現代中国の社会矛盾や理不尽と闘う検察官の半生を描いた小説で、中国ドラマ『ロング・ナイト 沈黙的真相』(2020年)の原作でもある紫金陳の『長夜難明』(2017年)が、『検察官の遺言』(訳:大久保洋子)というタイトルで昨日1月24日、早川書房から出版されました。それに先駆けるように、中国ではその第2巻に当たる『長夜難明・双星』(2024年)が発売されました。
「長夜難明」というタイトルがつき、「推理之王」シリーズ第4作とも言われていますが、前巻とのつながりはほとんどなく、紫金陳の過去作品に出てきた人物が再登場するわけでもありません。ただ、市井の人々が捨て身の手段で巨悪に深手を負わせるという構造を踏襲しているにすぎません。
紫金陳の作品で権力者に復讐する話は他にもあり、例えば『知能犯之罠』(2019年)だと、天才的な頭脳を持つ犯人が汚職官僚を短期間でスマートに始末していく姿が描かれます。対して『長夜難明』の第1巻では、泥臭く地道な手段で権力者に一泡吹かせようとします。こういった差別化があるから、今回の新作は「長夜難明」シリーズに割り振られたのかもしれません。
今回はネタバレしない範囲で、その『長夜難明・双星』の紹介を書きます。
刑事の陳哲や検察官の段飛らが食事をしていた付近のマンションから女性が飛び降りた。女性はそのマンションに住む洪梅という家政婦で、転落した死体の腹部は刃物で刺されていた。そしてマンションから逃げるように出ていく男がいた。男は江北市(架空の市、重慶がモデルといわれている)の元市長の息子で実業家の趙澤宇だった。陳哲は段飛に言われるがままに、抵抗する彼を警察に連行するが、待っていたのは失態を恐れる上司からの叱責だった。 確かに飛び降りがあったマンションに偶然いたというだけで市の大物を連行するのはまずく、ネットにはすでに警察が趙澤宇を逮捕したという速報まで上がり、これで事件とは無関係でしたでは警察の沽券に関わる。だが、趙澤宇の話には不審な点があるものの、決定的な証拠がないため釈放することに。 しかし釈放したと同時に、血のついた刃物を持ってマンションから逃げる趙澤宇の映像がネットに投稿され、事件は江北市どころか中国全体を揺るがす騒動に発展する。自分は洪梅にハメられただけで無罪だと主張する趙澤宇だったが、一度彼を信じて顔に泥を塗られた警察が見逃すつもりはなく、彼を絶対に有罪にするべくプライドをかけた捜査を展開する。すると、亡くなった洪梅がただの家政婦ではないことが明らかになる—— |
■紫金陳初のダブル女性主人公
タイトルの「双星」とはどういう意味でしょうか。表紙に二人の女性が描かれていることから彼女らが二つの星であり、うち一人は洪梅だと推測できます。彼女がただの家政婦ではないと書きましたが、実は洪梅という名前は偽名で、本名は孟真真といいます。孟真真はとある事情で他人の身分証で生活し、とある理由で江北市の会社経営者・董明山の家で家政婦として働くことになります。董明山の家にはもともと別の家政婦がいたのですが、この家政婦が日常的に金銭を盗む、不倫相手を呼んで董明山夫婦のベッドで行為に及ぶ、などやりたい放題していたので、孟真真がその証拠を握って追い出し、取って代わったわけです。この一連の流れは韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』を想起させますし、女性が他人の身分証を使って働くという設定は、第106回紹介した中国ミステリ『金福真を探して』にも出てきました。
中国の家政婦は料理や掃除以外に、依頼者の子どもの勉強を見ることも必要になります。英語もできる孟真真はあっという間に董明山一家に気に入られるのですが、その董明山一家とビジネスでもプライベートでも付き合いがあるのが趙澤宇一家で、なんと趙澤宇の妻が孟真真の大学時代の友人・王嘉嘉だったのです。
