私が翻訳を担当した華文ミステリー『厳冬之棺』(著:孫沁文・出版:早川書房)が第77回日本推理作家協会賞試行第2回翻訳部門の最終候補作に選ばれました。試行第2回で(試行ってなに?)初めて中国語圏の作品が選ばれたということで、中国のSNSでも話題になり、著者の耳にも届くことになりました。賞というものがほとんどない中国ミステリー界隈だと海外での受賞がひときわ盛り上がるので、5月の最終選考作発表ではぜひ『厳冬之棺』の名前が呼ばれてほしいです。

 今回最初に紹介する作品がミステリーとは無関係の小説で申し訳ないのですが、単純に面白かったということと、中国にもこんなのがあるんだよと宣伝したいので、この場を借りて取り上げたいと思います。

『她対此感到厭煩』(彼女はそれに嫌気が差す)著:妚鶴

 剣と魔法の中世ヨーロッパ風世界を舞台にした乙女ゲーム『女神録』のプレイヤー、ユーザーID:6237486はある日、そのゲームの世界に入り、ヒロインのライバルキャラ・リリスになってしまう。リリスルートで全男キャラを攻略すれば元の世界に戻れると考えた彼女は、何度も死んではまた復活してを繰り返し、数々のグッドエンドとバッドエンドを経験する。そして全男キャラのエンディングをコンプリートしてとうとう選択肢から解放されて自由に行動できるようになった代わりに、泣いても笑っても次がない「ラスイチ」プレイを迎える。
 しかし、「最愛のキャラとゲームの中で幸せに暮らしましょう」というメッセージを見て彼女は考える。まだ男キャラの誰かと付き合わなければいけないのか? 男に好かれる優しくて大人しくて馬鹿な女を演じ、騎士や貴族や神官といった男たちから守られなければいけないのか? 数え切れないやり直しの末、彼女はこのファンタジー世界の汚さ、中世風社会の理不尽、そして男キャラの醜さを十二分に理解していた。そこで彼女は体を鍛え、弓を取り、コルセットを脱ぎ、自由に生きることを選ぶ。しかしその世界は束縛から脱しようとする女に対してあまりにも非情だった。

■中国版悪役令嬢モノ
 日本の悪役令嬢モノのことも全然知らないので、本書を読んでからざっと調べたところ、乙女ゲーの世界に転生するのは様式の一つらしいです。どうして異世界じゃなく、はじまりと終わりが用意されているゲームの世界に行かなくちゃいけないのか分かりませんが、冒頭でゴールが提示されるのは作品の主人公にとっても読者にとっても分かりやすいからかもしれません。本書も同様の展開で、冒頭、主人公は「ゲーム内で幸せに暮らしましょう」という生き方を提示されますが、彼女はそれにNOを突きつけます。いちプレイヤーとしてゲームを遊んでいるときは気にならなかったけど、実際に乙女ゲーの主人公をやってみると、男キャラに好かれるには彼らに媚を売っておだてなきゃいけないし、選択肢を間違えただけでバッドエンド(死)を迎えるなんてろくなもんじゃないからです。
 そんな男尊女卑的なゲームシステムにすっかり失望した彼女は、体を鍛えて男並に強くなり、さらに彼女に好意を向ける男たちを手玉に取り、どんどんその地位を高めていきますが、残念ながらそれが女性そのものの地位の向上につながることはありませんでした。彼女に政治力が欠けていたこと、政治の実権を握っていたのが男だけだったことが敗因です。

