「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 ブルーノ・フィッシャーのことが気になりだしたのは、小鷹信光『私のペイパーバック ポケットの中の25セントの宇宙』(2009)を読んでからです。
 本の中でフィッシャー作品の内容紹介があったというわけではありません。ペイパーバックのゴールド・メダル叢書に収められた作家について書かれた一節で「デイヴィッド・グーディス、チャールズ・ウィリアムズ、ブルノー・フィッシャーなど、ノワール系の作家」と名前を挙げられていたのみです。
 これに「おっ」と思ったのです。グーディスとウィリアムズと並ぶような作家だったのか、フィッシャーは。
 その時点で僕が読んでいたフィッシャー作品は荒地出版社の『年刊推理小説ベスト18 〈一九六三年版〉』(1963)に訳出されていた「アフター・サービス」(1961)のみです。隣家の女房と修理工の浮気を観察するのが趣味の熟年夫婦を主人公にした短編ミステリで、後に《ミステリマガジン》で二度に渡って再訳もされています(「隣りの女房」(1979年2月号)、「テレビの修理お願いします」(2017年7月号))。大変に切れ味が良く、完成度も高い一作なのですが、ノワールとは感じませんでした。
 どうも、この作家には他の顔があるようだ。
 そもそも《ブラック・マスク》にも原稿を売っていた、パルプマガジンの時代からのベテランらしい。
 それからどうも気になってしまい、買った古雑誌やアンソロジーにフィッシャーの作品があると、意識して読むようになりました。
 驚きました。
 成る程、確かにこの作家はノワールの文脈にある犯罪小説の書き手だ。
 特に日本版《マンハント》の1960年3月号に訳出された「最後に死ぬのはだれだ」(1955)は、ケイパーものとして最上級と言って差し支えのない快作です。
 強盗団が襲撃後に疑心暗鬼に陥り仲間割れしていく様を描いた物語で、最後の一行に至るまで仲間と読者を騙し抜く強烈な一作でした。
 どうも、フィッシャーというのは、作中人物と読者を騙すのが巧い作家のようです。信じたい誰かを信じられなくなるというのが彼の作品のパターンで、その先に意外な真相や感情がある。「アフター・サービス」と「最後に死ぬのはだれだ」はガラリと雰囲気が違うのですが、この部分は共通しています。
 そして、この作風は短編、長編という作品の尺に関係なく、通底しているようです。
 今回紹介する『血まみれの鋏』(1948)は、自身の妻のことを信じたいと願い続ける男の物語です。
 
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 レオ・エイキンは、妻ジュディスとその姉ポーラの三人で小さな田舎街ジョーバーグに暮らす、化学技師である。
 妻のことは愛しているし、義姉のことも嫌いではなかったが、やたらと金遣いが荒いのにだけは辟易としていた。
 街の者にそのことを愚痴ると「そりゃ、あの姉妹は放蕩者だからな」と返してくるのがお決まりだった。レオはそのことについてよく知らないのだが、ジュディスとポーラは、不良娘として昔から有名だったらしい。
 ある雪の夜、レオが帰宅すると家の中にジュディスとポーラの姿がなかった。
 家の中の様子や、乗り捨てられた自動車を見て、レオはこれは事件だ、何者かに攫われたのだと確信するが警察は「あの姉妹のことだから、ただの家出だろう」と取り合わない。
 レオは二人を捜すため、孤独な捜査を始める。何も手掛かりがない中、彼がまず行ったのは姉妹の過去を知る人々への聞き込みだった。二人が生まれた街ジョーバーグ、夢を求めて旅立ったニューヨーク……インタビューを重ねていくごとに、レオが知らなかった過去が明らかになっていき、やがて、隠されていた凄惨な事件が姿を現す。
 本書の解説で植草甚一はこの構造を指して巡礼型手法の物語であると述べており、クロード・ホートン Christina(1936・未訳)やパトリック・クェンティン『追跡者』(1950)を類例として挙げていますが、僕が読みながら想起したのはマイクル・コリンズ『ひきがえるの夜』(1970)、エド・ゴーマン『影たちの叫び』(1990)などの後年のハードボイルド派の諸作でした。
 主人公が発掘するのは、自分以外の何者かになれる筈の都会で何にもなれなかった姉妹の姿なのですが、その部分の描き込みは姉妹の個人の人格の描写だけにとどまらず、裏にある社会構造や、当時の時代背景などもっと大きなものをも感じさせます。本書はしばしば、サスペンスと分類されるようですが、テーマに関わる部分の読み心地はロス・マクドナルド以降のハードボイルド派の作品にとても近い。
 とはいえど、本書の主人公であるレオはリュウ・アーチャーやダン・フォーチューンとは違い、私立探偵でもなんでもない一市民です。観察者としての立ち位置には立てず、明かされていく事実を当事者として全て受け止めなければならない。
 ここがこの物語のキモであると思います。
 
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 レオは作中で、これでもかというくらい精神を痛めつけられます。
 本来なら最も親しい筈の妻とその義姉について、誰よりも知らなかった。
 その上、誰も味方になってくれない。優しく接してくれる関係者も、レオとは違うものを見ていて、見当違いの同情をしているだけでしかない。信じられるかもと思った人についても裏切られる。
 何よりも、掘れば掘るほどにジュディスとポーラについて暗い事実が出てくる。
 作者はこの部分を徹底して書いていきます。
 レオがニューヨークに行って、ポーラがかつて出ていた舞台のプロデューサーに会いに行き、何も掴めずに追い返され、都会をあてもなくさまようシーンなど印象的です。この街自体が、レオの知らないジュディスとポーラの象徴で、彼はこの中でどうやっていけば良いのかすら分からないのです。
 絶望的な状況の中、レオはそれでも妻のことを信じ抜こうとします。
 必死にかき集めた情報を繋ぎ合わせ、現在の妻の存在を再構築しようとする。
 この部分の心情描写は、観察者ではない当事者が主人公ゆえに引き込まれるものに仕上がっていて、読者としても感情移入してしまいます。
 
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 レオの巡礼は、後半に至って急展開を迎えます。
 ジュディスとポーラが抱えていた闇とは何か。彼女たちに何が起こったのか。レオは二人のことを見つけられるのか。
 これらの謎に対する答えをバタバタと回収しながら、クライマックスへと向かうのですが、その中で最大の焦点となるのは、やはりレオは誰を信じれば良いのか。誰がレオを信じてくれるのか、という部分です。
 レオがこれまでジュディスのことをひたむきに信じ続けてきたからこそ、ここに迫力が出ている。
 特に騙し騙され、信じる信じないを乗り越えた先にあるラストシーンは、ため息が出る素晴らしさで、決して明るい話ではない筈なのに爽やかささえあるのです。
 
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 ブルーノ・フィッシャーの長編作品は『血まみれの鋏』の他は、『狂った手』(1949)が《別冊宝石》102号(1960)に訳出されているのみで、冒頭で触れたようなゴールド・メダル叢書の作品などは翻訳されていないようです。
 それは勿体ない。
 『血まみれの鋏』や、訳出された短編群はそう感じさせるほど、完成度の高い逸品でした。
 もうしばらくの間、フィッシャーは僕の中で気になる作家であり続けると思います。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人四年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby