書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。
2016年最初の月にはどんなミステリーが翻訳されたのでしょうか。こう豊作続きではお財布が大変、と嬉しい悲鳴を上げている人も多そうです。今月も書評七福神をお送りします。
(ルール)
- この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
- 挙げた作品の重複は気にしない。
- 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
- 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
- 掲載は原稿の到着順。
霜月蒼
『YOU』キャロライン・ケプネス/白石朗訳
講談社文庫
いったいどうしたことか。今年の1月の異常な豊作ぶりのことである。ミステリ年度でいえば9月と10月がいっぺんに来たかのごとき年間ベスト級の目白押し。ジェイムズ・トンプソンの遺作『血の極点』が暴力と正義がギリギリと軋むさまを血のペンで刻み書いてみせれば、イギリスの新人ヘレン・ギルトロウが『謀略監獄』でシャーリーズ・セロン主演・トーマス・アルフレッドソン監督のレン・デイトンみたいなクールなスリラーを描き上げ、さらにヘニング・マンケルやらサラ・ウォーターズやらの新作がぶっこまれるという古代ローマの宴会場のような一か月であり、とりあえず皆さんには、いま列挙したやつは全部とりあえず読むことを強要したい。読め。
そんな年間ベスト級の作品群をわきにおいて本作を推すのは、ちょっと軽量感があるので年末ランキングなどで割を食いそう、という懸念からである。本屋で働く非モテ本好き男子が、小説の話のできるナタリー・ポートマンみたいな文系女子と出会うも、彼女はチャラい金持ちのオーガニック野郎にホの字なので、非モテ主人公は知力と体力を駆使して彼女の恋人になろうと奮闘、という、ニューヨークのダウンタウンが舞台のボーイ・ミーツ・ガール——
——みたいな話なのだが、実は主人公の奮闘は、ストーキング、ハッキング、不法侵入、下着泥棒、拉致監禁などで、要するにこいつは変態野郎なのである。なのに読んでいると、一人称小説であるがゆえに変態であることを忘れてしまい、応援したくなったり切なくなったりしてしまうのだ。ルメートルの某作品を思い出させたり、ハイスミスっぽい感じもしたり、甘酸っぱく切ない気持ちと、気持ち悪さにヘドが出そうになるのが交互に襲い来る怪作。これも是非お読みになられますよう。ボーナスとかお年玉の残りとかを本屋でぱーっと蕩尽しましょう。
いつになく原稿が長くなってしまったが、多くの本を紹介してるということで読者にはご寛恕をいただきたい。すみません。
千街晶之
『黄昏の彼女たち』サラ・ウォーターズ/中村有希訳
創元推理文庫
女性同士の恋愛小説である上巻には、ミステリ的な要素は皆無に近い。下巻に入るとすぐに犯罪が発生するけれども、被害者も犯人もさして意外ではない。ウォーターズの作品の中でも、ミステリ度が低い『夜愁』の系列に属するのでは……とこの時点では思うかも知れないが、とんでもない。そこから先に待ち受けているのは怒濤の心理サスペンスだ。上巻で綴られてきたロマンスが反転し、逃げ場のない罠と化して登場人物を意地悪に追いつめてゆく。何より戦慄するのは、犯罪の真相が暴かれるか否かのスリルよりも、熱烈な恋心を捧げた相手に果たしてその価値があったのかを、事件後の経緯を通して登場人物が自問しなければならない点だ。サラ・ウォーターズ、何という恐ろしい小説家だろう。
川出正樹
『夜、僕らは輪になって歩く』ダニエル・アラルコン/藤井光訳
新潮社
内戦が終結し出所した劇作家ヘンリーは、投獄の原因となった風刺劇『間抜けの大統領』再演の為に、友人のパタラルガとともに伝説の小劇団を再結成しアンデスの山間の村を巡る地方公演の旅に出る。三人目のメンバーとなり、生まれて初めて山岳地帯へと足を踏み入れた若き俳優ネルソン。三人三様の見果てぬ夢、家族に対する忸怩たる思い、そして狂おしい愛と憎しみの行き着く果てはどこか。
些細な嘘が誘因となって思いもよらぬ展開をみせるストーリーが推進力となり、冒頭から臭わされる悲劇的な結末に対する興味と、語り手を務める「僕」が誰なのかという謎が牽引力となり、読み終わるのが惜しいと思いつつ、一気にページを繰ってしまった。「劇の世界に入り込み、自分の人生から逃れる」ことを求めた者たちの織り成す、愛と死と謎が絡み合った物語を、ぜひ味わってみて欲しい。
吉野仁
『死体泥棒』パトリーシア・メロ/ 猪股和夫訳
ハヤカワ・ミステリ文庫
ドイツで高く評価されたブラジル・ミステリ。主人公が墜落した飛行機からコカインを盗み出し、大金を得ようとする冒頭は、まるで『シンプル・プラン』だが、そこから先は予想外の展開を見せていく。なるほど、特に死に対する感覚や善悪で割りきらない世界観など、欧米のものにはない、斬新な読みごたえをもつ犯罪サスペンスだった。そのほかジェイムズ・トンプスン『血の極点』は、ここまで私的で過激な争いの物語になるとはシリーズ第一作の時点では思いもよらなかったものの、次がないのは残念だ。
酒井貞道
『霜の降りる前に』ヘニング・マンケル/柳沢由実子訳
創元推理文庫
キャロライン・ケプネス『YOU』もなかなかのお手前(主人公のナチュラルな気色悪さがたまらない!)だったが、原稿を入れる時点では、ベーシックなものを愛でたい気分なのでこれを。
持論だが、優れた警察小説は、どんな脇役の聞き込みにも読者を惹き込む力がある。各人各様の人生の断面が、生々しく描き抜かれていく。ヘニング・マンケルの諸作は、その最たる例なのだ。
北上次郎
『ドローンランド』トム・ヒレンブラント/赤坂桃子訳
河出書房新社
無数のドローンが飛び交う超管理社会を舞台にしたミステリーだが、ちらりちらりと描かれるその時代のさまざまな細部が物語を引き締めている。たとえば、テヘランとリヤドに核攻撃が行われてから原油はほとんど供給されず、太陽エネルギーの開発を急いでいること、この世界にはいつも雨が降り注いでいること、沿岸部の都市は水没していること。そういうディテールがさりげなく、物語のあちこちから現れる。もちろん、物語の表面で語られるのは殺人事件の捜査だが、近未来の世界がどういうものであるのか(アメリカと中国が没落してブラジルとアラブとEUが覇権を争っている)、これが実に興味深い。
物語の構成も、テンポのいい展開も素晴らしく、ラストまで一気読みの面白さだ。
杉江松恋
『つつましい英雄』マリオ・バルガス=リョサ/田村さと子訳
河出書房新社
ノーベル文学賞作家の受賞後初の長篇、ということでやや腰が引けるのを自覚したのだが、いやとんでもない。抜群におもしろかったので紹介する次第です。物語は二筋に分かれており、一方は運輸業者の男がマフィアのものと見られる置手紙により、みかじめ料を寄越せという脅しを受ける。もう一方は会社経営者の骨肉相食む争いの物語で、娘ほども年の離れた女性と結婚した富豪と、それによって相続権を失った息子たちとの反目の間に挟まれた男が主役となる。両方に共通するのは、善良な魂の持ち主が悪意の塊によって脅かされるという構図で、屈せず正義を貫こうとする者たちが小説の主人公になるのである。日本人の感覚からすると彼らの倫理観はあまりにも苛烈で独善的に見えてしまい、私は共感するまでには至らなかった。しかしその距離感が逆に魅力で、悪とそれに対抗する者たちの動きが広壮な構図で描かれるというおもしろさがあったのである。柄の大きな、しかし肩の凝らない筆致のものが読みたい、というようなときにお薦めの一冊だと思います。
ひさしぶりに7人全員が違う作品を挙げるというバラエティに飛んだ月となりました。だっておもしろい本が多いんだから仕方ないんです。来月はどんなことになるでしょうか。どうぞお楽しみに。(杉)