Chez les Flamands, Fayard, 1932 [原題:フラマン店にて]

『メグレ警部と国境の町』三輪秀彦訳、創元推理文庫236、1961

Tout Simenon T17, 2003 Tout Maigret T2, 2007

TVドラマ『Maigret chez les Flamands』ジャン・リシャール主演、1976(第31話)

TVドラマ『メグレ警視3 国境の町』ブリュノ・クレメール主演、Maigret chez les Flamands, 1992(第2話)

コミック『Maigret chez les Flamands(Maigret #3)』Odile Reynaud脚色, Frank Brichau作画・彩色, Éditions Claude Lefrancq, 1994

「彼女はなにをいおうとしたのだろう?」と警部は考えた。「わたしはここにはいなくなるでしょうから(傍点)……ほんとうに彼女にはその勇気があるだろうか……?」

 本作は『オランダの犯罪』の二番煎じである。世界の境界に住む人々が抱える異和の感覚、そこへ迷い込んだメグレの苛立ちとやるせなさ、そうしたテーマはすでに『オランダの犯罪』でくっきりと描かれていた。残念ながら本作はそれよりはるかに出来映えが劣る。物語の筋は茫洋として、何も求心力がない。

 作者はやる気を失っているのではないだろうか? シリーズが出版されて成功したからもう興味がなくなったのか? ほんの7、8ヵ月前に同じ主人公で書いた物語を早くも再生産するとは、意外とシムノンは抽斗の数が少ないのではないだろうか? ひょっとして日本に紹介されていない初期のペンネーム作品も、数は多いがわりと似通ったものなのではないかという疑念さえ頭をもたげてくる。明らかにシムノンはここ数作を書き飛ばしている。

 1月20日、メグレ警部はフランスの外れの町、ジベ(ジヴェ Givet)の駅に到着した。メグレはここに住む26歳の女性アンナ・ピータースから、助けてほしいという個人的な依頼を受け取っていたのである。

 ジベの町の中央にはムーズ川が流れている。この川を北へ下ると、川沿いにベルギーとの国境が現れる。フランドル人(フラマン人)が川の対岸に多く住んでいる地域であり、橋を渡れば人々の話す言葉はフランス語からフランドル語になる。ムーズ川は広く、はてしない。伝馬船の繋留場がある……。そうした国境沿いの河岸で、アンナの実家は食料品店を開いていた。ひとめでフランドル人の住まいだとわかる。

 アンナはピータース家の次女であり、長女は修道院教師のマリア、弟はまだ学生だが許嫁がいるジョゼフである。手紙の依頼内容は、ジョゼフには許嫁のマルグリット以外にもジェルメールという愛人がおり、その娘が失踪したので世間から疑いの目がアンナたちピータース一家に向けられている、その疑いを晴らしてほしいというものだった。【註1】

 ジェルメールは妊娠し、子供をすでに産んでいたが、ピータース一家は彼女を認めたくないのである。ジェルメールは1月3日の夜に店へやってきてジョゼフが冷たいなどと愚痴をこぼしたが、その直後から行方知れずになっていた。もし殺されたのなら遺体はムーズ川に投げ棄てられたのかもしれないが、あいにくこの時期ありがちなことに、少し前に川は氾濫しており、いまも水かさが多い。遺体は堤防を越えてはるか下流まで流れてしまっているだろう。

 1月3日当日の夜は、家事手伝いのアンナだけでなく姉のマリアも許嫁のマルグリットもピータース家におり、マリアとマルグリットは一階の部屋でピアノを弾いていたという。そしてジェルメールが店先で愚痴をいって帰り、翌日になってアンナたちはジェルメールの失踪を知ったのだという。事件はナンシイ警察のマシェール警部補 Inspecteur Machère が担当しており、メグレはあくまでも部外者だ。到着した夜、メグレは河岸を歩きながらこんな話を聞かされる。

 それからマシェールは伝馬船を指さした。

「フランドル人たちの大半は、あそこにいますよ……昔からの習慣を変えたがらない連中が……他の連中は橋の近くのフランス人の酒場へ行って、ぶどう酒やアペリチフを飲んでいます……フランドル人たちというのは、杜松(としょう)のジンと、彼らのことばがわかる人間がいれば、それで満足しているんですな……船に一週間分くらいの食糧を買いこんで……密輸をやっているかどうか知りませんよ!……それをやるには絶好の立場にいることはたしかですが……」

