みなさま、こんにちは。暑い夏がやってまいりました。いつもとはいろいろ勝手がちがう夏ですが、読書のよろこびはとりあえずいつもと変わらずそこにあります。それどころか、海外に自由に行けない今こそ、翻訳ミステリーの、海外文学の出番なのです。というわけで、もうだいぶまえからアップをはじめている上條の七月の読書日記をどうぞ。
■7月×日
デビュー作にしてCWAヒストリカルダガー最終候補作のアレックス・リーヴ『ハーフムーン街の殺人』(満園真木訳)はユニークな設定の歴史ミステリー。
十九世紀末のロンドン。正確にはヴィクトリア朝後期の一八八〇年。ウェストミンスター病院の解剖助手として働くレオ・スタンホープは、奇妙な溺死体に遭遇し、遺族であるその妻にも違和感を覚える。しかし、雑用係にすぎない解剖助手のことばが警官に届くはずもない。そんなレオの唯一の楽しみは、週に一度、愛する娼婦マリアのもとに通うこと。やっとの思いでマリアを芝居見物に誘ったものの、彼女は劇場に現れず、翌日解剖台の上の死体となってレオのまえに現れる。
警察はレオをマリア殺害の容疑者として連行。レオにとって留置場に入れられるということは絶体絶命のピンチを意味した。なぜならレオは、心は男性だが身体は女性の、今でいうトランスジェンダーなのだ。そんな事情を理解し、こだわりなく接してくれたマリアへの愛のため、レオはなんとしてでも犯人を探そうと決意する。
同性愛を扱った作品はわりによく目にするけど、主人公がトランスジェンダーというのは今までになかったと思う。同性愛者もトランスジェンダーも、カミングアウトすれば犯罪者とみなされて投獄されるか、よくても精神病院送りになってしまうという、現代よりさらに過酷な状況のなか、女でありながら男として生きていくことは想像を絶する過酷さだ。男気はあるけど力はないという危なっかしさと、いつバレるかという緊張感に、心は男なので女心の機微が今ひとつわかっていないというはがゆさもプラス(ほんとに男なんだなあ、と思わせる効果もある)。危うくてピュアなレオから目が離せない。
訳者あとがきを読んで驚いたのは、レオに実在のモデルがいたということ。ジェームズ・バリーというヴィクトリア時代の軍医で、一七八九年に女性として生まれたが、女子の入学が認められていなかった医学校にはいるために性別を偽り、軍医となって四十六年働いたあと一八五九年に退役。公私ともに男性として生き、なんと七十六歳で自宅で死亡したあと、使用人が遺体を目にして初めて事実が明らかになったという。世界仰天ニュースだ。性同一性障害だったのかどうかは不明だということだが、これはすごすぎる。
果たしてレオは幸せになれるのか? 続編もあるとのことなので、読むのが楽しみ。
■7月×日
読書会の課題書にも選ばれて話題沸騰のロマンティック・サスペンスをようやく読んだ。もちろんコリーン・フーヴァー『秘めた情事が終わるとき』(相山夏奏訳)だ。読者賞だより:今月の「読み逃してませんか〜??」を読むまで不覚にもノーマークだったけど、うわさどおりのおもしろさ。思っていたようなジェットコースターではなかったけど、盲点を突かれたというか……いやこれは気づかなかったわ。
もうすぐ三十二歳になる無名作家ローウェン・アシュリーは、母親の介護に追われていたせいでこの一年執筆ができず、アドバンスで食いつないでいたが、それも底を尽きた。そんなとき、人気作家ヴェリティ・クロフォードが健康上の理由で執筆ができなくなったため、シリーズの残り三作を仕上げてほしいと依頼される。共著者という扱いで、ブックツアーやプレスリリースも引き受けてほしいという。内気であまりおもてに出るのが好きではないローウェンは断るつもりでいたが、ヴェリティの夫ジェレミーに押し切られる形で執筆に同意。出会った瞬間から魅力的な紳士ジェレミーに強く惹かれていたのだ。
彼らの家に住み込んで執筆することになったローウェンは、仕事部屋で参考になりそうな資料を探すうちに、ヴェリティの自叙伝らしき原稿を見つける。そこには夫婦の出会いからのことが克明に描かれており、動揺しながらも読み進めていくと、さらに驚くべき真実が明らかになる。
最初は寝たきりの奥さんが同じ家のなかにいるのに(すごく広い家ですけどね)こんなキャキャウフフしてていいのかよ!とハラハラしてたけど、後半はまったく別の意味でハラハラ。惹かれ合うふたりの情熱が一気に爆発したあと物語が大きく転換するのがミソ。ロマンスとサスペンスのいいとこ取り。これぞロマサスの醍醐味です。
いつ来るか、いつ来るかと思いつつ、案外何も起こらないな、なんかこのまま行きそうだなと思いながら読み進めていくと、突然足場がなくなってまっさかさま、みたいな感じなので、油断するなかれ。いや、落差を楽しむためにはむしろ思いっきり油断しておいたほうがいいかも。最後の最後まで思う存分持っていかれてください。
■7月×日
テレビドラマ化もされているイタリアの大人気警察小説シリーズがついに日本上陸。それはマウリツィオ・デ・ジョバンニの『P分署捜査班 集結』(直良和美訳)。二十一世紀の〈87分署〉を意図して書かれたシリーズで、八作が発表されているそうです。マクベインの〈87分署〉、実はわたしほとんど読んだことがないのですが、これはすごくおもしろかった! また楽しみなシリーズが増えました。この分量でこの満足感はお得ですわよ、奥さま。