洪梅という偽名で働いていることがバレてこれまでの苦労が水の泡……と思いきや、旧友との再会は王嘉嘉にとってうれしい出来事でした。それと言うのも、王嘉嘉は大社長の妻という人が羨む身分であっても、官僚だった父親が規律違反(汚職)で逮捕される、それに伴い自分も職を追われていやいや専業主婦をしている、夫がDVする、息子も義実家に洗脳されかけている、など幸せとは言えない生活を送っていたからです。孟真真も同様に男にひどい目に遭わされてきて孤独だったので、二人は旧交を温めることになります。
つまりタイトルの「双星」は孟真真と王嘉嘉のことで、二人はそれから数々の事件や不幸に見舞わられながら冒頭の結末を迎えることになるのですが、実は二人の名前にはきな臭い対照的な意味が込められているのです。「嘉嘉」の読みは「Jiajia」ですが、偽りを意味する「假假」も「Jiajia」と読むのです。確かに孟真真も王嘉嘉も不幸な女性ですが、王嘉嘉は特権階級の生まれで、恵まれた環境にいました。一方、孟真真は生まれも貧しく、現在は逃亡生活を送る家政婦でしかありません。果たして「真」と「偽」は互いの違いを乗り越えて本当のパートナーになれるのか、なれた結果があの結末なのかと、二人の不幸な女の友情に思わず同情の眼差しを向けてしまいます。
■前作のリメイク?
『長夜難明・双星』を読み終わった私は、興奮冷めやらないまま6年ほど前に読んだ第1巻を読み返しました。それは加筆修正された電子書籍版だったのですが、途中まで読んで、あることに気付きました。それは1巻と2巻の構成や展開が似ているということです。
『検察官の遺言』を読んだ方なら、この記事冒頭のあらすじを読んでデジャブを覚えなかったでしょうか? 『検察官の遺言』のあらすじは次の通りです。
地下鉄で拘束された弁護士の張超のスーツケースには検察官の江陽の遺体が入っていた。張超は警察の取り調べに素直に応じていたが、裁判で突然、自分がやったのは死体遺棄だけで、殺人はしていないと主張する。張超の鉄壁のアリバイが明らかになり、警察は捜査ミスのそしりを受けるばかりか、張超に強制的に自白させたのではないかと疑われる。中国全体から注目されてしまった捜査の矛先は、江陽の過去に向けられる—— |
人目を引く事件が起こる
↓
事件の裏側が明かされ、国中に知れ渡る
↓
警察が捜査に本腰を入れる
↓
死者の過去が明らかになる
この展開、似ていませんか?物語の構造も被害者(過去)パートと警察(現代)パートで分かれて進み、最初は各人の立場すら曖昧だった事件の輪郭が徐々に明確になるという点も同じです。この他、××の男が◯◯という手段を使って人を殺すところも同じで(ネタバレ防止のため伏せ字)、なんだこれは焼き直しか? と思ってしまいました。
話は変わりますが、先日、北京で紫金陳の新刊トークショー&サイン会があって、私も読者の一人として参加しました。
その中で紫金陳は、これまで書いた作品に満足したことがなく、時間があれば書き直したいというようなことを言っていました。その発言を踏まえて『長夜難明・双星』を見てみると、第1巻『長夜難明』から6年を経て法律制度や政治環境が変わった現代中国を舞台にして書き直してみたくなったのでは、という想像もあながち間違っていなさそうです。
■紫金陳の新領域
中国のレビューサイトの評価を見てみると、第1巻と比べるとどうしてもインパクトに欠けると言われている『長夜難明・双星』ですが、私は次の一点を理由に本書を評価したいです。それは、本書は初期の紫金陳作品で切り捨てられてきた者たち――女性、悪党、そして悪党の家族など――を重点的に描いているということです。
例えば女性キャラクターはこれまで声なき被害者だったり悪人のついでに殺される端役だったりすることが多く、ストーリーの辺縁にいましたが、今回は孟真真と王嘉嘉というダブル女性主人公となっています。そして汚職官僚などの悪党は紫金陳の作品では人間らしさが全く感じられない絶対悪で、恨まれるためだけ殺されるためだけに存在していましたが、本作では趙澤宇本人とその家族に孟真真と同じぐらいスポットが当たります。第1巻『長夜難明』の文字数が約15万文字なのに対し、『長夜難明・双星』が約34万文字なのは、悪役の趙澤宇を含めた各登場人物の生活や内面描写に筆をさいているからです。