 メグレは1月3日の夜にマリアたちが家で弾いていた《ソルヴェイグの歌(Chanson de Solveig)》を聞く。この歌詞はピータース家の戸棚に飾られているマルグリットの写真に書き添えられていたものであり、やがて物語のなかで何度も繰り返され、本作の背景を象徴するものとして扱われる。この歌は1867年、イプセンの戯曲にエドヴァルド・グリーグが作曲した、『ペール・ギュント』からの抜粋なのだそうだ。ただ、この歌がどのくらい本作において効果的なものであるのか、私にはわからなかった。

 メグレはこの町に立ち、次のようなことを思う。

 国境で人はいったいどんなことを感じるのだろう? 石材の敷居と、銅細工の窓がついた殺風景な褐色の煉瓦の家々、それらはすでにベルギー領である。

 ピータース家の容疑を晴らす名目でやってきたメグレに対して、町の人たちの視線は冷たい。とくに行方不明となったジェルメールの兄ジェラールは、酔った勢いで「警察はフランドル人が金持ちだから味方するんだ」とメグレに食いかかり、敵意を露わにする。

 やがて伝馬船《北極星》号の船長カサンが姿を消す。マシェール警部補は彼こそが犯人だと確信し、彼の乗った列車を追跡しようとする。一方のメグレはこの町が醸し出す不快な雰囲気に苛立ちつつも、やがて直観で真相に辿り着く……。

 終盤になってシムノンらしい描写が出てきて、それまでの退屈さもある程度は挽回される。なるほど心に響く文章もある。冒頭に掲げた文章中にある「勇気」という単語が、本作のいちばん深い部分のテーマである。

 ただ、何度もこうした展開が繰り返されると、人生の悲哀とその真実を描いているというより、これ自体がシムノン作品のフォーミュラであり、一種のメルヘンだと読者は感じるようになってしまうのではないだろうか。このようにラストを処理しておけばしょせん読者は自動的に感慨に耽るものなのだという甘えに、作者は浸かりつつあるのではないか。危険な兆候だと私は思う。

 犯人の行動はおよそあり得ないものだ。ラストの処理もいままでと同じであり、もう私はこれでは感動できない。

 本作でメグレは茶碗に注がれた熱いコーヒーを啜る。またピータース夫人が出してきた古いシーダム(ジン)を飲む。そうした場面がせめてもの救いとなってきた。

 さてTVドラマである。小説が不調なときは映像版を語るのだ。

 ジャン・リシャール版は『オランダの犯罪』(第30話)の次が本作であった。製作サイドはいったい何を考えていたのか! しかし観てもっと驚いたのは、ドラマがよい出来映えだったことである! 思わず監督名を確認してしまった。ジャン=ポール・サッシー Jean-Paul Sassy という人なのだが、映画『死刑台のエレベーター』(1957)のスクリプターとしてクレジットされている人と同じだろうか? これまで観たエピソードでは『港の酒場で』(第36話)と『ゲー・ムーランの踊子』(第51話)を担当。決して傑作とはいえない原作で苦戦する様子も窺えたが、本作では監督の手腕を讃えたい。『ゲー・ムーラン』のときはけなして悪かった! それだけ個性があったということなのだよ!【註2】

 まずジベの風景をしっかりと撮り、とくにムーズ川の流れを何度も見せ、風に舞う鷗や水面を泳ぐ白鳥の映像を随所に挟み、『オランダの犯罪』との差異を図っている。ストップモーションや顔のアップといった大げさな表現をあえて多用することで、原作よりも緊迫感をつくり出している。フランドル人が集まるピータース家のカフェ(原作でも飲み食いのできる食料品店だったが、ドラマではカフェになっている)とフランス人でごった返すもうひとつのバーの違いも強調され、メグレがこの地で人々からうさんくさい目で見られている状況も伝わってくる。

 素晴らしいのは次女アンナを演じる女優のキャスティングで、つねに髪を後ろで留め、化粧っ気もなく、体の線も決して美しいとはいえない。おそらく演出で、わざと胸や腹の線がわかるカーディガンを着せられている。原作でも美女ではないが、ジャン・リシャール版のこうしたキャスティングは本当に残酷だ。それだけではない、ジョゼフの婚約者マルグリット役を演じる女優も、後半から「私は勝ったわ、つまらない女からジョゼフを取り戻したわ!」感をありありと浮かべた微笑で見せつける。本作では途中からほぼ犯人がわかる演出になっており、そのためにかえってだれることなく最後まで引っ張る。最後のクレジットタイトルでは、図ったかのように往年の夜9時サスペンスドラマっぽい音楽が流れてきたのだった。