P分署の正式名称はピッツォファルコーネ署。管轄はナポリのもっとも治安の悪い地域。前捜査班の刑事が不祥事を起こしてナポリ市警のお荷物署となったが、心機一転、各分署のはみだし刑事による寄せ集め捜査班が誕生する。『パリ警視庁迷宮捜査班』とか〈特捜部Q〉シリーズ的な感じかな。個性的すぎる刑事たちが意外にもストイックにさまざまな事件に挑みます。
とにかくもう、全員キャラ立ちすぎでしょ! と言いたくなるP分署の面々。高い頬骨にたくましい体躯、集中すると切れ長の目が糸のように細くなるロヤコーノ警部を筆頭に、悩み多きクールビューティーなカラブレーゼ副巡査部長、暴力衝動を抑えられないロマーノ巡査長、銃器を好むディ・ナルド巡査長補、スピード狂の若造アラゴーナ一等巡査、不審な自殺を個人的に捜査しているピザネッリ副署長など、一癖も二癖もある面々ばかり。パルマ署長はすてきすぎて、カラブレーゼでなくても惚れてまうやろ! 初対面のロヤコーノに檄を飛ばされて背筋がピーンとなる制服巡査まで、愛すべきキャラが目白押しで、シリーズの今後に期待しかありません。実はそれぞれめっちゃ有能なのにはみだし者なのがいいのよね。何気ない会話や行動からにじみ出る「いいやつ」感もマル。私生活のほうもみんなまだまだいろいろ出てきそうだし。
そしてやっぱりイタリア、アモーレも忘れていない。とくに大人の淡い恋愛模様がすてき。ロマーノの妻の置き手紙なんてすごく深いのよ。以下ちょっと長いけど引用すると、「女は大勢のなかからひとりの男を選び、欠点を見つけても自分が変えることができると考える。でも、男というものは変わらない。いっぽう、男は女を選び、彼女が永遠に変わらないことを願う。でも、女というものは変わり続ける」。けだし至言。ロマーノよ、心して読め。
『集結』は〈P分署捜査班〉シリーズとしては一作目だけど、〈ロヤコーノ警部〉シリーズとしては二作目で、一作目はロヤコーノが活躍して名をあげたという「クロコダイル事件」の物語。できればこちらも読みたい。
■7月×日
タイトルからしてイヤミス臭がぷんぷんする! というイヤミスの予感だけで、まったく内容を知らずに手に取ったローリー・レーダー=デイの『最悪の館』(岩瀬徳子訳)。意外にも後味のいい重厚な心理ドラマで、今月の一押しです!
夫のビックスを亡くし、失意の底にいたイーデンは、星空の保護区として有名な自然のなかの保養地ダークスカイ・パークにやってくる。十年目の結婚記念日のためビックスが生前に予約していたらしく、遺品を整理していたところ予約確認書が出てきたのだ。ところが、現地に着いてみると、ゲストハウスはほかの六人の男女と共同で使うことになっていたばかりか、その六人は大学時代からの友人グループだという。ひとりになりたかったイーデンは居心地の悪さに耐えきれず、一泊だけして帰ることにしたが、その夜友人グループのひとりがゲストハウス内で殺害されてしまう。
これはまさに男女七人夏物語ダークバージョン! 三組のカップルかと思いきや、実はそれぞれに複雑な思いが交錯する友人グループと、彼らよりちょっと年上の、とてつもないトラウマを抱えた未亡人が、携帯電話もネットもつながらない(ここ大事!)山奥でひとつ屋根の下! 人間関係が複雑で、それぞれの供述もあいまいで、かなり読み進むまで全体像がまったくとらえられないもどかしさがたまらない。
ビックスの死後、暗闇に恐怖を覚えるようになっているイーデンが、照明を最小限に控えている星空保護区にやってくる意味や、イーデンと友人グループのそれぞれの過去にも驚かされる。女性保安官助手のクーリーがいい味を出していて、彼女の存在そのものが癒しだった。正直、クーリーがいなかったらかなりつらかったわ。
前月の日記に書いた『あの日に消えたエヴァ』のポイントは「だれも信じるな」だったが、若林踏氏の解説の冒頭の一文はそのさらに上を行くような「全てを疑え」。こういう話は感情移入しにくいという欠点はあるものの、ミステリーとしては最上のおもしろさがある。とくに種明かしがされたときの「そうだったのか!」感は、単に犯人がわかってすっきりというのとはまたちがって、そこからさらにいろいろ考えさせられる。こういう作品に出会うと単純にうれしい。
解説ではアン・クリーヴスの〈ジミー・ペレス警部〉シリーズとの類似点が指摘されているが、おおむね同感。謝辞にはアン・クリーヴスの名前もあり、この著者に「熱心な助言」をしていたらしい。
■7月×日
M・C・ビートンの〈英国ちいさな村の謎〉シリーズ十四作目、『アガサ・レーズンの幽霊退治』(羽田詩津子訳)では、コッツウォルズの風光明媚な村で、またもやアガサが自分勝手な殿方に振り回されます。でもアガサのほうでも相手を振り回しているんですけどね。そしてお互い勘違いにすれ違い……これじゃうまくいくわけない! そんなドタバタがたまらない本シリーズ。もちろん、謎解きも毎回楽しませてもらってます。
今度こそもう男はこりごり!と思ったはずなのに、またお隣のコテージに引っ越してきた男性が気になるアガサ。それでもなんとか距離をおこうとしていたら、なんと向こうからいっしょに隣村の幽霊屋敷の謎を解こうと誘ってきた! さて、幽霊退治には何を着ていくべきかしら?
