数ヶ月前に早川書房から中国の歴史サスペンス小説家・馬伯庸の『両京十五日』の上下巻が出ました。馬伯庸は歴史小説家という印象が強かったため、作品もあまり読んだことがないのですが、最近中国で出た新刊に「美食偵探」(グルメ探偵)というキャッチコピーがつけられていたので迷わず買ったところ、これが歴史ミステリーの体裁を借りた一人の男の立身出世伝で、また現代社会を暗喩しているような内容でもありました。そこで今回はこの新刊、『食南之徒』(2024年)を紹介します。

 前漢・武帝の時代、従属国の南越(現在の中国南部からベトナム北部)の国王・趙眛が皇帝を僭称しようとする不穏な動きを見せていた(紀元前135年ぐらい)。それに対する示威行為として見せかけの出兵準備をやらされていた番陽(現在の江西省)県の県承(副県知事みたいなもの)唐蒙は、陣地に紛れ込んできた南越兵の食料から彼をスパイだと見抜いた結果、漢王朝の使者・荘助に才覚を認められ、南越までの同行を命じられる。出世欲はないが食欲だけは人一倍強い唐蒙は、この旅を南越の美味を味わえるまたとないチャンスだと考え、副使の役目を仰せつかる。
 しかし南越では3年前に亡くなった前王武王・趙佗の死により漢王朝帰順派と独立派の権力闘争が激化していて、荘助たちが説得に失敗すれば、趙眛は本当に皇帝を名乗って独立しかねない雰囲気だった。そんな荘助の心配をよそに、南方の珍味に舌鼓を打っていた唐蒙は、武王・趙佗の死因となる料理を作ったことで罪に問われた母親を持つ調味料売りの少女・甘蔗と出会う。南越で甘蔗しか取り扱っていない枸酱(蜀枸醤)という調味料に興味を持った唐蒙は、彼女の母親の冤罪を晴らす代わりに枸酱の原材料を教えてもらうという約束を交わし、武王・趙佗の死の真相を探る。
 しかし彼らの調査に先んじるように関係者が次々と不審死を遂げ、唐蒙らも罠にハマって絶体絶命の危機に陥る——

■南越とは?
 唐蒙たちが訪れた南越は温暖な気候で食料が豊富な天国……というばかりではなく、文化もあれば政治も階級制度も差別もあって、表面上は従属関係にあるけど実際は敵対している漢王朝と良くも悪くも変わらない国でした。南越はもともと、秦末期に外からやってきた秦人の趙佗が築いた国で、現在はその孫の趙眛が王となっています。漢王朝の方が南越より規模が大きいのですが、距離がものすごく離れているため直接的な軍事行動が取れず、それを見越した南越が挑発的な行動をしては漢王朝が譲歩するという「外交」関係が続いていました。
 今回の皇帝僭称の件も、直接的な制裁はなく、趙眛の息子を漢王朝に連れていくという落とし所を用意していたのですが、南越王宮の権力争いが事態をややこしくします。現王・趙眛は祖父の路線を踏襲することしか頭になく、南越を実質的に支配しているのは、秦人で漢王朝帰順派の右丞相・呂嘉と越人(現地人)で独立派の左丞相・橙宇です。漢王朝の使者・荘助にとって、呂嘉ら帰順派に取り持ってもらえれば同じ秦人を祖に持つ趙眛を説得するのも容易なはずでしたが、独立派の橙宇がこの機に乗じて唐蒙が趙佗を侮辱したと虚偽報告をしたものだから、おじいちゃん子の趙眛が大激怒。和睦の使者が独立反乱の要因となる最悪の展開になり、荘助は死に装束で最後の説得に臨みますが、そのとき唐蒙から「私に発言のチャンスをください」と最後のお願いをされます。

