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▼収録作
▼他の邦訳
▼英訳 瀬名が所持しているもののみ
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シムノンはペンネーム時代、《Détective探偵》紙からの依頼を受けて『Les 13 mystères (13の秘密)』『Les 13 énigmes (13の謎)』『Les 13 coupables (13の被告)』というミステリー連作を書いた。これらはシムノンがメグレ警視シリーズの連続刊行で大成功を収めた後、同じファイヤール社の叢書から本名名義で書籍化された。ペンネーム時代の作品が後に本名で刊行された珍しいケースだ。そのためいまでもこの3作は、広くフランス語で読まれている(と思う)。
今回取り上げる『13の秘密』は創元推理文庫に入ったことがあり、比較的長い間読まれた。続く『13の謎』『13の被告』はかつて別の邦題で出たのだが、混乱するといけないので本連載では『秘密』『謎』『被告』で通してしまおう。論創社から『謎』『被告』の仮題で新訳刊行が予定されているので、将来のためにも統一しておきたいからだ。『被告』については訳題に検討の余地があるのだが、そのことは後の回で述べる。
シムノンはこのシリーズで、それまで艶笑コントで培ってきた技量をミステリー短編に応用して開花させたといえそうだ。『秘密』『謎』『被告』はそれぞれ異なる趣向を凝らした連作で、『秘密』は安楽椅子探偵ジョゼフ・ルボルニュ、『謎』は遠方へと赴く行動派刑事G.7、『被告』は被疑者の罪の有無を見極めるフロジェ判事がそれぞれ主人公となっている。各エピソードは事件編の2号後に短い解決編が掲載されていた。
13シリーズは、ミステリーの歴史的観点からいろいろとマニアックな議論ができそうな作品でもある。『被告』は後にエラリー・クイーンが〈クイーンの定員〉に選出したことでも有名だが、クイーンはフランス語ができなかったから、ちゃんと短編集を読み通して選んだわけではないようだ。クイーンは当時の《エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン(EQMM)》誌にアントニー・バウチャーが訳出したいくつかの短編を読んで気に入ったのだろう。
バウチャーはシムノンのミステリー作品にかなり入れ込んでいた。たとえば《EQMM》1943年9月号に初めて本連作『秘密』から「三枚のレンブラント」[9]を訳出した際には「(前略)身体を動かさず純粋に頭脳だけで事件を解決するという点でジョゼフ・ルボルニュに比肩しうるのは『隅の老人』だけだ」(瀬名訳)と大絶賛の紹介文を書いており、クイーンはそれを紙面で引用している。
ただ、いまでも『秘密』と『謎』は英語圏で全訳書籍が出ておらず、『被告』の全訳『The 13 Culprits』がようやく出たのは2002年のことだった。
シリーズの書誌を纏めておく。
- 『13の秘密』 Les 13 mystères
- 1928-1929冬執筆/«Détective» 1929/3/21号-6/27号(nOS 21 – 35)連載/1932/10刊行
- 『13の謎』 Les 13 énigmes『ダンケルクの悲劇』
- 1929春執筆/«Détective» 1929/9/12号-12/19号(nOS 46 – 60)連載/1932/9刊行
- 『13の被告』 Les 13 coupables 『猶太人ジリウク』
- 1929-1930冬執筆/«Détective» 1930/3/13号-6/19号(nOS 72 – 86)連載/1932/8刊行
執筆・発表順は『秘密』→『謎』→『被告』なのだが、刊行順は逆で、『被告』→『謎』→『秘密』なのである。ひょっとするとシムノンは後の作品のほうが出来映えに自信があったので、自信のある順に刊行したのかもしれない。
さて、改めて3冊を手に取ってみる。犯罪実録風の白黒写真が効果的に使われた、目を惹くデザインの表紙だ。【写真1】この写真はぐるりと裏表紙まで続いていて、ファイヤール社のメグレ警視シリーズも17冊目の『紺碧海岸のメグレ』までは似たような白黒写真の表紙で飾られていた。
13シリーズを担当した写真家はJ. Constantinesco とクレジットされている。《Vu 見る》という当時のグラビア誌で活動していた人のようだ。たぶんファイヤールは《Vu》と良好な繋がりがあったのだろう。メグレ警視シリーズの表紙も《Vu》の写真家が担当していたし、またシムノン自身も《Vu》に旅行記を寄稿する機会があった。
それで、ここからが肝心なところだ。表紙に惹かれて原著を買い求め、本連作『13の秘密』のページをめくって初めて気がついたことがある。
なんと、内容を説明する図や写真がたくさん掲載されているではないか!
