みなさま、こんにちは。関東も梅雨入りしましたね。

 五月の読書日記です。

 六月二十五日(土)に開催予定の「お料理の会・第六回調理実習」満席御礼!)に先駆けて、先日、試作会を開きました。今回は課題図書がシンガポールの作品ということで、アジアン・カフェっぽいメニュー。もちろんデザートつきです。おいしゅうございました。エスニックの食材も今はたいていのものが手に入るようになり、日本にいながら本場の味を楽しめるのはうれしいかぎり。本番もおいしくできるといいなあ。

 では、お気楽読書日記、スタートです!

■5月×日

 戦前にアメリカに渡った日系一世たちの苦労を描いた作品は、「山河燃ゆ」として大河ドラマにもなった山崎豊子の『二つの祖国』、映画「ピクチャーブライド」などいろいろあるけど、ジュリー・オオツカの『屋根裏の仏さま』は、日系人の心情をあくまでも静かに淡々とつづった作品。読後じわじわと愛と哀しみに満たされ、思わず合掌したくなる。仏さまだけに。またミステリーじゃなくてすみません。

 アメリカに入植した、写真でしか知らない男たちに嫁ぐため、日本から海を渡った写真花嫁である?わたしたち?。「来たれ、日本人!」では期待と不安のなか、長い時間をかけて船でアメリカに向かう彼女たちのエピソードが、「初夜」では彼女たちの落胆ととまどいが、「白人」では自分たちと異質な人々との関係が、「赤ん坊」では彼女たちの過酷な出産事情が、「子どもら」では二世となる彼女たちの子どもらの苦労が、「裏切り者」では同胞たちが密告によりスパイ容疑で引っ張られていく恐怖の日々が、「最後の日」では強制収容所に向かう日の様子が、そして「いなくなった」では日本人たちがいなくなった町の様子が語られる。

 一文ずつちがう人のエピソードが紹介されていて(繰り返し登場する人もいる)、同じ日系移民でもみんなそれぞれの事情があり、対する白人にしても人によってさまざまな接し方をしていたのがわかる。

 エピソードを淡々と羅列していくというこのスタイルが技あり。膨大な資料のなかの事実を積み重ねることによって、莫大なパワーが生まれ、とてつもない重さとなって読者に迫ってくる。まさにノンフィクションとフィクションのいいとこ取りだ。

 個人のエピソードなのに、代名詞が「わたしたち」というのも象徴的で、日系人というだけで背負うことになった同胞としての連帯感が強く感じられる。個人であっても日系人はみんな「わたしたち」、白人は「彼ら」。日系人のいない最終章の「いなくなった」だけ、白人が「わたしたち」になっている。

 どんなときも控えめで、勤勉で礼儀正しかった日系人の姿が消え、白人たちの心にぽっかり穴が空いたようになるのが、悲しいシーンなのにちょっとほっこりする。

 著者のジュリー・オオツカは一世の父親と二世の母親を持つ日系アメリカ人で、祖父は敵性外国人として逮捕されて収容所を転々とし、祖母も幼い子どもたち(オオツカの母と叔父)とともに強制収容所に送られたという。

 タイトルの『屋根裏の仏さま』は「最後の日」の章の「ハルコは、小さな真鍮の、笑っている仏さまを屋根裏の片隅に置いてきたが、仏さまは今でも、まだそこで笑っている」という部分から。日系というアイデンティティの苦労と誇り、そしてほのかな希望を感じさせる秀逸なタイトルだ。カバーコピーのなかの「しんしんと降りつもる」というフレーズも深いイイ。

■5月×日

 アリ・ブランドンの『書店猫ハムレットの跳躍』は〈書店猫ハムレットの事件簿〉シリーズ第二作だが、これが本邦初訳。訳者あとがきにあるとおり、二作目から読んでもまったく問題なかった。シリーズものはキャラが立ってくる二作目ぐらいから出したほうがむしろいいのかも。

 主人公のダーラ・ペティストーンは、大叔母から書店を相続し、ニューヨークのブルックリンにやってきたテキサス出身のバツイチ独身女性。その書店の備品の一部(?)のような黒猫ハムレットは、ふてぶてしくて気むずかしいが、人を見る目はあるもよう。ある日、近所の工事現場で作業員の死体を発見してしまったダーラ。現場には猫の足跡らしきものが残っていた。ハムレットは何か知っている……?