 ブリュノ・クレメール版でなるほどと感心したのは、ジャン・リシャール版とはまた違う演出でフランドル人とフランス人の対比構造を鮮明化していたからだ。ピータース家のカフェは船員を相手にしているはずだが、店は大きく、リッチな装飾で、ボーイも雇っているほどだ。一方、失踪したジェルメールの兄ジェラールが通うフランス人のカフェバーはピータースの店よりずっと暗く、狭く、煙草の煙が充満している。ジベに住むフランス人の多くは底辺の工場労働者であり、金持ちのフランドル人たちに嫉妬しているのだ。だからピータース家のジョゼフがフランス人のカフェバーに入ると、客たちはいっせいにビールジョッキの底で机を叩き、出て行けと無言で圧力をかける。

 つまり本作は、密輸で儲けたフランドル人の息子が、ちゃんとした婚約者もいるのに貧しいフランス人の娘を拐かして孕ませ、しかも養育費さえ払わず殺して知らぬふりをしているのだ、というフランス側の憎しみが根深いことを何度も画面で描くのである。原作もそうした前提で書かれているわけだが表現が弱いので、このドラマ版の方がずっとシャープに伝わってくる。ひょっとするとクレメール版は本作をシリーズ第2話でつくってしまったので、『オランダの犯罪』(第22話)の舞台をフィンランドに移し、テーマも変えたのかもしれない。

 そして次女アンナ役の女優は美人で、やっぱり、と思ったのだった。

【註1】

 邦訳書籍ではマリーが長女、アンナが次女、ジョゼフが末の弟と訳されているが、ブリュノ・クレメール版TVドラマの字幕ではアンナが長女、マリーが次女となっている。原作の記述ではマリーが28歳、そしてアンナは26歳のはずなので、書籍版の方が正しい。

【註2】

 一方ジャン・リシャール版『オランダの犯罪』の監督はルネ・リュコ René Lucot。これまで観たものでは『男の首』(第2話)、『三文酒場』(第27話)、『メグレと死者の影』(第8話)を担当。よい原作を手堅くまとめ上げている印象だ。映画『美と力の祭典 メルボルン・オリンピックの記録』(1957)の監督と同じ人物か。

【ジョルジュ・シムノン情報】

▼フランスの René Chateau Vidéo( http://www.renechateauvideo.com )から、今年4月に最初期のシムノン映画がまとまってDVD化されていたので紹介する。

 今回リリースされたのは、『La nuit du carrefour 十字路の夜』[メグレと深夜の十字路](1932)、『Le chien jaune 黄色い犬』(1932)、『La maison des sept jeunes filles』[未訳:若い七姉妹の家](1942)の3作。最後の一作はたぶんフランス本国でもこれまで映像ソフトが出ていなかったもの。ついに私もウィンナ・ウィンフリードの胸元を確認するときがきた! なお、同社からは、他にも『港のマリー La Marie du port』(1949)、『禁断の木の実 La fruit défendu』[判事への手紙](1954)、『En cas de malheur 可愛い悪魔』[かわいい悪魔](1958)、『メグレ警視 殺人鬼に罠をかけろ Maigret tend un piège』[メグレ罠を張る](1958)、『ギャンブルの王様 Le baron de l’écluse』[未訳:水門の男爵](1959)、『メグレ警視 サン・フィアクル殺人事件 Maigret et l’affaire Saint-Fiacre』(1959)、『L’aîné des Ferchaux』[フェルショー家の兄](1963)、『Maigret à Pigalle』[モンマルトルのメグレ](1967)、『Les fantômes du chapelier』[帽子屋の幻影](1982)が出ている。──以前は『La sang a la tête 駆けおち』[カルディノーの息子](1956)も出ていたが、いまはカタログリストにないようだ。フランスのDVDは日本と同じリージョン2であり、私は自宅のMacで鑑賞している。なお日本語字幕つきDVDが出ているものは邦題を先に記し、日本公開されたが本邦でDVDが出ていないものは邦題を後に記した。

▼シムノンの息子ピエール・シムノン Pierre Simenon が、回想録的なストーリー『De père à père』[父から父へ](Flammarion)を10月に出版した。《Tribune de Genève》のこちらの記事を参照のこと( http://www.tdg.ch/culture/Un-fils-de-Georges-Simenon-interpelle-son-pere-et-se-livre/story/11793799 )。ピエールはシムノンのふたり目の妻デニーズとの間に生まれた次男(末っ子)で、現在は作家として活動中。

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『科学の栞 世界とつながる本棚』『新生』等多数。

【毎月更新】シムノンを読む(瀬名秀明)バックナンバー