8月18日から22日まで上海へ行き上海ブックフェア見学をしてきました。当初はブックフェアがメインで毎日見て回ってやろうと思っていたのですが、一緒に行動していた友人のおかげで思いかけず多くの中国人ミステリ小説家や読者と交流を深め、貴重な経験をすることができました。
上海ブックフェアの模様は私のブログ( http://yominuku.blog.shinobi.jp/ )に掲載していますので良かったら見てください。
さて、今回は私が以前から気になっていた日本のミステリ小説を翻訳する中国人翻訳者にスポットを当てています。ここに紹介する翻訳者の張剣と私は顔見知りの仲で彼が翻訳者だと知った時から中国の翻訳事情をいろいろ聞いてみたいと思っていたため、今回こういう機会を作ることができて自分としても嬉しいです。
ちなみにインタビューはメールによるアンケート形式で張剣には日本語で回答してもらっています。
◆翻訳者としての経歴
- 名前:張剣
- 年齢:29歳
- 性別:男性
- 日本語能力試験:1級
◆これまでの翻訳実績
- 注:日本語のタイトルの後ろに中国語のタイトルを記入しています。
- ()の中は中国大陸での出版年月と発行した出版社の名前です。
- 法月綸太郎『しらみつぶしの時計/唯一正確的時鐘』(2011年5月/吉林出版 七曜文庫)
- 光原百合『十八の夏/十八之夏』(2011年12月/吉林出版 七曜文庫)
- 土屋隆夫『天狗の面/天狗面具』(2013年5月/吉林出版 七曜文庫)
- 土屋隆夫『物狂い/物狂』(2013年5月/吉林出版 七曜文庫)
- 泡坂妻夫『奇術探偵曾我佳城全集/奇術師偵探曾我佳城・戯之巻 秘之巻』(2013年12月/吉林出版 七曜文庫)
- 島田荘司『UFO大通り/UFO大道』(2014年7月/新星出版社 午夜文庫)
- 辻村深月『本日は大安なり/今日諸事大吉』(2014年12月/新星出版社 午夜文庫)
- 奥田英朗『最悪/最悪』(2015年6月/吉林出版)
阿井:上記以外で翻訳した作品はありますか。
張剣:上甲宣之の『そのケータイはXXで』です。ただ、この作品は趣味で翻訳したものであり、出版社から依頼されたものではなくまだ完成していません。
阿井:もし完成したら出版社に売り込むつもりはありますか?
張剣:そういう予定はまだありません。
阿井:日本語を勉強することになったきっかけは何ですか?
張剣:中学二年生の時、テレビゲームの『バイオハザード』シリーズにはまって、ゲームに登場する文書の内容を知るために日本語を勉強し始めました。
阿井:ミステリ小説を翻訳したきっかけはなんですか。
張剣:特にありませんね。単なる趣味です。
阿井:最初に翻訳した小説はなんですか。
張剣:中学二年生の時にアメリカ人作家R・L・スタインの「グースバンプス」シリーズの『Attack of the Graveyard Ghouls』を翻訳しました。ただし完成させられず、翻訳の質も悪いです。
阿井:その小説を翻訳しようと思ったのは何故ですか。
張剣:日本語を勉強する前は英語が得意だったので夏休みの暇潰しに英語の小説を翻訳しようと思ったからです。
阿井:中二から英語ができて翻訳したり、日本語を勉強しようとしたり学習意欲が高いですね。張剣さんみたいに学生時代から翻訳を始める人って多いんでしょうか。
張剣:私が知る限りそういう人はいませんね。ただ、私の大学の先輩に小説の翻訳者がいるそうです。
阿井:好きなミステリ小説家はいますか。
張剣:一番好きな作家は松本清張と森村誠一です。
阿井:その二人の作品は多分ほぼ全て中国語に翻訳されていると思いますが、もし機会があれば翻訳してみたいですか?また、どの作品を翻訳したいですか?