 書店、黒猫、ニューヨーク、バツイチ独身女性の事業主など、いずれもどこかで見た条件だが、なかなかおもしろかった。元大学教授の店長ジェイムズはローラ・チャイルズの〈お茶と探偵〉シリーズのドレイトンを彷彿とさせるし、ゴスファッションで現れながらなんともいい子なロバートは、やはり〈お茶と探偵〉シリーズの見かけと腕にギャップのある天才パティシエ・ヘイリーとかぶる。

 コージーって、いつも同じような感じでつまんない、と思われるかもしれない。ええ、そりゃね、もう既視感ありありですよ(なぜか開き直り)。

 でも、いーんです(川平慈英風に)!

 この安心感というか定番感というかお約束感がコージー・ミステリには必要なのだ。

 この不確実な世の中、コージー・ミステリを読んでいるときぐらい安心したいじゃないですか。

 日頃のキングエルロイウィンズロウでハラハラドキドキゾゾッとしまくりの心臓を休ませてあげたいじゃないですか。

 ついでにお茶とおやつも用意して、身も心も甘やかしてあげたいじゃないですか。

 わたし、コージーの味方ですから!

 いかん、いつになく熱くなってしまった……

 猫が探偵役というのも珍しくはないけど、この黒猫ハムレットがゴロニャンというタイプではなく、ツンデレどころかツンツンで(最後だけちょっとデレ)、店主のダーラにヒントを与える方法がユニーク。その方法とは、書店の棚から特定の本を落とすこと(本が傷みますので、よい子はまねしないでね)。ダーラと店員たちはその書名や内容などから犯人を推理するのだ。書店員を雇うときの最終試験がハムレットの面接というのもおもしろい。たしかに社長っぽいんだよな、ハムレット。

 登場人物がいずれもよく描き込まれており、事件も適度に複雑で、ロマンスの加減もちょうどいい。ヒロインのダーラは赤毛でかっとなりやすい性格だが、適度に世慣れていて大人なので、読んでいていらいらすることがなかった。

 著者のアリ・ブランドンは〈探偵ダ・ヴィンチ〉シリーズを書いたダイアン・A・S・スタカートなのね。あのシリーズも好きだったなあ。

〈書店猫ハムレット〉シリーズは次の『書店猫ハムレットのお散歩』も手元にあるので引きつづき読むつもり。

■5月×日

 シャーリイ・ジャクスンの短編はいくつか読んでいるが、お恥ずかしいことに『ずっとお城で暮らしてる』はなぜか読む機会がなく、ずっと気になっていた。ジャクスンの代表作ともいえるこの有名な長編、読んでみたらやっぱり怪作でした! 

 時代も国もわからない、あるとき、ある場所。お城のようなお屋敷に、病気の伯父ジュリアンといっしょに住んでいるコンスタンス(コニー)とメアリ・キャサリン(メリキャット)のブラックウッド姉妹。この屋敷では数年前に毒殺事件が起き、姉妹の両親、弟、叔母の四人が死亡している。生き残ったコニーは裁判にかけられ無罪となるが、一度犯人扱いされた彼女は人々に化け物視され、以来お屋敷にこもりきり。村での買い物などはメリキャットの役割だ。ある日、従兄のチャールズが訪ねてきて、お屋敷の生活は大きく変化していく。

 コニーが二十八歳というのはわかるけど、メリキャットが十八歳というのはびっくり。最初のページに年齢が書いてあるからわかっているはずなのに、読んでいるうちにもっとうんと小さい子供に思えてしまう。毒殺事件のとき十二歳なので、それからまったく成長していないということなんだろうけど、それがまず怖い。ただ、コニーが妹のすべてを受け入れているので、不思議な多幸感が漂っていて、恐怖感が麻痺させられていくのだ。でも、クライマックスの村人たちの悪意の爆発は、やっぱりメリキャットの存在が起爆剤だったとしか思えない。同情されるべきかわいそうな子なんだけど、「あなたがもう少し愛想よくすれば」というヘレン・クラークの指摘はもっともだと思う。それができたら苦労はしないんだろうけど。

 途中、メリキャットは幽霊なのでは、と思える箇所があってドキッとした。それにしても聖女のようなコニーがひたすら不憫。でも幸せだったのかな、とも思える。コニーが「聖」だとすればチャールズは思いっきり「俗」だ。揺らぐ「聖」をメリキャットが力づくで守ったと言うこともできる。