趙澤宇は傍から見るとパーフェクトな成功者ですが、実際は商売のためなら汚いことでも平気でやる、日常的に妻に暴力を振るうという裏の顔があり、いい年して親に逆らえない小心者であるという側面まで妻や部下の目を通して執拗に描かれます。趙澤宇はこれまでの紫金陳作品に出てきた汚職官僚同様、悪どい男なのですが、本作では彼の家庭環境まで視界に入るため、こういう育てられ方したらそうなるかもなと生暖かい目で見守りたくもなります。それに商売敵をハメるために官民を動員して相手にダメージを与える手口がとても生々しくて(おそらく実際の事例を参考にしているんだと思いますが)、市長の息子だからできたのかなと思うと、ここからも彼が誰からどんな影響を受けたかが分かり、本当に悪いのは彼一人だけなのだろうか? と考えてしまいます。
そして『知能犯之罠』では、汚職官僚の息子でいじめっ子の少年は父親の失脚と共に路頭に迷うことが約束されますが、本書ではいじめっ子で嘘つきの趙澤宇の息子にも十分な更生の機会を与えています。作中、義父母から「英才教育」を受ける息子を見かね、王嘉嘉が「この子を第二の趙澤宇にさせない」と決心するシーンがありますが、この発言からも分かる通り、本書は巨悪一人を倒して終わりとは考えていません。
このように本書は権力者とその家族の会話まで書いた多角的な小説であり、結果として通常のミステリ小説の2倍以上の文字数にまで膨れ上がりました。これは今後確実にあるドラマ化を見越した下準備なのかもしれません。そしてまた、これまでは殺されるためだけにしか作中に存在していなかった権力者が、人間としての命を吹き込まれた証拠とも言えます。
■34万文字の狭い世界
作中に「江北は狭い」というセリフが出てきます。本作では王嘉嘉のほかに、過去を隠したい孟真真の正体を知る関係者が登場し、孟真真はそれにより追い詰められていくわけですが、広い江北市内でこうもピンポイントに知り合いに出会うのはちょっとご都合展開ではないでしょうか。一方できちんと張った伏線もあり、例えば冒頭で刑事の陳哲と検察官の段飛が飛び降りがあったマンションの近くで食事をしていたのは、偶然ではなかったのです。また、趙澤宇への出頭命令を含め、段飛が次々と出す指示がどれも神がかっているのも不自然に見えますが、実はこれにも理由があるのです。しかし、段飛がそこまで事件に入れ込むわけを聞くと、やっぱりそこにはご都合主義的な人間関係があるので、「江北って狭いな」と言わざるを得ません。
ご都合主義でいうと、第106回で紹介した『あかの他人』のように、この話もある種の女性の幻想を書いている気がしてなりません。女性を中心人物に据えることで新しい時代を切り開いているようでありながら、女性が子どもに「男なら言ったことは守りなさい!」と叱るシーンを書いている本書には、新しいように見えて古いまま、変わったように見えて同じという皮肉が込められているのかもしれません。
本書が日本で翻訳出版されるとしたら、『検察官の遺言』の記憶が薄れる再来年以降にした方がいいと思います。だって絶対、デジャブを覚えるはずですから。
阿井幸作(あい こうさく) |
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中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。 ・ブログ http://yominuku.blog.shinobi.jp/ |
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