・La Vérité sur Bébé Donge, Gallimard, 1942/12/15 [原題:ベベ・ドンジュについての真実] ・執筆:フェルム゠ムーラン・デュ・ポン゠ヌフFerme-Moulin du Pont-Neuf, ヴヴァンVouvant(ヴァンデ県Vendée), 1940/9 ・« Lectures 40 » 1941/6/15-11/1号 ・同名, Lecture accompagnée par Laurent Fourcaut*, Gallimard, 1999/5 ※リセ学習者向け解説つきテキスト。 ・『ベベ・ドンジュの真相』斎藤正直訳、ハヤカワ・ポケット・ブック(シメノン選集804)、1955/7/15* ・I Take This Woman, translated by Louise Varèse, Signet Book, 1953/7[米] ・映画 『ベベ・ドンジュについての真実』アンリ・ドコアンHenri Decoin監督、ダニエル・ダリューDanielle Darrieux、ジャン・ギャバンJean Gabin出演、1951[仏] ※日本未公開。ただし現在はAmazon.co.jpのPrime Videoで視聴可能。 ・Philippe de Baleine, Danielle Darieux et Jean Gabin posent les problèmes du coupule « Paris Match » 1952/2/16-23号(n° 153) pp.36-37* [ダニエル・ダリューとジャン・ギャバン、夫婦の問題を提起する] ・Jeanne Marroncle, FICHE N° 190 La Vérité sur Bébé Donge « Télé-Ciné » 1952/32-33号(nOS 32-33) pp. La Vérité sur Bébé Donge1-10* [カルテ190番 ベベ・ドンジュについての真実] ・Henri Decoin, La Vérité sur Bébé Donge « L’avant-scène cinéma » 1991/2(n° 399) 特集号:シナリオ、あらすじ、評論他 ・Tout Simenon t.23, 2003 Les romans durs 1941-1944 t.5, 2012, 2023 Les Essentiels de Georges Simenon, Omnibus, 2010 Simenon Pedigree et autres romans, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard, 2009 |
ここへ来て、これまで何度も試行されてきたシムノンの「時空超越回想文体」は、ひとつの到達点を見たように思われる。今回の『ベベ・ドンジュの真相La Vérité sur Bébé Donge』(1942)はそのタイトルからして一種の凄みを感じさせるが、このタイトルにこそ真の秘密と真実が隠されていると(これまで順番にシムノン作品を読んできた)私たちがすばやく感じ取れるのも、まさに本作の大いなる特徴のひとつだ。
シムノンの小説には、人名や地名などの固有名詞がよく使われていることに皆様もお気づきのことと思う。だがこれまでのシムノン作品では、たとえば『ラクロワ姉妹』(第87回)、『クリュルの店』(第94回)、『フールネの市長』(第97回)、『マランパン』(第100回)、『ベルジュロン』(第101回)と、その物語の主人公、すなわち視点の役目を担う主要人物の名前がタイトルに据えられることが多かった。そのためうっかりすると私たちは今回の長篇も「ベベ・ドンジュ」という名前の人物が主役だと先走って考えてしまう。だがそうではない。
『港のマリー』(第86回)、『クーデルク未亡人』(第106回『帰らざる夜明け』)のように、私たち読者の視点位置を担う主人公から見て探究の対象となる他者、主人公がその内面を探るべき相手、その〝向こう側の人物〟をシムノンはタイトルに据えることもある。となれば以前に読み方がよくわからないと感じた『シャルルおじは閉じ籠もった』(第104回)もその系列の作品だったと捉え直すことで筋道が見えてくる。『シャルルおじは閉じ籠もった』はシャルルおじが主人公の小説だったのではなく、シャルルおじを通して家族全体を見渡すことでドラマの本質が浮かび上がってくるという、そのようなタイプの作品だったのだとわかるからだ。
本作のタイトルを正確に訳すならば、『ベベ・ドンジュについての真実』である。まさに本作は主人公が別に存在していて、その主人公すなわち夫であるフランソワ・ドンジュの視点から、彼の妻ベベ・ドンジュという他者についての〝真実〟が探究されてゆく物語だ。
しかし私たち人間は超能力者ではないから、他人の心のうちにある真実など知り得るはずがない。せいぜい推測、推察することくらいしかできない。そうやって私たちは他者の真実になんとか近づこうとするが、「こうではないか」という仮説を得たとしても、果たしてそれが本当に本当の真実であるかどうかはわからないし、しばしばその真実性は他者であるその本人(当事者)にとってもわからない場合が多い。ならば他者の心の真実を探ってゆく小説は、宿命的に不完全な謎解きしか読者に提供できないことになりはしまいか。ここが本作のもっとも重要なポイントだといえる。
