおこのシリーズの第一弾『フィルム・ノワール ベスト・コレクション フランス映画篇 DVD-BOX1』にもシムノン原作の映画『パニック』『署名ピクピュス』が収められている。

▼細かな公式情報については、随時シムノン全集のページを参照するとよい( http://www.toutsimenon.com/actualites.html )。ローワン・アトキンソン主演のメグレドラマが製作されるとか、長篇小説『猫』が舞台化されるといったことも簡潔に紹介されている。

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『科学の栞 世界とつながる本棚』『新生』等多数。


【毎月更新】シムノンを読む(瀬名秀明)バックナンバー