「夫に死んでもらいたいわけではなかった。いまのところは」

 冒頭のこの文章をどう解釈したらいいのだろうと思う間もなく、読者はすぐに事情を知る。夫マイケルは不倫をしており、しかも相手は妻であるルイーズの実妹デニスだと告白したのだ。これほどひどい裏切りがあるなんて。この日、ルイーズは夫を失い、妹を失った。いちばん信頼すべき人々を一度に、一瞬にして。

 夫婦は夜通し怒鳴りあい、ルイーズはひとりになるためにひとまず家を出る決意をする。行き先は一家が所有する別荘。かつては田舎ののどかな風景のなかで家族で滞在を楽しんだ思い出の家だった。絶望のワインで深く酔い、気がついたら町外れの橋の欄干の上を歩いていた。ほんの少しバランスを崩せば眼下の水面に叩きつけられて流され、遺体は何週間も見つからないだろう。ほんの少し体を傾けさえすれば、夫の裏切りからも、”あの夜”以降続いている苦痛からも逃れられる。ほんの少し足を踏み出しさえすれば……

 だが、ルイーズは死ねなかった。自分には愛する娘ブルックと息子ドミニクがいる。もしかしたらデニスはまだ幼いドミニクの継母になってくれるかもしれない。しかし、ブルックは……ブルックは自分が守らなければ。母としてのブルックへの想いが生と死の境で綱渡りをしていたルイーズを現実に引き戻す。どのみち現実から逃げだしたところで、自分自身から逃げることはできないのだ。しかし、まさか娘ブルックを失うことになるとは、このときは思いもよらなかった——

 人の心の暗いところをつたうかのように物語が展開する。いや展開というより、より深い淵にはまっていくというほうがいいかもしれない。

 ルイーズとブルックには家族にも言えない”あの夜”の秘密があった。あの夜以来、ルイーズは精神のバランスを崩し、夜中に悲鳴をあげて目覚めることもあった。そんな妻の変調と、妻と娘が自分には明かしてくれない秘密の存在を知ったマイケルは、裁判沙汰になりそうな仕事上のトラブルを抱えていて、やがて義妹デニスと密通するようになる。デニスは姉への遠慮すら示さず、ひたすら冷ややかに姉を遠くから見つめている。恐ろしいほど冷酷なまなざしで。

 タイトルの “Anything for Her” にあるように、ルイーズは「娘のために何でもする母親」像そのままの人である。ふたりが隠している秘密は少しずつ明らかにされていくのだが、物語の序盤でそれが人の命にかかわることだと感じられるシーンが描かれている。血のついた手袋、玄関先に落ちている死んだコマドリ、そして「わたしなんて生まれてこなければ良かったんだわ。そうすれば彼らは生きていたはず」と言うブルック……

 やがてブルックが姿を消し、ルイーズはそれが”あの夜”と深くかかわっていることを確信する。最愛の娘を見つけるには警察に秘密を明かさなければならないが、そうすると娘の過去が明るみに出てしまう。さらに失踪の原因がほんとうに”あの夜”のできごとならば、”あの夜”のせいで誘拐されたのだとしたら、ルイーズ自身の身も安全とは言えなかった。

 冒頭から暗くて、不気味で、怖い。次のページを覗くのが恐ろしいけれど、読み進めずにはいられない。正直なところ、あちこちにエンディングにつながるメタファーが点在していて、あらすじの紹介が難しいストーリーである。

 著者ジャック・ジョーダンにとってこれがデビュー作で、本人の公式HPなどによると、17歳のときに広場恐怖症になって以来こもりがちになり、自分の楽しみのために短編を書き、登場人物を通じた世界を感じていたという。2015年6月にペーパーバック版とkindle版が刊行され、Amazon.ukでは3桁の読者からコメントを寄せられ、高く評価されている。ほんとうに怖いけれど、怖いからこそ、みなさんに読んでいただきたい作品。

片山奈緒美(かたやま なおみ)

翻訳者。北海道旭川市出身。ミステリーは最新訳書のリンダ・ジョフィ・ハル著『クーポンマダムの事件メモ』、リンダ・O・ジョンストン著『愛犬をつれた名探偵』ほかペット探偵シリーズを翻訳。ときどき短編翻訳やレビュー執筆なども。365日朝夕の愛犬(甲斐犬)の散歩をこなしながら、カリスマ・ドッグトレーナーによる『あなたの犬は幸せですか』、介助犬を描いた『エンダル』、ペットロスを扱った『スプライト』など犬関係の本の翻訳にも精力的に取り組む。現在は翻訳をしながら、大学で口語表現科目の非常勤講師をつとめ、大学院で日本語教育の研究中。

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