本作の主人公であるフランソワ・ドンジュという男は、妻ベベ・ドンジュがなぜ犯罪に至ったのか、その意味を、彼女の心の真実を、病床のなかから過去を回想することによってヒントを手繰り寄せ、そうすることで彼女が犯した殺人未遂の動機というジャンルミステリー上の謎を解き明かそうとする。だが、本作は狭義のミステリーとして終わることがない。というのはすなわち、妻ベベ・ドンジュがなぜ犯行に及んだのか、という肝心の謎に対するはっきりとした正解を、本書は明確には提示しないのである。ここがかえって本書をミステリーとしても際立たせている点だろう。
東野圭吾『どちらかが彼女を殺した』のようなリドルストーリーがここから連想されるのだが、実は本作はリドルストーリーではない。『どちらかが彼女を殺した』は最後まで犯人が明示されずに終わるのだが、作品中には容疑者ふたりのうちどちらが実際に殺人を犯したのか、決定的にわかる手がかりが書き記されているので、いわゆるジャンルミステリーの作法に則って〝推理〟すれば読者も答えがわかるようになっている。だが本作『ベベ・ドンジュの真相』はジャンルミステリーの作法では解けない。
興味深いことに、本作はフランスのリセ(日本の高校に相当する)の教材として、解説つきでガリマール社から1999年に再刊されている。10代の若者が想像力を駆使して文芸作品を読み解く、そうしたリテラシー能力の育成にまさしく適切な素材だとガリマール社は考えたのであろう。その通り、本作を読みこなすにはかなりのエンパシー能力が必要だと私も感じた。「ベベ・ドンジュについての真実」にあなたは辿り着けるか──その謎解きができるか否かがまさに私たち読者にとって人間らしさのリテラシーの尺度となり得ることを、ガリマール社は示そうとしたのである。そして本作を面白いと感じられるようなリテラシーを、文芸的な感性を、リセの時期から育んでおくことは、きっと人生をよりいっそう豊かにすると、ガリマール社は主張しようとしたのだろう。
とはいえ、最初からそのように身構えて取り組んでも決して読書は楽しいものとはならない。いつものように本作もまた9章で完結する短い物語だ。まずはまっさらな状態で読んでみることをお薦めしたい。
フランス東部の町で革皮製造業やチーズ工場などを手広く営むフランソワ・ドンジュは10年前にひと回りほども若い女性ベベ・ドンヌヴィルと結婚した。本名はウジェニーなのだが誰もが〝ベベ(赤ちゃん)〟の通称で呼んでいた。フランソワには弟フェリクスがおり、年は3歳違うがふたりは「双子」のように似ている。10年前、フェリクスはベベの姉ジャンヌと交際しており、互いの兄弟姉妹は、兄と妹、弟と姉で、当時揃って結婚式を挙げたのである。なめし皮職人だったドンジュ家の父親は亡くなり、フランソワとフェリクスが父を継ぐかたちで事業を展開してきた。皮をなめすためにはさまざまな薬品が必要で、化学の知識はチーズ生産にも応用できたのである。フランソワは結婚後、妻であるベベの願いを受け入れ、15キロほど離れた田舎に白い柵と赤い屋根の別荘《ラ・シャテーニュレー(栗林館)》の建造を許した。ベベはその別荘で幼い息子と暮らすようになり、週末には兄弟姉妹と妻方の母親が別荘でひとときを過ごすのが習慣となっていた。
8月20日、いつもの日曜日と同じようにきょうだいは子供も引き連れて《ラ・シャテーニュレー》に集まり、テニスなどに興じていた。昼食後、庭で寛ぐ家族に対して、ベベはコーヒーを淹れて運んできた。彼女は砂糖の数を訊く。ベベはいつも紙に包んだ砂糖を使うのだ。そしてフランソワがわずかに目を離しているときに砂糖は彼のカップに注がれた。それを飲んだフランソワは急に家へと駆け込み、浴槽で血を吐いたのである。
病院で目を醒ましたフランソワは、コーヒーに砒素が盛られたのだと理解する。入れたのは妻のベベ以外にあり得ない。なぜ彼女はそんなことをしたのか? ベベは逮捕、拘留されて尋問を受けているらしい。そこで彼女はまったく隠すことなく、自分が毒を盛ったとはっきり証言したようなのだ。ところがその動機が刑事や判事や弁護士らにはわからない。この10年間、フランソワとベベは端から見れば平穏に暮らしてきた夫婦であったからだ。
病院のベッドでフランソワは徐々に回想し、ベベの心理を過去の記憶から掘り出そうとする。いくつか彼にも思い当たることはあった。彼はベベとの結婚後もジャリベール医師の妻オルガ(通称リリ)と不倫したことがある。また会社の秘書であるフラマン夫人と長時間にわたって仕事をするので、ベベに関係を疑われたこともある。だがフラマン夫人とは実際には何もなかったのだし、医師の妻オルガともすでに関係を断っていた。妻のベベがずっといままで嫉妬心を抱いていたとは考えにくい。それに彼女は3か月も前に会社の化学室から砒素の瓶を持ち出したそうなのだが、いまになるまで一度も彼に毒を盛っていないのだ。徐々に食事に混ぜて夫を砒素中毒にするという策略さえ実行していない。飲めばすぐ毒とわかるほどの量を一気にコーヒーに注ぎ込む稚拙な方法を採っている。なぜこんな行き当たりばったりな行為に及んだのか、合理的説明がつかないのである。
フワンソワは病床で回想を重ねてゆく。妻ベベはまるで夢みる少女のようにずっと夫である自分を愛していた。だが翻って自分の方はどうだったか? 本当に彼女を愛していたといえたのだろうか?
