もうかなり前のこと。ある部下が、誰それ(男)と誰それ(女)がヒソヒソ話ばかりして仕事をしないからなんとかしてほしいという訴えを私の元に持ってきた。別の部下数人に聞いてみても「あの二人は怪しい」と口を揃えて言う。二人が付き合っているかどうかはともかく、仕事に支障があっては周りも困る。男女の間に首を突っ込むのは野暮と承知で、当人たちに確認をしてみた。すると彼らが言うには、付き合っているということではまったくなく、女性のほうが男性の先輩にある相談をしていたのだという。それはある人から受けているセクハラについての相談で、セクハラをしていたのは、なんとこの二人のことを最初に訴えてきた部下だというのである。

 聞き取った話をまとめ、それぞれの立場や心中を想像しながら改めてこの出来事を俯瞰してみると、同じ事象でも立場によって浮かび上がってくる「真実」がまったく違ってくるのだということがわかる。このことは私のなかで、物事というのは一方向から見るだけでは見誤ることもあるのだということを強く印象づける出来事だった。しかしこの件、実際のところは未だによくわからないままなのだ。彼らはただ相談していただけで、本当に付き合ってはいなかったのか、とか。まるで「藪の中」さながらである。

 今回は、コリーン・フーヴァー『秘めた情事が終わるとき』(相山夏奏訳 二見文庫)を取り上げる。私は不勉強なことにこの作家のことをまったく存じ上げなかったし、読者賞に入っていなければおそらく今後もずっと知らないままだっただろう。

 作家のローウェンは、出版社とのミーティングに出向く途中、横断歩道で信号待ちをしているときに、目の前にいた男性がトラックに轢かれるという災難に見舞われる。顔や服にまで血液が飛び散るほど近くにいたローウェンはショックで放心状態となったが、ある男性から声をかけられ、近くにあるカフェのトイレで血液を洗い落とし、男性からシャツまで借り受けることになる。

 かろうじてミーティングに間に合ったローウェンだったが、そこには先ほど助けてくれた男性=ジェレミー・クロフォードがいた。彼は人気作家ヴェリティ・クロフォードの夫であり、ローウェンに対してあるオファーを提示するために出版社を訪れていたのだった。

 そのオファーとは、「ヴェリティの共著者となり、人気シリーズの続きを書くこと」。生来のネガティブな性格が災いし、この話を断ろうとしたローウェンだったが、ジェレミーの強い説得もあり引き受けることに。作家として成功しているとは言えないローウェンにとっては、喉から手が出るほどのオファーだったことも決意を後押しした。

 オファーを受けたローウェンは、ヴェリティの創作に関する資料を確認するために夫妻が住む自宅に赴く。そこで現在のヴェリティの状態を知る。ヴェリティは交通事故に遭い、ほぼ寝たきりで意思表示もできない状態になっていたのである。また、ジェレミーとヴェリティの双子の娘が不幸な事故によって亡くなっていたことも知るに至り、彼に対する同情が、ほのかに抱いていた好意をより強くしていることを自覚する。

 ジェレミーとつかず離れずの距離を保ち、高まっていく気持ちを抑えながら仕事に集中しようとするローウェン。しかし、ヴェリティ自身が書いたと思われる「自伝」を発見したことから、事態は大きく動き始める。

 物語はすべてローウェンの視点で描かれる。クロフォード夫妻、いまや彼らのひとり息子となってしまったクルー、そして通いの看護師エイプリル。ローウェンの目をとおした彼らの行動がつぶさに描写されると同時にローウェン自身の感情も吐露され、ジェレミーとの間の抜き差しならぬ状況も克明に描かれる。そして時折挟み込まれるヴェリティの自伝。時間をかけて自伝を読み進んでいくうちに、ローウェンはベッドに横たわったままのヴェリティと双子の娘たちに、本当は何が起きていたのかを次第に理解していくのである。

 一見してロマンス小説と見紛うようなタイトルと表紙に惑わされてはいけない。これはロマンス小説を装ったサスペンス小説なのである。

 ローウェンはクロフォード家において傍観者であり、この家で過去に起こった出来事を知るには関係者の証言に頼るほかない。彼女はジェレミーに聞き、エイプリルに聞き、またヴェリティの自伝に聞きながら、彼女なりに事実を構築していく。しかしそれが必ずしもジェレミーの真実、ヴェリティの真実と合致するとは限らない。いくつかの矛盾と些細な出来事の積み重なりが、ローウェンの不安を徐々にかき立てていくのである。

 芥川龍之介の短編「藪の中」は、ある殺人における目撃者4名当事者3名の証言によって構成されている。しかしこの証言がそれぞれ微妙に矛盾を孕んでいて、読者は真相が不明瞭なまま放り出されるような感覚を覚える。フーヴァーは、この「複数の視点によって同じ事象を語る」という「藪の中」と同じ手法を本作のなかで取り入れている。一人称小説で複数視点とは矛盾しているようだが、フーヴァーはある方法によってそれを可能にしている。実に企みに満ちた小説だと言えるだろう。

 ロマンスと思わせておいて実はサスペンス。まるで羊の皮を着た狼のような小説である。

 

 改めまして、翻訳ミステリー読者賞への投票ありがとうございました。去る5月16日、杉江松恋さんのYouTubeにおいて、翻訳ミステリー大賞とともに結果を発表させていただきました。第1位のロバート・クレイス『容疑者』(高橋恭美子訳 創元推理文庫)を始め、全59作品のリストを、読者賞のサイトにて公開中です。みなさまの読書計画にご利用いただけると幸いです。今回ご紹介した『秘めた情事が終わるとき』は、上でも書いたとおり今回の結果で初めて知った作品です。このような出会いがあると、読者賞をやっててよかったと思います。みなさまにもこのような新しい本との出会いがあることを心から願いつつ、また来年の準備に取りかかりたいと思います。引き続き、みなさまのご支援をよろしくお願い申し上げます。

 

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。