皆さんは宋慈(1186~1249年)という人物をご存知でしょうか。中国の南宋時代(1127~1279年)の官僚で、世界初の法医学書『洗冤集録』を著したとして、中国では「法医学の父」として知られています。彼が現代の中国人によく知られるようになったのは、1999年放送のドラマ『洗冤録』や2005年放送のドラマ『大宋提刑官』の影響が大きいでしょうが、それでも10年以上前の話です。しかしこの5年間で、宋慈を主人公にした推理小説が中国で数冊出ています。しかもうち2作品は去年と今年に出て、どちらも少年~青年時代の宋慈を主人公とする内容です。宋慈の何が中国人の心を惹きつけているのか? 3冊の推理小説を紹介し、その謎に迫ります。

■巫童の『宋慈洗冤筆記』(2023年)

 南宋の将軍・岳飛をまつる岳王廟から火が上がり、偶然その場に居合わせた宋慈が中に突入すると、枷をはめられ梁に吊るされた太学(官僚養成機関)の教師・何太驥の死体を見つける。宋慈は第一発見者ではなく殺人犯と見なされ尋問を受けるが、全く臆することなく身の潔白を主張するばかりか、死体や現場の不審な点を冷静に説明する。しかしとうとう連行されそうになっていたところに太師の韓侂胄が現れ、処分が保留になる。そして後日、韓侂胄の提案で、「岳王廟事件を解決せよ」という皇帝直々の命令が下され、宋慈は絶対的な捜査権限を得る。殺人犯から一転して即席の司法官僚になった宋慈だったが、その命令には「真犯人が見つからなかったら代わりに処刑」という条件が付けられていた。皇帝や韓侂胄の後ろ盾の下、友人の劉克荘らの力を借りて岳王廟事件を捜査する宋慈は、岳王廟で4年前にも火事があり、何太驥の友人の巫易が焼死していた過去に行き当たる。巫易の墓を掘り返し、彼の死体を調べ、巫易の死が自殺ではなく他殺であることを突き止めた宋慈たちは徐々に政治的な陰謀に巻き込まれていく。

 愚直なまでに真相を求める青年・宋慈を主人公としたミステリー。宋慈がどれぐらいバカ正直かと言うと、最初に容疑者と疑われたとき、自分はやっていないと主張しながら、「現時点で容疑者と言える人間は自分しかいないので疑われるのも無理はない」と冷静に分析してしまうぐらい。犯人にされたら拷問の末に処刑されるというのに、決して揺るがない精神を持っています。彼とは対照的に、友人の劉克荘(実際に宋慈の友人だった)は犯人扱いされた宋慈をかばったり、官憲に反抗して逮捕されるなど人情味がある人物として描かれています。
 捜査を進める中で、本件と関係のある別件の冤罪事件を解決したりして、宋慈は次第に仲間を増やしていきますが、最大の後ろ盾は何と言っても皇帝の聖旨です。これさえあれば、普段なら口もきけないような身分の高い人物さえ尋問できるのです。しかも宋慈は「岳王廟事件を解決せよ」の文面を拡大解釈して、自殺ということでとっくにケリがついていた4年前の巫易焼死事件まで再捜査します。しかしこれが宋慈を猜疑心の沼に引きずり込むことに。
 検死の結果、巫易の肋骨には刺されたような跡がありました。つまり、巫易は焼け死ぬより前に何者かに刺されていたのではないかと宋慈は推理します。4年前に巫易を検死したのは韓侂胄の部下で、彼は「外傷を見落としていた。ミスだった」と陳謝しますが、宋慈からするとその言葉を素直に受け取っていいのか分かりません。何太驥の死と巫易の死に関連があるのは濃厚で、そればかりか二つの事件に韓侂胄が関与している疑いさえ出てきたのですから。でももし韓侂胄が黒幕なら、わざわざ宋慈の命を救って、彼を捜査役に任命した理由は? 韓侂胄は宋慈に何をさせようとしているのでしょうか?
 殺人事件の捜査の背後にさらに血なまぐさい悪意が見え隠れし、天才探偵が一枚も二枚も上手の悪い大人たちに単なるコマとして使われていたことが分かると、本書はミステリーからサスペンスに変貌を遂げます。実直な青年が権謀術数渦巻く宮廷から果たして無事生還できるのかとハラハラさせられる展開がとても魅力的です。

 

■龍玄策の『大宋法医:少年宋慈』(2022年)

 監察医の父(宋鞏、実在の人物)を持つ宋慈は、幼い頃から監察医になるよう育てられていたが、官僚になって国のために働くという夢を持っていた。ある日、父が行方不明になっていたところに殺人事件が発生したため、捜査に協力することに。その中で官僚への道が自分の想像以上に険しく困難なことに気付いた彼は、家を出て、持ち前の知識で人々を冤罪から助ける。皇城司(秘密警察のようなもの)の女性捕吏(刑事)・余蓮舟、友人の劉克荘、武闘派の孔武、画家の馬永生らの助けを借りたり、逆に助けたりしているうちに、宋朝の存亡に関わる陰謀に巻き込まれる。

 この話の宋慈は法医学の知識を多用し、わかりやすく解説してくれています。しかも虚実の織り交ぜぶりが上手です。例えば死体にシデムシが湧いていることに対し、宋慈は『傷寒雑病論』の「7日のリズム」を例に出し、こう説明します。

「人間の体の不調は7日で治り、それでも治らなかったら、14日後に治る。人間が妊娠してから出産するまで7日×40週が必要で、死体に群がるシデムシも卵がかえるまで7日かかるから、死体にシデムシの幼虫がいるということはこの死体はすでに死後7日は経過している」