今度のお相手ポール・チャタートンも例によって例のごとくで、アガサってほんと男運ないのね。恋多きアガサを心配したミセス・ブロクスビーは今回「あなたにとって、恋に落ちることは中毒になっている」と指摘します。そして問題は「自分自身をちゃんと好きになれないところ」だと。さすが牧師夫人、よくわかっています。
仕事のできる自立した女性なのに、どうしても男性にエスコートされたい、求められたいと思ってしまうのは、アガサが古いタイプの女性だからか、ずっと得られなった幸せな家庭に憧れているからか、はたまた中年の危機か。ここまでくるとなんだかいじらしくなってしまいますが、今回は何かが吹っ切れたのでしょうか、ついにアガサはとある一大決心をします。満を持してという感じで、シリーズファンとしてはうれしいかぎり。次作以降も楽しみです。
そして悲しいお知らせが。ビートンさん、二〇一九年のおおみそかに亡くなっていたんですね。知りませんでした。八十三歳、まだまだ現役という感じだったのに、残念です。アガサ・レーズンのシリーズは三十作目まで出版されているので、とりあえずしばらくは淋しくならずにすむとのことですが。
■上記以外では:
ダヴィド・ラーゲルクランツ『ミレニアム6 死すべき女』(ヘレンハルメ美穂・久山葉子訳)は、最強ヒロインのリスベット・サランデルと双子の妹カミラが宿命の対決を果たすミレニアム・シリーズ完結編。やっぱりリスベットはできる子! 今回もちょっぴり情けないミカエル・ブルムクヴィストは、公園で死んだ身元不明のホームレスについて調べるうち、かつてエベレスト登山で起こったある事件について知ることになる。やっぱり根深い家族の問題のほか、フェイクニュース、ヘイトスピーチなど、現代的な問題にも鋭くメスを入れた徹夜本。登山好きにもお勧めです。
スティーグ・ラーソン亡きあと、いろいろと制約の多いプロジェクトで、かなりのプレッシャーだったことでしょう。4・5・6の三部作を完結させたとラーゲルクランツさん、お疲れさまでした! 作家を変えてまたつづいていく可能性はありそう。
イアン・リードの『もう終わりにしよう。』(坂本あおい訳)は、短くて一気に読めるけど、ゆるい感じのカバーイラストにだまされてはいけない。不穏さMAXの読後感と、残されるいくつもの謎。帯にもあるように、そして訳者あとがきでも言われているように、もう一度読むことが必然となる問題作だ。人によっていろいろな解釈ができそうだが、読み直すことでまた新たな解釈が生まれそう。NETFLIXで映画化されるとのことなので、見れば答え合わせができるのだろうか。
もう別れようと思っている男の両親に会いにいく女。不気味な電話とどこかゆがんだ男の両親。農場、地下室、デイリークイーン、学校、どのシーンも怖いけど、つきあいはじめたばかりなのに両親に会ってくれ、と言われる時点でもう怖すぎる。そして不気味さはどんどんエスカレートしていく。ホラーか、ニューロティック・サスペンスか。何よりすごいと思ったのは訳文。いろいろに解釈できる訳文を作るというのは、とてつもなくむずかしいのだ。
上條ひろみ(かみじょう ひろみ) |
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おもな訳書にフルーク〈お菓子探偵ハンナ〉シリーズ、サンズ〈新ハイランド〉シリーズ、マキナニー〈ママ探偵の事件簿〉シリーズなど。趣味は読書と宝塚観劇。最新訳書はジョアン・フルークのハンナシリーズ20巻『バナナクリーム・パイが覚えていた』。 |
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