■男社会への大きな疑問
  本作にはリリスの許嫁の王子、勇敢な騎士隊長、ひねくれた義理の兄、優男風の神官等々、魅力的な男性が多数登場しますが、実際はどいつもこいつもクズばかりということが明らかになります。そもそも男尊女卑社会の支配者層が女に優しいはずがなく、彼らにとって女とは三歩下がって自分の言うことを聞く存在であり、その基準から大きく逸脱したリリスが好かれるわけがありません。そんな旧態依然とした連中の鼻っ柱をリリスが折っていく様は痛快ではありますが、話がトントン拍子に進まないところにリアリティがあります。いけすかない奴らをスカッと論破して終わりではなく、より強大で個人の力ではどうしようもない社会システムにリリスが蹂躙されるというのがお約束展開になっているからです。結局、一人の男の意識を変革したところで社会的にはほぼノーダメージであり、むしろその指摘が鋭くなればなるほど反撃もまた大きく苛烈になっていきます。
 主人公はリリスに転生する前、プレー中のゲーム『女神録』を「クソゲー」と評価しましたが、実際にその世界に入ると、現実世界ではほぼありえない理不尽を味わわされて、まさに「人生はクソゲー」を地でゆくことになります。女性の権利向上を目指すリリスがやっているのは紛れもなく社会運動ですが、現実世界にいたときの主人公はそんなこととは無関係な生活を送っていたはずです。個人的に本書で一番面白いと思う点はここで、主人公(つまりユーザーID:6237486)自身はもともと問題意識が薄く、リリスに転生して中世風の異世界に暮らしたことで初めて性差別などに意識を向けるようになりました。一方、リリスもゲームの世界では悪い女であるだけで、同じ女のために手を動かす人間ではありません。
 作中、リリスはこんなことを言います――ワイン樽に泥水が一滴入って全て泥水になるのなら、女性がたった一度の性交で「汚れた」のならば、汚れているのは男の方ではないか。
 おそらく、主人公が現実世界に生きていたときは、そしてリリスがゲームの世界のキャラだったときは、こんなことは思わなかったはずです。そんな二人の人格が溶け合って生まれた数々の問題提起は、小説世界以上に現実世界のわれわれ読者の心を揺さぶります。果たしてリリスは世界を変えられるのか、続刊に期待です。

 さて本題のミステリーです。今回は中国の編集者・評論家の華斯比が昨年の短編ミステリーを選出しまとめた2023年中国懸疑推理小説精選を紹介します。

 例年は「懸疑小説」(サスペンス小説)傑作選というタイトルでしたが、今年は「懸疑推理小説」という風に「推理」の二文字を入れることが許されています。と言っても大きな変化はなく、むしろもともとミステリー寄りの作品を収録していたので、来年は「懸疑」の二文字をなくしてしまっても問題ないでしょう。
 収録作品は以下の通りです。(日本語タイトルは全て仮訳)

  • 莫比烏斯庄園奇案(メビウス別荘地の怪事件) / 林星晴
  • 保齢熊、水仙花少女与多米諾単車(着ぐるみ熊とスイセン少女とドミノ倒しシェアサイクル) / 啓蟄小売部
  • 鏡屋的秘密(鏡写しの部屋の秘密) / 時晨
  • 整容狂(整形狂い) / 路笛
  • 神隠之謎(神隠しの謎) / 解体
  • 総是這么慢(いつもこんなに遅い) / 文小醨
  • 倒懸塔(逆さまの塔) / 亜戈
  • 破戒之徒(破戒の徒) / 南城大気

「メビウス別荘地の事件」は近未来を舞台にした館もの。建築家の鐘青司(綾辻行人の中村青司のオマージュ)設計のメビウス別荘地に招かれた客の一人が自殺した。関係者全員になにがしかの因縁があるため、単なる自殺と思えない刑事と科学者は、招待客が残した日記から解決の糸口を探る。そして科学者が製作したAI探偵が常識に囚われない推理を披露する。

「着ぐるみ熊とスイセン少女とドミノ倒しシェアサイクル」は『厳冬之棺』の作者・孫沁文が美少女大学生として登場する。怖い。大学のミス研で推理ごっこをする面々。大学構内のシェアサイクルがペンキで落書きされる理由は? というお題に対し各々考えを発表するが、実は真相が前のお題と関わっていて……

「鏡写しの部屋の秘密」は数学探偵・陳爝シリーズの一つで、作者・時晨のエラリー・クイーン好きが色濃く出ている。友人の部屋が以前と鏡写しのようにベッドもテレビも配置があべこべになっていたと話す依頼人。しかもまた次に訪問したとき、部屋は元通りになっていた。真逆になっていた原因、そして友人がそれを頑なに否定する理由を陳爝は話を聞いただけで理解する。ややイヤミス的内容。

「整形狂い」は戦前から戦後の中国を逃げ延びた男の物語で、日本の三億円事件等を彷彿とさせるノワールでもある。王羲之の書が保管されている銀行で強盗事件が発生。事件の犯人たちは逃走中に交通事故で全員死んでしまったが、彼らはいずれも整形手術を受けていたことが分かった。その手術を行った整形外科医の鄭が現場の近くで目撃されていたため、警察は彼も事件の関係者だと見るが、鄭はすでに行方をくらませていた。

「神隠しの謎」は劇中劇だ。山小屋でスクエア(真っ暗い小屋で4人が部屋の四隅にそれぞれ立ち、一人が隅から隅へ移動してその先にいる人物の肩を叩き、叩かれた人物がまた隅から隅へ移動して向こうにいる人物の肩を叩く……という遊び。実は4人では成立しない)をするミス研メンバーたち。4人でやったのに何故かゲームが続いたため他のメンバーのいたずらかと思い確認すると、参加しなかった2人の姿がない。神隠しだと騒ぐ残りの4人も雪崩に巻き込まれ、6人全員が死んだ……という作品を読んだミス研の面々はその読者への挑戦を受ける。ちなみに解体という著者のペンネームは西澤保彦の『解体諸因』から取ったらしい。

「いつもこんなに遅い」は青春の苦さを描写した日常の謎だ。推理好きの男女がバスに乗車中、「13分、いつもこんなに遅い」とつぶやいて下車した女の子に関心を向ける。「13分」はいったい何の時間なのか、どうして「いつも」なのか、二人はあれこれ推理するが……

「逆さまの塔」は武侠ミステリーだ。寺の塔内で首なし死体が逆さまに吊るされていた。その塔は昔、ある人物が逆さまで十日間の絶食を達成したという記念碑的な建造物であり、事件の発生によって各人の思惑が入り乱れ、第二第三の事件が起こる。首を切断した動機にこだわった傑作。

「破戒の徒」も武侠ミステリーだ。しかし本作は武侠小説の体裁で、ノックスの十戒に敢えて背いたミステリー(超能力を使った推理、未発見の毒を使った殺人、隠し通路を使ったトリック、そもそも中国人しか出てこないなど)を書いている。

■総評
 総合的に面白く、特に最初と最後の作品が良かった。しかし大学院生の作者がミス研をテーマに日常の謎を、あるいは実際に犯罪が起こっていない劇中劇ものを書いているのはやや芸がないように受け取れてしまいました。また、ネタバレになるので多言は避けますが、「神隠しの謎」には「透明人間」扱いしている存在が謎の重要な構成要素になっているのですが、こういうときにだけトリックの道具として使うのはあまりにも浅薄なのではないかと思った次第です。
 そもそも収録作8作品のうち4作が大学のミス研の会誌から選出しているというのはちょっと問題だと思います。それなら大学生の作品だけで構成された短編集を出すべきです。やはり短編ミステリーの母数が少ないのが最大の問題ですので、これはもはや華斯比一人だけの力ではどうにもならないので、損を承知で出版社が金を出して短編を発表する場所をつくってほしいものです。

阿井幸作(あい こうさく)

 中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。

・ブログ http://yominuku.blog.shinobi.jp/
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現代華文推理系列 第三集●
(藍霄「自殺する死体」、陳嘉振「血染めの傀儡」、江成「飄血祝融」の合本版)


現代華文推理系列 第二集●
(冷言「風に吹かれた死体」、鶏丁「憎悪の鎚」、江離「愚者たちの盛宴」、陳浩基「見えないX」の合本版)

現代華文推理系列 第一集●
(御手洗熊猫「人体博物館殺人事件」、水天一色「おれみたいな奴が」、林斯諺「バドミントンコートの亡霊」、寵物先生「犯罪の赤い糸」の合本版)


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