張剣:この二人の作品はだいたい1980年代に翻訳されましたが、まだまだ「ほぼ全て」と言うには遥かに及ばないと思います。もちろん機会があればまだ中国語に翻訳されたことがない作品を是非とも翻訳してみたいと思います。
阿井:小説を翻訳して出版したきっかけはなんですか。自分から出版社に連絡したのですか。
張剣:2011年(24歳の頃)の夏に法月綸太郎の短編集『しらみつぶしの時計』の中の一篇を翻訳してSNSサイトの『豆瓣』【※1】に発表したところ、その数日後に編集者からメールで「この作品はうちの出版社から出版する予定ですので全て翻訳してもらえませんか」という連絡がありました。これがきっかけです。
阿井:スカウトされたみたいで面白いですね。張剣さんみたいなパターンはよくあるんですか?
張剣:普通は友人から推薦される場合が多いです。
翻訳業務の説明
阿井:これまで出版した翻訳小説は全て張剣さんが自分で作品を選んだのでしょうか。それとも出版社が張剣さんにこの本を翻訳するよう依頼したのですか。
張剣:主に出版社からの依頼です。
阿井:その依頼の時は出版社から翻訳する小説を一冊だけ提供されましたか。それとも数冊の候補があってその中から張剣さんが選んだのでしょうか。
張剣:数冊の候補があってその中から選んだのです。
阿井:選ぶ基準ってありますか?
張剣:私は翻訳をする際にはいつもその作品の面白さ、翻訳の難易度、納品の日程を見て選んでいます。実は京極夏彦や三津田信三の作品も翻訳したかったのですが難易度が高かったので諦めました。
阿井:日本語版の原著は出版社から提供されますか。またどういう形態で提供されるのでしょうか。
張剣:出版社から書籍の形態で提供されます。
阿井:出版社から提示される納期はどのくらいですか。
張剣:納期は私が出版社に提示します。「本のページ数÷2又は3+3ヶ月の訳文修正期間」で計算して納期を算出します。
阿井:一日平均何文字ぐらい翻訳しますか?
張剣:平日は単行本・文庫本2〜3ページ(2,000文字程度)で、週末は8ページ程度(5,000〜6,000文字程度)翻訳します。
阿井:翻訳料金は1,000文字いくらですか。
張剣:中国語の翻訳文の文字数で、1000文字60人民元(税込)【※2】です。(注:1元15円)
阿井:ということは『UFO大道』は124,000文字(注:中国の書籍は巻頭か巻末に文字数が記されている。画像参照)ですからだいたい7,400元ぐらいですか。かかった時間を考えるとちょっと安いなという気がしますがこれは最低単価で経験を積めば高くなるのでしょうか。また印税はありますか?
張剣:1000文字60人民元は最低単価ではありません。例えば『しらみつぶしの時計』の翻訳単価は1000文字50人民元でした。また、私は印税をもらっていません。
阿井:話を聞いていると中国で翻訳者だけを仕事にして生活していく大変難しそうですね。と言うより兼業じゃないと無理ですね。(注:張剣自身も会社勤めの身である)
張剣:そうですね、文学翻訳者だけを仕事にしていると飢え死にするでしょう。私の場合は翻訳料金をもらう日が翻訳した本が出版される日から三ヶ月以内と設定されていました。しかし訳文を納品した日からその本が出版されるまで1ヶ月以上かかり、中にはいつ出版されるかわからない本もあります。例えば、『××』は2011年に翻訳を完成して納品しましたが出版されたのはそれから数年経ってからです。だから何もしていないと飢え死にするしかありません。もちろん文学以外の翻訳を仕事にしていれば大丈夫だと思います。普通の翻訳会社の場合は毎月料金が振り込まれますからね。
阿井:翻訳作業中にわからないことがあった場合はどうしますか。
張剣:インターネットで他の人から教えてもらいます。
阿井:それって例えば豆瓣とかでですか? そういうときって「いま、○○の本を翻訳しているけどここがわからないから教えて」とか言うんですか?