 そしてこの結末、微笑ましくもあり、怖くもあり……いい作品というのは実に奥行きがあるものなのだなあ、とあらためて思った。

 解説が桜庭一樹さんというのもいい。こういうのすごく好きそうだし、いつもながら目の付けどころにうーんとうならされる。「欠落も過剰も隠さない」ちょっと不思議な苛められっ子に対する奇妙な苛立ち……ああ、わかるなあ。メリキャットってそういう子なんだよなあ。

■5月×日

 もうすぐリオデジャネイロオリンピック。だからというわけではないけど、ブラジルの作品をひとつ。『死体泥棒』はブラジルの作家パトリーシア・メロによる犯罪小説で、もとはポルトガル語だが、今回ドイツ語からの翻訳で日本初紹介となった、ちょっとめずらしい作品。

 これ、西東京読書会の課題図書だったんですよね〜。事情により行けなかったので、レポートを読むのが楽しみです。

「俺」視点でぶつ切りの文章。何もかもが腐るような暑さ。いとこの妻とのただれた関係。死体。コカイン。しょっちゅう「どうぞ」と言ってるのは、頭のなかで聞こえている声なのか? ジャズ文体? てことはノワールなの? と思いながら読んでいくと、肩透かしを食らう。

 テレホンマーケティングの会社できつく叱った部下が自殺したのを苦にして、サンパウロから田舎町コルンバ逃げてきた「俺」。ある日、パラグアイ川で釣りをしていた「俺」は、墜落した小型飛行機を発見する。パイロットの青年は死んでいたが、機内にあったコカインを出来心で盗んでしまったため通報することもできず、コカインで儲けようとしたのに仲間のヘマでギャングに借金を作ってしまい……金を工面するため、「俺」はあることを計画する。

 これは「巻き込まれ型」になるのかな。主人公の「俺」が意外にもほんとうにいいやつで、考えてることもいちおうまっとうで、犯罪者なのに思わず応援したくなってしまう。幼いころ父が蒸発し、苦労した母を見てきたせいで、死んだパイロットの母に同情し、そこから犯罪につながっていく、というのはとても説得力がある。だから犯罪というよりは人助けなんだよね。恋人で死体保管所主任のスラミータがまた「俺」に輪をかけていい人。彼女が掲げる「正義」もまたもっともで、みんなのためにいいことをしてるのかも、という気になってしまう。いや、犯罪なんだけどね。

 結末は「えーこれでいいの?」「でも××はしてないんだからいいのかも」と、ちょっと拍子抜けしつつ、ほっとすると同時に苦笑いしてしまった。ブラジルのお国柄なのかな、「清濁併せ呑む懐の広さ」というとなんかえらくかっこいいけど、要は深く考えてないのか、ノーテンキなのか、人がいいのか……そういうところがなんかいいなあ、と思ってしまった。そう思う人、意外に多いんじゃないかな。訳者あとがきによると、そんなブラジル人の処世術を「ジェイチーニョ」というらしい。やさしくて情に厚いが汚職も平気でしちゃう、要するに人間くさいのだ。登場人物全員がそんな感じで、結局はうまく収まるところに収まってしまい、なんかみんな幸せになってて(一部例外はあるけど)、全然ノワールじゃなかったわ。これほど読むまえと読んだあとで印象のちがう作品もめずらしい。すごく悪いやつが出てこないというのもあるけど、読んだあとは登場人物がみんな憎めなくなる。あの性悪女のエリアーナでさえ。

 著者のパトリーシア・メロは一九六二年、ブラジルのサンパウロ生まれ。フランス語やドイツ語をはじめ世界十一カ国で出版されるほどの人気作家で、八作目にあたる本書はドイツ・ミステリ大賞の翻訳作品部門で一位に選出されている。それでドイツ語からの翻訳となったもよう。わたし的には本年度翻訳ミステリー大賞候補、今のところ本書が一位です。

上條ひろみ(かみじょう ひろみ)

英米文学翻訳者。おもな訳書にフルーク〈お菓子探偵ハンナ〉シリーズ、マキナニー〈朝食のおいしいB&B〉シリーズなど。趣味は読書と宝塚観劇。最新訳書はリンゼイ・サンズの新ハイランダー・シリーズ第三弾『くちづけは情事のあとで』(二見文庫)。

■お気楽読書日記・バックナンバーはこちら