ガリマール社1999年版のテキストはとても丁寧な設計で、シムノンの小説自体は縮約されることなく全文掲載されているだけでなく、その前後や中間に読み解きの手がかりとなる解説を収めており、たとえば小説が始まる前の「開幕Ouverture」部分では、よく纏まったシムノンの略歴紹介に加えて、この『ベベ・ドンジュの真相』が書かれたころの世情とシムノン自身の動向が手際よく示されている。
前回の長篇『帰らざる夜明け』(第106回)が書かれたのが1940年5月。今回の『ベベ・ドンジュの真相』の執筆は1940年9月と、半年ほどの間がある。実はシムノンはパリのベルギー大使館から呼び出しを受け、地元ラ・ロシェルでベルギー難民を救助する高等弁務官になるよう密かに命を受けて、1940年5月から8月までその職を務めていたのである。このことは晩年の回想『私的な回想』にも書かれているが、ベルギー難民が船でラ・ロシェルまで運ばれてくるのを受け、列車でヴァンデ県内のより安全な地域へと送り出すのがシムノンの役目だった。シムノンは母国のためにかなりの熱意でもって任務にあたったらしい。この密命については戦後の幾つかの長篇作品でもモチーフとして用いられている。
その後、シムノンは港近くのラ・ロシェルは空爆の危険が高いということでヴァンデ県のやや内陸寄りの田舎の農場へと引っ越す。さらにもう一度シムノン一家はヴァンデ県内のより空気のよい地域へ転居するが、その前に農場で書かれたのが本作『ベベ・ドンジュの真相』ということになる。
今回読む『ベベ・ドンジュの真相』の後となると、メグレものでは同1940年12月に『メグレと死んだセシール』(第66回)を書くと、それからは1年後の1941年末執筆『メグレと謎のピクピュス』(第67回)、さらに半年後の1942年5月執筆『メグレと奇妙な女中の謎』(第69回)、1年後の1943年5月3日執筆『メグレと死体刑事』(第70回)とかなり飛ぶ。ロマン・デュール作品でも1941年7-10月執筆の『カルディノーの息子』とやはり時期が空いている。この間、シムノンは何をしていたのか。《グランゴワール》誌の短篇などを書きながら、自分の回想録を書き始めていたのだ。最初は回顧ノンフィクションのかたちで進めていたが、作家アンドレ・ジッドの助言に従ってシムノンはこれを小説形式に整え直す。ノンフィクション作品として書かれた前者が『私は思い出す…Je me souviens…』(1949)であり、後者がシムノンの生涯最大の長篇『血統書Pedigree』(1948)となったわけだ。よってこれらの重要2作品もシムノンのキャリア上では第二期、すなわち戦時中の作品と見なすことができる。そして本作『ベベ・ドンジュの真相』はシムノンがそうした人生最大の仕事に取りかかる直前に書かれた、自分の持てる技を出し切った一作であったといえるだろう。
ガリマール社1999年版のテキストは小説第1章の直前、第1章の直後、第3章の後、第6章の後、そして最後の第9章を読み終えた後の箇所に、「読書の停止Arrêt sur lecture」という解説記事を挟んでいる。ローラン・フーコーLaurent Fourcautというパリ・ソルボンヌ大学の文学教授(シムノン全集の編纂にも関わったようだ)によるこれらの解説が極めて充実しているので、ここからは彼の指摘を取り入れながら小説の感想を述べてゆこう。驚いたのが小説本文を読み始める前、第1章の直前に置かれた短い解題だ。何が書かれているかというと、まず小説を読む前に本を手に取って、そのカバーデザインや裏表紙のあらすじを眺めて、内容を想像してみなさいという提案なのだ。彼は「間テクスト性paratexte」という言葉を示して、若い読者をこの言葉に馴染ませようとする。ここでは旧フォリオ版ペーパーバックのカバージャケットが参照されているが、デザイナーの人は何を考えながらこの写真を用いたのか、なぜカップの両脇に少し離れるようなかたちでティースプーンがふたつ置かれているのか、それらスプーンの離れ具合はいささか奇妙ではないか、と学習者である私たちに問いかけてくる。いわれてみればその通りで、すでに私たちは間テクスト性の想像力をフル回転させて、シムノン世界に入り込む準備を整えていることになるわけだ。
そして第1章が終わってすぐに挟み込まれる「読書の停止1」を読んで、私はさらに驚愕した。最初にハヤカワ・ポケット・ミステリで一読したときにはまったく考えもしなかった指摘がなされていたからである。
ほんの目に見えないような蚊が、時には、大きな石が水溜りに投げ込まれた時よりも、もっとはげしく水面をかき乱すことだってないとはかぎるまい。あのラ・シュテーニュレーでの日曜日は、丁度それだった。一体あの日曜日をのぞいた、それまでの日曜日といえば、ドンジュ家にとっては、なにかしら事のおきてる日が多かったのだ。たとえば、ママンが通り過ぎて三分もすると大きな山毛欅の木が倒れたあの嵐の日の日曜日だとか、或いは兄弟夫婦が、それ以来仲違いをして、何カ月もいききをしなくなったあの厄介なもめごとがおきたのも、やはり日曜日の午後のことであった、と言ったふうに……。(斎藤正直訳、一部改変)