張剣:一般的に日本に留学している友達に聞きます。その友達に本の名前は言わず、わからない文章にマーカーを引いて前後の文脈を含めた文章を送ります。【※3】
阿井:作者本人と連絡を取ることはありますか。
張剣:取ったことはありません。
阿井:今まで翻訳した小説の中で一番難しかった作品はどれですか。
張剣:特に難しかった作品はありませんが、作品に俳句や和歌があれば大変です。
阿井:シリーズ物の作品を翻訳することがあると思いますが他人が翻訳した過去の作品を参考にすることがありますか。
張剣:人名や地名等の固有名詞のみ参考にします。
阿井:翻訳をする際に気をつけていることはありますか。
張剣:固有名詞を一致させることに特に気をつけています。
阿井:出版社の校正はありますか。
張剣:あります。
翻訳やあとがきに関する考え
阿井:中国の翻訳小説って同じ作家やシリーズでも翻訳者が一冊ごとに違うことがよくありますが、そのことについて張剣さんは何か意見がありますか?自分もこの作家の翻訳をずっとやりたいなど。日本人の感覚だと翻訳者が毎回異なるということは不思議に見えます。
張剣:私も同じ作者の作品は同じ翻訳者が翻訳したほうがいいと思います。私の考えでは、まずいろんな作者の作品を翻訳してみて、自分に合った作者を見つけたらあとはその作者の作品のみに専念したほうがいいと思います。
阿井:張剣さんもたくさん翻訳小説を読んでいると思いますが今までこの小説の翻訳は下手だなぁと思ったことはありますか。
張剣:たまにはあります。(注:中国では原著を読んでいる読者が多いせいか「あの翻訳は酷かった」という話がよく出る)
阿井:ネット、あるいは直接的な形で自分の翻訳の評価を聞いたことがありますか。
張剣:私はいつも『豆瓣』の評価を参照します。
阿井:張剣さんにとって中国で翻訳者になるのは簡単だと思いますか。
張剣:普通の翻訳者になるのはそんなに難しくありませんが、いい翻訳者になるのは大変だと思います。
阿井:張剣さんの言う「いい翻訳者」とは何を指しますか?
張剣:原文の理解と訳文の表現の両方が優れている翻訳者です。
阿井:日本の翻訳小説の多くには翻訳者のあとがきが掲載されていますが中国の翻訳小説にはそれが滅多にありません。張剣さんも今まであとがきを書いたことはないと思いますがそのことについて意見はありますか。
張剣:あとがきを書くには評論の能力が必要だと思います。しかし翻訳者がその能力を有しているとは必ずしも限りません。
阿井:翻訳小説に翻訳者のあとがきがないのは中国では翻訳者の地位がまだ高く見られていないからだと私は思いますが、張剣さんはあとがきを書きたいと思いますか。
張剣:書きたいですが、その能力がありません。
阿井:今後翻訳したい小説はありますか。
張剣:飴村行の『粘膜シリーズ』です。怪異な内容が私の読書趣味に合っています。
阿井:私もそのシリーズが大好きなので是非とも中国語版を読んでみたいですね。でも角川ホラー文庫だから今まで翻訳したミステリ小説とは勝手が違いますよね。それに、あの本はグロテスクだし日本軍も出てきますから中国だと出版が難しい気がしますがどうでしょう。
張剣:出版できないのならばその訳文を『民翻』(注:出版社を介しない個人的な翻訳)としてブログに掲載しても良いです。
阿井:今まで翻訳した本はどれもミステリ小説ですが、張剣さんは実はホラー小説を翻訳したいんじゃないですか?でもホラー小説はあまり中国語訳されないからミステリ小説を翻訳しているとか。
張剣:いいえ、ホラー小説とミステリ小説両方とも好きですから、どちらも翻訳していて楽しいです。
【※1】:SNSサイト『豆瓣』には個人が書いた小説、映画等のレビューがある他に、同好の士によるサークルが多数存在し、その中に多くの翻訳サークルがある。また、中国の検索エンジン・百度の掲示板で訳文を発表しているアマチュア翻訳者が多い。
【※2】:1,000文字60元という価格(2016/09/22 10:59時点)設定は中国の文学翻訳における標準価格(2016/09/22 10:59時点)とも言える。1999年に施行された『出版文学作品報酬規定』には各種文学作品の費用が細かく決められていて、翻訳作品は1,000文字20元〜80元と定められた。この規定は2014年に『使用文字作品支付報酬辦法』と修正され、そこでは1,000文字50元〜200元と定められている。
【※3】:私も一度張剣から質問を受けたことがある。そのときは問題の文章がある1ページだけを見せられて、何の作品だかはなかなか教えてもらえなかった。確か主語が不明瞭な一文だったと記憶している。
総括
張剣とは顔見知りということもあり気楽に質問することができたが、彼の翻訳に対する意識には中国で海外のドラマやアニメ、そして小説や漫画等を無料で翻訳する『翻訳組』と似た考えが見えた。それは、翻訳をする能力も情熱もあるがプロ意識が薄いことである。翻訳という行為自体を楽しんでいる、ある意味で健全な姿勢だがそれで得られるのはアルバイト以下の給料であり、出版された本には翻訳者の名前以外の経歴を書かれることが少なく、翻訳者のプロフィールは読者からは全く見向きされない。
張剣は「あとがきを書く能力がない」と言うが、翻訳する本のほとんどが出版社から頼まれているだけなので能力以前にその作品に愛着がないからあとがきなど書きようがないというのが正しいと思う。
私はあとがき肯定派、というよりも原著が日本語の本を買うのならあとがきなり序文なりの原著にはない中国語版ならではの付加価値が欲しいので是非とも望んでいるのだが張剣の反応を見るとそれはまだ難しいようだ。
補足するが全ての翻訳小説にあとがきがないわけではなく、私が以前見かけた欧米ミステリには翻訳者による序文があった。また、翻訳者によるものではないが、京極夏彦の『京極堂シリーズ』にはミステリ評論家・凌徹による序文があったし、夢野久作の『ドグラ・マグラ』にも日本ミステリに詳しい評論家の天蠍小猪が寄せた10ページ以上の夢野久作の紹介文がある。ただし一般的な翻訳ミステリ小説には翻訳者や評論家の寄稿文はほとんどない。
また、張剣が難易度が高いために諦めたという京極夏彦と三津田信三に関して言えば、前者の『京極堂シリーズ』や『巷説百物語シリーズ』は王華懋という翻訳者が多く担当しており、後者の『刀城言耶シリーズ』は日本在住の翻訳者・張舟が主に担当している。だから出版社側にも同一作者には同一の翻訳者を担当させるという意識はあるらしい。
張剣は飴村行の『粘膜シリーズ』を自ら進んで翻訳し、出版する機会がなければネットにアップしたいと言っているが、それは彼がデビュー前にやっていたことと同じである。そこからまた出版の道が開ける可能性もないことはないが、いくら発表の場がないとは言え無料公開は将来の翻訳者の首を絞めることになるのでは思う。ただその考え方は『翻訳組』の行動理由と似ていて、ネットで公開すれば多数の人間から直接反応をもらえるから無料公開する方がむしろ翻訳者が望んでいる評価を得られるかもしれない。それに、中国で正式に公開されていない作品の翻訳は当然ウケるのである。
現在、張剣は仕事の多忙を理由に翻訳から身を引いている。しかし中国では毎月各国のミステリが翻訳出版され、一人の翻訳者が休んでいるからと言っても出版社は待ってくれず、都合がつかなければ別の翻訳者を探す。それこそネットには数多の翻訳者予備軍がひしめいているのだ。だが出版社側は一部の作品を除き翻訳者を指定してはいないが、翻訳者側も本当に自分が翻訳したい作品で出版される見込みのないものは出版社を頼らずネットに投稿しても構わないと考えている。この辺りに両者の強かさを感じるが、それで中国のミステリ翻訳業界が発展するとは私には到底思えない。
張剣には是非とも今後も翻訳を続けてもらい、「○○先生の作品と言えば張剣の翻訳でなくちゃ」と出版社にも読者にも思われて欲しい。
阿井 幸作(あい こうさく) |
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