ええーっ、そういう体裁の連載だったのか! これってちゃんと図が添付されたパズルだったのだ!


なんとか《探偵》紙を入手してみた。『13の秘密』連載初回号ウラ面の大々的な宣伝【写真2】と、「ルフランソワ事件」事件編の掲載ページ【写真3】を示す。お手元に創元推理文庫版があれば、文字だけから受ける印象と図入りの紙面の印象を比較してみてほしい。探偵役のジョゼフ・ルボルニュが「図面を読むんだ!」と主張していた意味がわかる。
とくに『秘密』初回の「ルフランソワ事件」は、見取り図を見ながら読むことが前提の作品となっている。13シリーズはこの体裁から始まったのだ。
下記のウェブページに初出紙の雰囲気がわかるリンクが張られているので、ご興味のある方はご覧いただきたい。よく見ると《探偵》初出時と書籍版では使われている写真が違っていて、その差異もあれこれ見てゆくと面白いだろう。
1. ルフランソワ事件
「ぼく」の友人であるジョゼフ・ルボルニュは、35歳くらいの小柄で華奢な男だ。身なりだけは凝っていて、独身にかこつけてホテル暮らしを満喫している。新聞記事の切り抜きや関連書類をファイルし、その手がかりだけから警察事件の真相を推理するのが趣味だ。
この日もルボルニュは「初心者向けの事件だぜ!」といってぼくにファイルを差し出した。金融業者ルフランソワ氏が自宅で深夜に銃殺された事件だ。窓ガラスに石鹸が塗りたくられて割られているのを門番が翌朝に発見し、事件が発覚したのである。しかしルフランソワ氏はいつもベッド脇に自分のピストルを置いていた。なぜ彼は抵抗しなかったのか?
気象台に当日の天候を問い合わせたルボルニュは、ぼくにすべての書類と情報を与えていった。「図面を読むんだ! なにもかもそこにあるんだぜ……」
ルボルニュ登場編。図面といっしょに読み解くことが前提のパズルなので、【写真3】を見ながら楽しもう。
《探偵倶楽部》誌に2号連続でまったく同じ短編が、「黒い石鹸」「ルフランソア事件」とタイトル・訳者を変えて掲載された経緯は不明だ。
2. S・S・Sの金庫
合成糖業株式会社(S・S・S)の金庫が何者かに破られた。しかし鉄壁の守りの金庫であったはずだ。犯人は3人の重役の誰かだろうか?
シムノンの小編によくある、読者の盲点を突くタイプのパズル。本作に限らず、初出版と書籍版では写真が違う。
3. 書類第十六号
「16号」以外の題はつけようのない事件。男はアスピリン剤を飲み下したところ、急に死んでしまった。薬袋の中身がストリキニーネにすり替わっていたのである。だが他の薬袋はアスピリンのままだったので、不幸にもその袋を選んでしまったのだろうか。ルボルニュは判事宛に一筆書いて送った。「どうか『ラルース百科事典』のストリキニーネの項目をお読みくださいますように」……。
添付の写真は、まさに『ラルース百科事典』のその項目。ラルースをあれこれ引きながら通俗小説を量産していたシムノンの、薬学趣味もよく出た一編。
4. 奇妙な死体
写真の男は机にいるとき殺された。電話機のコードが床を引きずっていた。事件当日、3人の男が訪ねてきたようだが、奇妙なことに被害者には外傷がない。パイプを銜えたぼくにルボルニュはいった。「注意しろよ、こないだは図面の読み方も知らなかったろう! 今日は写真の見方も知らないんじゃないのか……」
実をいうと、書籍版の写真はルボルニュがいうほど参考にはならない。初出版の写真はどうだったのだろう?
5. B……中学の盗難事件
ルボルニュは中学のころを思い出してしんみりしている。B市の中学で校長の机の抽斗から大金が盗まれた。生徒監の男性が疑われるものの、決め手がない。庭のプラタナスの下で千フラン札1枚が見つかっただけだ……。
もっともらしい見取り図が可笑しい。だが机の写真は内容の理解にとても有益。なるほど、こういう机なのだね。【写真4:左】初出紙では写真ではなく図解だった。
6. 偽名のポポール
ある村ではすべての郵便の配達が24時間遅れる。しかもさまざまな村民宛の手紙のなかに、ポポールなる署名の奇妙な脅迫文が差し込まれているのだ。いったいどうやったらこんなことができる?
読んでいるとあれこれと回答が思い浮かんできて楽しい一編。写真は他人の手紙にポポールの脅迫文が新聞記事の文字の切り抜きで貼られているもの。
7. クロワ=ルウスの一軒家
リヨンのクロワ=ルウスに住むチェチオーニ博士が8日から9日の夜に暗殺される、と匿名の投書があった。警察は博士の屋敷の回りを厳重に見張る。夜に博士はひとりで帰宅した。何事もないかのようだったが、様子がおかしいので明け方踏み込んでみると、博士は撃たれて死んでいた! 凶器のピストルも見当たらない。いったい犯人はどうやって博士を殺して逃げたのだろう?
密室ものとして有名な作品。確かにこの解決はシムノンの特徴を知らずに読むと意表を衝かれて、びっくりする。添付は現場の見取り図ではなくたんなるイメージ写真だったこともかえって面白い。
連載第23回で触れたように、解決後のルボルニュの判断はいかにもシムノンらしい。メグレが最後に見せる犯人への共感性と通じるものがある。
8. 『ロレーヌ号』の煙突
蒸気船『ロレーヌ号』の煙突のなかから男の死体が見つかった。どうやって犯人は死体を入れたのか? ルボルニュは当日停泊していた帆船『コンモラン号』の帆桁の図も示し、「やれやれ、カンか……。正確でなきゃだめなんだ!」とぼくの推理を促す。
複雑な図解を目くらましに用いた一編。真相そのものは、もの悲しいがちょっとユーモラス。
9. 三枚のレンブラント
ヴァール老人は所蔵品のレンブラントの絵を競売に出そうとしたが、会場にはそれだけでなく、さらにそっくりの絵が2枚もどこからか送られてきた。署名もまるで見分けがつかない。いったいどれが本物だろう? 競売はヒートアップし、3枚揃って高額で落札されたのだが……。
これも意表を衝かれる真相。海外ミステリー事情を積極的に紹介していた《雄鶏通信》という雑誌が初めて取り上げたシムノン作品で、《EQMM》1943/9号の英訳を見て訳出を決めたようだ。煽り文が当時の雰囲気を伝えてくれる。シムノンは颯爽とした新感覚の若手の印象だったのだ。
「あくまで知的で、近代的な推理感覚!! それがフランス文学の鬼才シメノンのシメノンたる魅力だ!!
10. 14号水門
ロワン川の14号水門で、複数の船舶から次々と中毒事件が発生した。死者は5名を数え、現地では運行が滞って甚大な被害が出ていた。上流の13号水門にも怪しいところはなさそうだが……。
これは添付の図がさりげない手がかりを提示していて、なるほどと思える渋い好編。【写真5:左】「14号水門」は『メグレと運河の殺人』に出てくる水門番号で、船頭が船のうまやで見つかる記述などイメージに共通点がある。
11. 二人の技師
工場の実験室で突然の爆発音があり、技士が死んでいた。彼と折り合いの悪かった同僚は、別の建物にいてアリバイがあるが……。
見所のない凡作。見取り図はあまり関係がない。
12. アストリヤホテルの爆弾
豪華なアストリヤホテルの77号室で、客を吹き飛ばすほどの大爆発があった。被害者はベルリンの銀行強盗の共犯者で、その強盗団は地下道を掘って大金を盗んでいた。被害者はその金を持って逃げていたようなのだ。隣の79号室には彼を追っていたベルリン司法警察局の刑事がおり、危うく大惨事に巻き込まれるところだった。同フロアにはさまざまな客が泊まっていたが、爆弾魔は誰か?
爆弾はシムノンが何度も用いたモチーフ。子ども向けの翻訳『メグレ警部とギャング』では、北村良三(長島良三)氏がこれをメグレものに改変している。リュカがメグレに事件の経緯を語り、メグレがそこから解決を導き出すというもの。途中まではルボルニュ役がリュカ、終盤は立場が入れ替わってメグレがルボルニュになる。
13. 金の煙草入れ
そのファイルは他のものと区別されていた。ぼくが手に取るとルボルニュが「返してくれよ、そいつは!」という。なかから出てきたのは20歳ころのルボルニュの写真で、ロマンチックな風貌だが、そこにはジャック・サン=クレールとの名があり、しかも彼は殺人容疑をかけられていた。
ルボルニュはもともとサン=クレールという名で、当時は結婚を考えている恋人もおり、名づけ親の弁護士とよく会っていた。弁護士は煙草入れやステッキの収集に熱心な、少し変わり者だった。当時の記事が伝える事情はこうだ。あるとき彼は名づけ親の弁護士と激しく口論し、部屋から出てきたとき彼が弁護士の収集品である金の煙草入れをポケットに入れているのを召使いに見つかってしまった。「ご主人からもらったんですか?」「いいや、勝手に取ってきたんだ!」
夜になって召使いが屋敷に戻ると、主人の収集棚は空っぽで、しかも大サロンで主人が倒れて死んでいる。台所で若き日のルボルニュが目をぎらつかせながら金槌で弁護士の煙草入れを壊している。そしてルボルニュは逃げ出した。後に彼は海外で別名を名乗り始めたという……。当時の彼に何があったのか。
この最終話でルボルニュの出自が明らかにされる。この作品は感傷に満ち、書きぶりが他と違っており、小説として読み応えがある。これぞ終盤に炸裂するシムノン十八番の感傷効果だ。
単純にパズル小説としての楽しさでいえば、13シリーズのなかではこの『秘密』がいちばんかもしれない。もともと見取り図や写真と一体となった紙面構成が、この連作を生んだのだ。シムノンも紙面を楽しくすることを目標にして書いただろう。文章だけ取り出して読むと稚拙で単純だともいえるが、それでも[7][9]は事前の心構えなしに読めばいまもあっと思わされる小品になっている。[3][6][10]あたりも好み。
そして最終編の[13]で、ちゃんと小説としての読み応えを前面に押し出してくるのは、案外と技巧的でさすがだなと思わされる。13シリーズは連作が進むにつれてパズル的側面が薄れ、次第に読み応えが出てくるようになってゆくのだ。パズルの楽しさと、小説としての妙味や読み応え。どちらが好みかは読者それぞれだが、シリーズ3つをすべて読めば、そのどちらも味わえるようになっている。
【註1】
シムノンの小説にはフランス語教材として出版されたものがいろいろあり、これもその一冊で、イラストは真鍋博氏が担当。編者である詩人・作家の飯島耕一氏は「畏友真鍋博君」とあとがきに記している。豪華な顔合わせだ。
【註2】
『Nouvelles secrètes et policières』[謎解き・探偵もの短編集]は、シムノン全集・メグレ全集を出しているオムニビュス社から2014年に全2冊で刊行されたミステリー系の短編集。メグレものでもなく硬質長編小説(ロマン・デュール)でもない作品群ということになる。第1巻は1929-1938年の作品で、『13の秘密』『チビ医者の犯罪診療簿』などを収録。第2巻は1938-1953年の作品で、『名探偵エミールの冒険(O探偵事務所事件簿)』『Le bateau d’Emile』[エミールのボート]などを収録。
【註3】
編者は[9]について「私の知る限りでは、これは彼[シムノン]の何百点という長短篇中、唯一の密室物である。」と書いているが、実際はこれまで紹介の通り、「“ムッシュー五十三番”と呼ばれる刑事」(1929)やそのバリエーションを含めペンネーム時代から初期にかけていろいろと作例があった。一般の印象とは違って「シムノンの密室もの(不可能犯罪もの)」ということ自体にさほど稀少性はない。
【ジョルジュ・シムノン情報】
▼『世界の推理小説 傑作映画』DVD-BOX vol.2(株式会社ブロードウェイ)に結局収録されなかったシムノン原作の映画『モンパルナスの夜』だが、2017年4月発売予定の同社『珠玉のフランス映画名作選』DVD-BOX3に収録されるとの情報が出ている。はたして今度こそ世界初の映像ソフト化なるか。
▼CSテレビの「AXNミステリー」で、4月にローワン・アトキンソン主演の新作TVドラマ『メグレ警視』第1シーズン2作と、かつてのマイケル・ガンボン主演のドラマシリーズ『メグレ警部』が放送予定とアナウンスされた( http://mystery.co.jp/osusume/osusume201704 )すでにどちらも英国で映像ソフトは出ているが、とくに新作のローワン・アトキンソン版が日本のテレビで見られるのは嬉しい限り。お見逃しなきよう!
瀬名 秀明(せな ひであき) |
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1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。 |
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