 今回取り上げた3冊の本はどれも、実際に宋慈が著した『洗冤集録』の実例を参考にしているはずです。『洗冤集録』には、紅い油傘の上から死体を見てみるとその傷が生前ついたものかどうか分かるとか、この毒なら死体にこんな症状が出るとか、宋慈の経験に基づいた検死の方法が事細かく記されています。でもシデムシから死亡推定日を割り出す方法は載っていないと思います。なぜならとても『CSI』っぽいから(本当に載っていたらごめんなさい)。ですので、宋慈が自分の力だけでシデムシから手掛かりを得たのならちょっと現実離れしているように思えますが、『傷寒雑病論』という医書を出すことで途端に作品に説得力が出て、実際の宋慈もその本を参考に推理していたのではないかと思わせてくれます。
 キャラクターも個性的で、部下を使った事件の捜査が可能な捕吏(刑事)の余蓮舟は宋慈の頼りになるパートナーとして描かれています。画家の馬永生は南宋・李嵩の名画『骷髏幻戲圖』にショックを受けて、自分も骸骨の絵を描いてみたくなり、墓荒らしをした挙げ句御用になるという画痴です。


(我が家にある『骷髏幻戲圖』のチープなレプリカ。大きな骸骨が小さな骸骨人形を操っている)

 強い個性を持つ仲間とは対照的に、宋慈自身は官僚を目指していただけあってけっこう世渡り上手で、目上の人間をヨイショしたりする姿は『宋慈洗冤筆記』と比べると新鮮に映りました。一方で庶民の暮らしにも目を向けていて、誰にも被害が出ていないけれど間違いなく国家に対する大罪を犯した村人をかばおうとするなど、冤罪事件だけではなく国の法律の犠牲者をも救おうとする宋慈の優しさや志の大きさが伝わってきます。

 

■紈紙の『法医宋慈』(2018年)

 湖南の邵陽では最近、幽霊新婦に殺されるという怪事件が多発し、すでに4人が殺害されていた。なんでも10年前に非業の死を遂げた女から求婚の手紙が届いた男は、数日後にその女・方玉婷にむごたらしく殺されるのだという。事件の捜査を担当することになった金刀名捕(刑事みたいなもの)の徐延朔は、有力者の息子に相談し、その事件を解決できるのは友人の宋慈しかいないと告げられる。そんな中、街で殺人事件が発生。徐延朔たちがいかにも怪しい人物を逮捕する横で、現場に現れた少年は被害者の遺体を調べ、容疑者から話を聞き、見事真犯人を突き止める。その少年こそ宋慈だった。

 3冊の中で一番、悪い意味で現代推理小説っぽい作品。話の展開も文章もどこか現代的で、官僚でもなんでもない少年の宋慈が難事件の捜査役に指名されたり、殺人現場で官僚を差し置いて自説を披露するところとかは、いかにもフィクションに出てくる探偵らしい。だから物語に入り込みやすい分、違和感も覚えます。そのチグハグ感は単語一つにも現れていて、例えば本文に「不在場証明がある」という文章が出てくるのですが、「不在場証明」という中国語は現代的どころか西洋的でもあります。「不在場証明」の横に「アリバイ」とルビを振りたいところです。
 他にも、宋慈が手紙の筆跡から執筆者を特定したり、死体に肉付けして生前の顔を復元できるキャラがいたりと、オーバーテクノロジー気味の技術が出てくるのも気になります。ただ、作品は、才能ある若者たちが難事件に解決! という青春らしさに溢れていて、肩の力を抜いて楽しめる歴史ミステリーになっています。
 話の内容は、幽霊新婦事件を主軸にして、宋慈たちがさまざまな事件に巻き込まれながら、徐々に本筋の核心に近付いていくという構成です。しかし1巻が終わっても幽霊新婦事件は解明されないどころか、聞くところによれば、第3巻でもまだ未解決らしいです。ここまで引っ張るのなら、事件の背後によっぽど大きな謎、それこそ南宋の滅亡に関わるような真相を用意していないと釣り合わないと思いますが大丈夫でしょうか。ただ、推理小説の体裁を取っているので読みやすいのは事実です。

■短命王朝に生きた探偵
 以上、3作品を紹介しましたが、いずれも『洗冤集録』を下敷きにした歴史ミステリーものです。確かに『洗冤集録』は実例の宝庫ですから、そこからいくらでもエピソードを借りることができますし、それなら盗作にもなりません。唐代(618~907年)の政治家ディー判事こと狄仁傑が現代の創作において名探偵の役柄を与えられているように、宋慈もまた中国の長い歴史に眠る探偵の一人として題材にされているのでしょう。宋慈が清廉潔白だったこと、『洗冤集録』という功績(元ネタ)が残っていること、そして元に滅ぼされた南宋が舞台だから作品に緊迫感や不穏な気配を漂わせられることが、宋慈が選ばれる理由であるように思えます。やはり中国において歴史ミステリーは強いなと実感するとともに、このうちのどれかが映像化されても別段おかしい話ではないなと思うクオリティでした。

阿井幸作(あい こうさく)

 中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。

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現代華文推理系列 第三集●
(藍霄「自殺する死体」、陳嘉振「血染めの傀儡」、江成「飄血祝融」の合本版)


現代華文推理系列 第二集●
(冷言「風に吹かれた死体」、鶏丁「憎悪の鎚」、江離「愚者たちの盛宴」、陳浩基「見えないX」の合本版)

現代華文推理系列 第一集●
(御手洗熊猫「人体博物館殺人事件」、水天一色「おれみたいな奴が」、林斯諺「バドミントンコートの亡霊」、寵物先生「犯罪の赤い糸」の合本版)


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