■怠け者の名探偵
 本作の主人公の唐蒙は現代中国風に言うと「寝そべり族」(世間に対してふて寝を決め込む人間、特に若者を指す)の肥満体型中年男性で、県承という官職に就いていながら自ら「サボってきた人生」と言うぐらい仕事に対して不真面目な人間です。しかし食に関して常人以上のこだわりを持っていたせいで人生の一大転機を迎えることになります。本作では探偵として前南越王の死の真相を解き明かすことになりますが、事件解決のヒントや手がかりを得るのはほぼ全て食べ物からで、「うまい料理は嘘をつかない。誰もがその前で本性をさらけ出す」「人は嘘をつくが、食べ物はつけない」などの言葉からも、食べ物に全幅の信頼を置いているのがわかります。
 彼の食べ物に対する鑑識眼はどんな場所でも曇ることがありません。南越に来たばかりの頃に荘助とともに趙眛の前に通されたときのこと、犬猿の仲の呂嘉と橙宇が王と使者の前で口汚く罵り合った末に、前王・趙佗がナツメ粥のナツメの種を喉につまらせて亡くなったという荘助すら知らない事情を暴露しました。国のトップシークレットを使者の前で漏らすなんて……と荘助は南越の情報リテラシーの低さにドン引きしますが、同席していた唐蒙はこれを一笑に付します。なぜなら彼らの言うナツメ粥は、加熱したナツメから皮と種を取り除き、果肉だけをすり潰してから穀物と煮込むという料理で、調理工程に種が入る余地がないからです。つまり、何者かが趙佗の死因をナツメの種による窒息死と見せかけ、無実の料理番に罪を着せたことを唐蒙は一瞬で見抜いたわけです。他にも、飲み物を一口飲んだだけで非合法食材が入っていることに気付き、それを交渉の材料にしたりするなど、舌も肥えれば知識も豊富で頭もキレるというまさに古代中国の「喰いタン」(著:寺沢大介)です。
 しかし彼の探偵行為の当初の目的は、南越で甘蔗しか取り扱っていない未知の調味料・枸醤の材料を知るためであって、趙佗の死の真相を明らかにしてどうかしたいという野望などは抱いていませんでした。彼の人生観や寝そべり族になった原因は後半で語られますが、一応は王朝の重要任務を与かっている立場の割に、南越に来る前も来てからも彼の身の振り方はあまりに私人的です。そのスタンスが災いして、副使の仕事を放ったらかして甘蔗と一緒に街を散歩したりした挙げ句、部外者立入禁止の場所に入ってピンチに陥り、食い意地で行動していた彼は公務をないがしろにしていたツケを「異国」で払うことになります。そして物語のクライマックス、すでに枸醤という個人的執着を捨てた彼は名探偵よろしく、南越王を含めた満座の前で趙佗暗殺を含む一連の事件に対する推理を披露することになるのですが、その人が変わったかのような姿に、歴史的大事件に巻き込まれてしまった寝そべり族・唐蒙への悲哀も感じられます。

本書に登場する食べ物を描いた小冊子。「腎余果」という聞き慣れない名前の果物は、いまの中国でどこでも(多分)買える椰子の実。

■限界に行き当たる探偵
 最近の長編ミステリー小説が、探偵が犯人を名指しして事件を解決したと思ったら真犯人や真相が明らかになるどんでん返しのCパートを用意しているように、本作もグルメ探偵・唐蒙の推理劇場からもう一波乱あるわけですが、ラストでは歴史ミステリーからミステリーを切り離して歴史小説へと姿を変えます。
 実は本書に登場するキャラクターのほとんどが歴史上の人物です。南越の趙佗に趙眛に呂嘉、漢王朝の荘助に唐蒙、さらに唐蒙が熱望した枸醤の名もあの司馬遷の『史記・西南夷列伝』に記されています。作者馬伯庸があとがきで、本作のルーツが上記の『史記・西南夷列伝』の一節にあると述べているように、本作はミクロな史実を元に大きな空白を想像力で埋め尽くしたフィクションです。ですので、唐蒙がこのあとどうなったのかとか、南越と漢王朝の結末などを調べるとネタバレを食らうことになります。
 それでなぜ本作が歴史ミステリーではなくなったのかと言うと、探偵である唐蒙が敗北するからです。彼はたびたび「食べ物は嘘をつかない」と口にしていましたが、それは裏を返せば「人は嘘をつく」のであり、「人には騙される」事実を重要視しなかった結果、いっぱい食わされることになります。
 しかしそれで終わりではありません。物語を振り返ると、唐蒙はもともと県承で副使という肩書きとは対照的に身軽で無責任な人間でした。しかし甘蔗の母親の冤罪を晴らし、南越王・趙眛に独立がいかに愚かなことか諭すという探偵と使者の使命を抱いてから明らかに窮屈になります。そして探偵として敗北を喫してからは、寝そべり族のままでは大願は成就できないと悟り、人が変わったかのように働きますが、その姿に往年のグルメ探偵の陰はありません。結局彼は自ら背負い続けた重責を自らの意思で放棄するという決定を下しますが、このことに全く解放感を覚えていなさそうなのが、使命に囚われてしまった人間の虚しさを表しているように見えました。
 ただの探偵なら確かに組織に束縛されることはありません。しかし強制力を行使したければ組織に属すのが一番手っ取り早い。本書は南越国の独立騒動という歴史的一大事を前に、いかに探偵の力が有限で、探偵という立場が弱いかを強調しました。また現代の寝そべり族への叱咤激励が込められているようで、がむしゃらになることで失うものもあるという警句になっているのもなかなかひねくれています。そして、武力行使は最後の手段としてあくまでも対話で独立反対を説くくだりなんか、メッセージを読み取らない方が逆に難しいです。こうした現代へのメッセージや、一本の長編歴史小説を完成させるためにミステリー小説の体裁を利用しているところなどが本作の魅力だと思います。
 翻訳されるとしたらだいぶ先の話になるでしょうが、馬伯庸作品にはこういうミステリー小説要素が強いのもあるんだと覚えておいて損はありません。

 

 中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。

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