上掲のように本書は始まるのだが、解説者のフーコー教授はまず冒頭に登場する目に見えないほどの蚊と大きな石に注目する。これは多くの人(フランス人)にとって、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌの『寓話』第2巻9話「ライオンとブヨ」を想起させるというのだ。シムノンはベルギー出身だがフランス語圏の作家なので、幼いころラ・フォンテーヌの『寓話』に親しんできたと思われる、だからここでは直接的には引用参照されていないにもかかわらず、読者は読み始めるなりすぐにラ・フォンテーヌのよく知られた寓話との〝間テクスト性〟を喚起されることになるのだ、と述べているのである。ここを読んで思わず「フランス人でなくてすみません」と謝りたくなった。急いでラ・フォンテーヌの『寓話』を発注し、岩波文庫版上巻p.129を確認した。
私が感じたところ、この冒頭はフーコー教授がいうほど両者は似ていないのだが、教授がここで何を述べたかったのかはわかる。ラ・フォンテーヌの『寓話』とはもともと17世紀に、ルイ14世の皇太子に読んでもらうため、詩人のラ・フォンテーヌがイソップ物語などから材を得て、身近な動物たちを擬人化しつつフランス風の教訓話として再話し書き継いだものである。一般市民にも好評を得て6巻まで続編が書かれた。いくつか読むだけでかなりの作品がイソップ物語の焼き直しだとわかるが、たとえば酸っぱいブドウで有名な「キツネとブドウ」の結末の教訓は、イソップ版とラ・フォンテーヌ版ではまるで異なっていることも有名である。
ということはすべて今回私も初めて知った。ラ・フォンテーヌ「ライオンとブヨ」は、簡単に記すと、百獣の王であるライオンは近くを跳び回るブヨを鬱陶しく思って追い払おうとしたが、そこでブヨが決死の覚悟でライオンに攻撃したので、ライオンはブヨを払うためにかえって自分の爪で自分の身体をひどく傷つけ、倒れて負けてしまう。ブヨは勝者となったが、しかし帰り道にクモの巣に捉えられて呆気なくクモに食われてしまった、という話だ。この話から私たちはふたつのことを教わる、とラ・フォンテーヌは最後に記した。ひとつは、もっとも恐るべき者は、しばしばもっとも小さな者だということ。もうひとつは、大きな危険を免れることはできても、小さなことで身を滅ぼす者がいる、ということ──だそうだ。シムノンの小説の冒頭では、まさに大きな石がライオンであり、目に見えない蚊がブヨであって、間テクスト的に読者はラ・フォンテーヌの寓話を思い出すため、それによって無意識のうちに、この物語にはどこか教条的なところがあり、何かの教訓が示されるのに違いない、と想像する。これが最初に放たれたシムノンの見事な技巧だとフーコー教授は解説する。
読み進めればこのブヨは主婦として慎ましく夫に仕えてきたベベ・ドンジュの比喩であり、大きな石とは地元の工場をいくつも経営し、しかし女にだらしがなく、妻や家庭を省みずに人生を謳歌してきた夫フランソワ・ドンジュを指しているのだとすぐにわかる。だがこれだけではラ・フォンテーヌの「ライオンとブヨ」とぴったり当て嵌まるというほどではない。実はフーコー教授はおそらくあえて書かなかったのであろうが、この冒頭のブヨの話は後に別のラ・フォンテーヌの寓話をはっきり連想させる役目を果たすのだ。岩波文庫版上巻p.133、第2巻11話の「ハトとアリ」である。
川辺に降り立ったハトが水を飲んでいると、水の上に屈み込んだアリが川に落ちてしまった。アリにとっては川も大海なので、とても自力で岸へ戻れそうにない。そこでハトは一本の葦を投げ込み、それが足場となってアリは無事に陸へ戻り、命を取り留めることができた。その後、銃を持った百姓が通り掛かり、岸辺にハトがいるのを見つけて銃を構えたが、ハトの情け深い行為に感謝したアリはその百姓の足をチクリと刺し、驚いた百姓の音を聞いてハトは飛んで逃げることができた。人はしばしば自分より小さなものの助けを必要とする、というのがラ・フォンテーヌの教えである。
実はこれとかなり近いイメージが、本書の中盤で描かれるのだ。夫フランソワ・ドンジュは妻ベベ・ドンジュに砒素を盛られて殺されそうになるわけだが、妻はもしかしたらずっと自分からの愛を求めて悲しみを募らせていたのではないか、それなのに自分は何も応じてこなかった、その悲しみが妻を反抗に走らせたのではないか、と病床で考えたフランソワは、もしどこかの時点で溺れかけの妻に浮き草を差し出して救っていたなら、このような事態には至らなかったのではないか、と内省してゆく。冒頭のブヨと石の寓話はこの場面とセットでラ・フォンテーヌとの間テクスト性を喚起するのだと考えられる。
だが、そうしたありきたりの教訓話では決してシムノンは終わらない。その意味でフーコー教授の指摘は裏返せば実に巧みな読者誘導だともいえる。一周回ってここまでフーコー教授の解説を理解して、ようやく読書の愉しみが実感として起ち上がってくるのだから、フランスの国語の授業は実に企みに満ちていると私は感じた次第である。
おかげで他にもいくつかフーコー教授が深掘りしない部分への想像力がいっそう高まってしまった。たとえば、冒頭のふたつめのエピソード、シムノンにとって〝日曜日〟とはいつだって特別な日であることを強調するものとして、ベベたち姉妹の母親が通り過ぎてすぐに大きなブナの木が倒れたというくだりだが、私はすぐさまここで貫井徳郎のミステリー長篇『乱反射』を思い出した。複数の互いにまるで関係のないもの同士が毎日少しずつ並木に影響を与えたが為に、ある日突然その並木は倒れ、因果応報のようにさまざまな登場人物に取り返しのつかない影響を与えるという物語である。ここで著者が試みていたのは、物語によって相関関係と因果関係は一体化してしまう、というミステリー小説上の重要な宿命を示すことであったろう。何か事件が起こるとき、私たちはたんなる偶然の「相関関係」を、しばしば「因果関係」として錯覚し、その錯覚すなわち〝一貫したストーリー〟によって納得しようとしたがるものだ。
人間がしばしば陥るこの錯覚こそがミステリーという文芸形態を生み出したのであり、また一方では人々を陰謀論という幻想に絡め取る。とりわけ科学の世界で「相関関係」と「因果関係」を取り違えることは極めて危険で、その錯覚は疑似科学を生み出し、私たちに差別の感情をもたらす。だが何ということだろうか、私たちは小説を読むとき前後の「相関関係」と、その両者の間に意味があると空想する「因果関係」の錯覚を存分に発揮することによって、両者の関係を対比させて、そこに「何らかの真実」を見出そうするのではないのか。
シムノンの本作品でも例外ではない。フーコー教授に拠れば本作には「紙」という言葉が17回も登場するのだそうだ。この繰り返しは作者の意図によるものであるならば、私たちの知る紙のさまざまな機能を通して本作のテーマに深みを与えているのかもしれない。ブナの木が倒れたという出来事も、科学的に見ればただの偶然であろう。しかしベベたちの母があと三分遅れて道を通ったなら、彼女はブナの下敷きになって死んでいたのだ。そこに運命を感じる者ならば、この些細なエピソードも本作においては一家における母性の起源がやがて力尽きて倒れてゆく運命を象徴している、とすばやく読み取って不思議はない。
私はまだハヤカワ・ポケット・ミステリの最初のページの上段部分に対してしか感想を述べていない。この調子では読んでいる実際の作品以上に言葉を費やしかねないので半ばは大きく省略しよう。ただ、あとひとつ、とても驚くことがあったので記しておきたい。ガリマール社1999年版のテキストを読むため翻訳作業に私はClaudeという生成AI(https://claude.ai/new)の助けを借りていた。フーコー教授の執筆した「読書の停止」各回の終わりには「あなたの番です」という質問コーナーが設けられており、読者自身にさらなる考察を促している。第1章のこのコーナーに、次の設問がある。
「ベベ・ドンジュ! パステル画のよう! 詩集から抜け出てきたような空気のような、非物質的な存在」(34ページ)。なぜ作家は2回も感嘆符を使用したのでしょうか? (Claude 3.5による翻訳。引用部分は邦訳版ではp.11にあたる。邦訳では文章の最後にも感嘆符がついているが、シムノンの原文では2回のみ)
皆さんはこれにどう答えるだろうか? 実は当初、Claude 3.5にこの文章を入れたとき、Claudeはそのまま翻訳するのではなく、間違ってこの設問への〝回答〟を示してきた。それがあまりに堂々とした回答だったので私は驚愕したのであった。なるほど時代はここまで来たのだな、と『赤道』(第36回)の感想を書いた2017年当時(7年前)のことを思い出しながら感じ入ったのである。
本作を読むとき物語の底面で重要な意味を放つのが、ドンジュ一家における父性の起源性と、一方のドンヌヴィル(邦訳表記ではドヌヴィル)一家における母性の起源性だ。フーコー教授はここでも実に鋭い意見を発している。DONge一家とDONneville一家は、名字からしてすでに似かよっており、出自は異なっても実は裏返しの関係にあるというのだ。ドンジュ一家の父親はこの土地で皮なめし職人として地味に生きたが、その息子たちふたりは事業を拡張していまやブルジョワ階層の人間である。作中でフランソワとフェリクスのどちらが兄でどちらが弟なのかは明示されていないが、おそらく主人公フランソワの方が兄だろうとフーコー教授は推測しており、邦訳でもフランソワが兄とされている。双子のようでいながら実は年齢差がある兄弟、これが本作の肝のひとつだ。
一方、ドンヌヴィル一家の方は、かつてコンスタンティノープルで貴族のような暮らしをしていたが、実際の資産はごくわずかで、しかし母親は自分たちのプライドを捨て切れずd’Onnevilleとまるで爵位があるかのように勝手に改名しているという設定である(フーコー教授はdonneVILLEと〝ヴィル(街)〟が名字に入っていることでこの一家のプライドの高さ、高級階層への執着心の強さが示されているとさえ指摘している)。
まず弟のフェリクスが姉のジャンヌとつき合っており、そして10年前にコンスタンティノープルで兄のフランソワは18歳の娘ベベと初めて出会い、かなり歳の差があるにもかかわらず弟夫婦とともに共同結婚式を挙げた。作中ではフェリクスとジャンヌの夫婦はそれなりに釣り合いの取れた夫婦として描かれている。だがベベは明らかにまだ子供だった。そもそも姉のジャンヌや母親が、次女のウジェニーを〝ベベ(赤ん坊)〟といつまでも愛称で呼び、夫となったフランソワでさえその呼び名を踏襲したのだから、女遊びの好きな大人の男フランソワとは端から反りが合わなかったと容易に考えられる。実際、ベベ・ドンジュは恋愛に関して夢みる娘であり、ブルジョワ実業家の妻となったら得られるであろうさまざまな幸福を夢みては、現実との差に失望を覚えていたのである。だからこそ早く子供がほしいと願ったし、田舎に別荘を建てると決めたときには自ら進んで家の装飾を指揮し、夫と離れて暮らすようになった。フランソワは妻の趣味が全開したこの別荘《ラ・シャテーニュレー》に居心地の悪さを感じていた。つまりベベ・ドンジュは思い描いていた愛がないことに失望して別荘のなかに閉じ籠もり、自分の夢ばかりに顔を向けて、現実を避けて生きてきたのである。
妻をそうした状態で放っておいたのはまずいことだった、と病床のフランソワもさすがにわかった。だがそれでも謎は解けない。なぜ10年後のいまになって、突然に妻のベベは自分を毒殺しようとしたのか。悲しみや嫉妬が徐々に堆積していたのだとしても、なぜいったいこのタイミングだったのか。その真実を探るために、フランソワは回想を繰り返してゆく。途中で彼の病室には医師や看護役の修道女や巡査部長ジャンヴィエ(メグレものでおなじみのジャンヴィエ刑事と同名だが、彼はオルヌ県内の捜査官なので偶然の一致であろう)や治安判事や弟夫妻など多くの訪問客があり、事件捜査の進捗状況について都度報告が為されるのだが、こうした応対と過去の回想がこれまでも見てきたシムノン特有の文体で、渾然一体となって読者の前に示されてゆく。
この手法はフーコー教授の解説でも「声の入れ子構造」「驚くべき直接話法」として強調的に取り上げられている。たとえばポケット・ミステリ版64ページの「その通りだよ、判事さん!」に顕著だが、フランソワと判事が直接話法で話し合っている際に突然、フランソワの内面の語りが自由間接話法として挿入される。解説に拠ればテキスト内で発言を報告する3つの方法に「直接話法style direct」「間接話法style indirect」「自由間接話法style indirect libre」があり、シムノン作品ではこれらがダイナミックに、かつ読者に対して何の前触れもなくおこなわれる。
これを受けて私がポケット・ミステリ版の邦訳でなるほどと気づいたのが、すべての発話を通常の日本語表記「」(カッコ)ではなく、フランス語表記と同様に──(ダッシュ、フランス語ではティレという)が用いられていることだ。このティレで直接の発話が記されると、日本語では半ばその人の胸中に含んだ独り言のような若干の曖昧さが感じられて、本作においてはこれがうまく機能している。
フーコー教授は本作『ベベ・ドンジュの真相』から連想されうる他作家の他作品についても積極的に紹介している。「ボヴァリズム」という言葉で示されるようにまずはギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』がフランス語圏の人々には思い出されるらしい。華やかな上流社会に憧れた若い女性がやがて絶望し服毒自殺を図る物語だが、申し訳ない、私は未読である。
さらに教授が取り上げる3作品が、フランソワ・モーリヤック『テレーズ・デスケルウ』、アルベール・カミュ『異邦人』、そしてジャン・ジオノ『気晴らしのない王様』だ。確かに『テレーズ・デスケルウ』はシムノンの本作とよく似ており、シムノン自身も執筆時に意識した可能性がある。やはり上流階級に嫁いだ妻が絶望し、夫に砒素を盛る。夫は一命を取り留め、妻の気持ちを〝慮って〟、裁判では妻に有利な発言をして妻を救う。だがそれこそが〝家族〟の体面を保とうとする夫の傲慢さであり、妻のテレーズは最終的に夫のもとを去って行く。シムノンの本作はこの結末にさらなるひねりを加えたものと見なすことができる。
カミュの『異邦人』が本作と似ているというのは、教授の解説を読んでなるほどと思ったのだが、ラスト近くの司祭とムルソーが対話する場面だ。司祭や世間の人々は、主人公ムルソーがなぜ人を殺したのか、その〝真実〟を完全に理解していると信じて疑うことがない。だが司祭の言葉を聞くムルソー自身は、彼らの辿り着いた〝真実〟がまったく間違っていることを知っている。それなのに司祭はムルソーの言葉を聞くことさえせず、自分たちが勝手につくり上げた〝真実〟のもとに、勝手にムルソーを哀れみ、ムルソーを裁こうとしているのだ。この矛盾こそがムルソーには許せないものであり、だから彼の「心のなかで何かが弾けた」。だから彼は叫び出した。ここは前回の『帰らざる夜明け』以上にシムノンに近いと私は改めて感じた。
本作『ベベ・ドンジュの真相』は、毒を盛られた夫のフランソワが、病床でこれまでの結婚生活10年を振り返り、いかに自分に非があり、それゆえに妻ベベを反抗に至らしめたのかを懸命に推測して、つまり相手を思いやり、相手の心のなかを探り出して、その上で自分の誤りに気づき、反省し、ようやくベベへの愛を取り戻す。自分がベベを愛していたことに初めて気づき、ベベとの結婚生活をやり直そうと考える。だがその〝回心〟も、すでに罪を犯したベベの心にはまったく届くことはないのである。それどころかそうしたフランソワの悔恨も、ベベにとっては欺瞞と映る。
ここが本作の心底恐ろしい部分だと私は思う。私は新型コロナのパンデミックを経て、なぜ科学者同士がこれほど公の場で醜く罵り合い分断するのかと何度も衝撃を受け、いったいサイエンスコミュニケーションとは何だろうかと考えることが多くなった。最近、どうすれば互いに人は分断せずにコミュニケーションができるのかというテーマを扱う書物の出版が増えている。人はそれぞれ生まれ育った環境や教育によって考え方がみな違うのだから、たとえ科学の話題であってもまずは個々人の認知スキーマ(従来のビジネス書では、心の習慣、マインドセットなどと表現されてきた)が異なることを前提としつつ、相手の心を読み解きながら対話に務めることの重要性が、それらの本では繰り返し問われている。
だが相手を思いやろうと懸命に努力し、相手の心を読んで合わせようとしたところで、それらはひょっとするとその人自身の勝手な妄想の押しつけかもしれない。誤った推測は決定的な分断を生み出すことさえあり得る。ではいったい私たちはどうすればよいのか。私たち人類はまだそこへの回答を持ち合わせていないのである。
『テレーズ・デスケルウ』『異邦人』そして本作『ベベ・ドンジュの真相』が共通して描いているのは、この人間の限界性であるといってよいだろう。私たちはどんなに推測しても、共通した〝真実〟に辿り着くことはできない。しかもそれは深い深層心理に位置するものではなく、ごく表面的な、一方の側にとっては自明とさえ思われるほどの単純な〝真実〟であってさえ、私たちは推測を誤ってしまう生きものなのである。だからこそ絶望が生じる。新型コロナのパンデミックがあぶり出したのはまさにこの人間の〝人間らしさ〟の限界性であり、それと同時に生成系AIが急速な台頭を示したのはおそらく偶然ではない。
本作『ベベ・ドンジュの真相』で描かれる妻ベベは、確かに幼くして結婚し、上流階級の妻という立場に薔薇色の夢を抱いていた。結婚すること、夫といっしょに暮らすことに対して絵のような理想を思い描いてきた。一方、夫フランソワは遊び慣れた年上の男であり、まさに英訳タイトル『I Take This Woman』【註1】が示すように、「じゃあおれはこの女をもらうよ」といった気軽さでベベと結婚したのである。ベベの家庭はコンスタンティノープルでにわか貴族として暮らしていたが、実生活は苦しいもので、だからこそベベには玉の輿の願望があり、一方でフランソワには貧しい小娘をおれが救ってやるという傲慢さがあった。物語の途中までは、その単純な図式で世界は説明できたのである。しかしあまりに恐ろしい皮肉だが、フランソワが病床で真の愛に目覚めるとその瞬間、これらのわかりやすい構図は瓦解し〝真実〟はどこかへ行ってしまう。本作の冒頭で小さな蚊が激しく水面を掻き乱す幻影の病者が出て来る。私たち読者も、また主人公フランソワでさえも、その小さな蚊とはつましかった妻ベベのことだと思っていた。だが病床のなかでフランソワは気づくのである。実はあの小さな蚊はベベではなく、自分自身のことなのではないか。水面で足掻いている蚊とは、実は上流階級にのし上がり、家長として(自覚もなく)ドンジュ家を統治してきた自分自身だったのではなかったか。
【註1】本作に限らずシムノンの英訳ペーパーバックの表紙デザインは、いくつかが「小鷹信光文庫ヴィンテージペーパーバックス」のページ(https://kodaka.hayakawa-foundation.or.jp)で確認できる。
もうひとつのジャン・ジオノ『気晴らしのない王様』であるが、シムノン作品と比較して論じられるのはおそらく珍しい。フーコー教授の専門がもともとジャン・ジオノだったそうなのでここに組み込まれたのだろう。教授が引用しているのは作品の冒頭、邦訳版では9-10ページの「一時。二時。三時。雪は降り続ける」のあたりである。彼の論点はこうだ。ジオノの小説において一部の人々は「個人的な消滅の代償を払ってのみ世界と一体化できることを自覚して」おり、そのため「同時に死の恐怖を感じてい」る。『気晴らしのない王様』においては世界を覆い尽くそうとする雪が、そしてその表面にぽたぽたと落ちる赤い血の繰り返し描写が、このテーマを象徴している。世界の真実を知ることは個人を捨て去ることなのだが、しかしそれでは個人としての自分は死んでしまうことになる。この矛盾をどう考え、解決すべきなのか。「地上の変容に参加したいという欲望を満たし(中略)、かつ死なずにすむ」にはどうしたらよいのか。これはなかなか興味深い設問で、詳しくは述べないが私はかつて『デカルトの密室』で密室の第一の答えとしてこの解決を試みたことがある。
本作『ベベ・ドンジュの真相』に限らず、シムノン作品ではつねに〝一線を越えてしまう〟人々が描かれている、とフーコー教授は指摘しているのだが、それはもちろんシムノンだけでなく多くの優れた物語にも当て嵌まる。物語という生命体世界そのものが内包する暴力的あるいは気高き欲求でもある。そこにつねに起ち現れる〝残酷さ〟の類例として教授は『気晴らしのない王様』を挙げたのである。教授はその後もシムノンが身体の〝真実〟に重きを置いていること、シムノン世界では身体を通して心と世界が繋がっていることなど、作品の読解にあたって重要な指摘を的確に私たちの前へ提示してくれて読み応えがある。シムノン愛読者の皆様に強く推薦しておきたい解説文だ。
本作『ベベ・ドンジュの真相』では夫フランソワに毒が盛られてから2か月後に妻ベベ・ドンジュの裁判がおこなわれ、この結果を以て物語は終結する。このときフランソワはすでに退院しているが、法廷の場で彼が妻と直接顔を合わせることはない。別々に証言が執りおこなわれるのだ。彼は法廷で述べる、《神と人間を前にして、私の両親と魂に誓います》と。そして彼は、妻を許すのである。夫としての自らのおこないが悪かったが為にベベは犯行に及んだのだから、自分は反省して回心する、そして妻を許すと誓うのである。
なぜ彼はそんな発言をしたのか。それは入院の最中に弁護士や判事などと面会するうち、彼らがまるで間違った推測でベベの犯行動機を決めつけていたからだ。まるで陳腐な、まるで安いメロドラマのような動機を推測してベベに同情し、それによって裁判で彼女に情状酌量の余地を与えようと画策していたのだ。夫フランソワにはそのことが耐えられなかった。ベベが犯行に及んだのはもっと深い理由、つまり愛という〝真実〟がある。自分だけが愛という本当の犯行動機を知っている。だからこそ自分は証言台でそのことを訴えなければならない。
だが翻ってベベは何を申し述べるのか。その内容は《ラ・シャテーニュレー》に戻った彼のもとへ間接的に伝えられる。モーリヤック『テレーズ・デスケルウ』との対比がここではっきりとわかるのだが、私は『テレーズ・デスケルウ』より本作の方が恐ろしいと感じた。その恐ろしさをまさにシムノンは無意識のうちに、まるで何でもないかのようにさりげなく書いている。前回(第106回)ジッドの書簡で示した通り、そこがシムノンの恐ろしいところなのだ。
最後に、シムノンのさりげなさがいかに実際に凄まじいものであるかを指摘しよう。本作『ベベ・ドンジュの真相』ではラスト最後の一行が、それまでの文章から一行空けて、放り出されるかのように示される。白状すると私は初読のとき、このラスト一文の意味がわからなかった。皆様にはわかるだろうか。ここで何が書かれているのか、即座に理解できるだろうか。私はフーコー教授の解説文を読んでようやく意味がわかった。それほどまでにさりげないのだ。
本作においてフランソワとフェリクスのドンジュ兄弟のどちらが兄でどちらが弟なのか、本文上では明らかではないが、おそらくはフランソワの方が兄なのだろう、と先に私は記した。3歳の差はあるが、ふたりはほとんど双子のように周囲から見られてきた、とも示した。この曖昧さは、他方のジャンヌとベベのドンヌヴィル姉妹において上下関係が異様に明示的であることと対照的だ。なにしろ妹のベベは姉や母からも本名ではなくずっと〝ベベ(赤ちゃん)〟と呼ばれており、そして結婚後は夫からもベベと呼ばれているのだ。明らかに両家族は年齢感覚がおかしい。家族や一族としての機能が歪んでいる。実はここに本作を読み解く重要な鍵が隠されていたわけである。
つまりラストの一文で、主人公フランソワは、妻だけでなく家長としての属性さえも失ってしまうのである。ラストの少し前に医師がフランソワを気遣って言葉をかけ、しばらくは弟のフェリクスに仕事も任せて休みなさいと説く〝さりげない〟シーンがある。ここで兄のフランソワは遠回しながらすでに皆から狂人扱いされており、まともな工場経営もできないと判断され、実権は弟に移譲されることがほとんど決定事項とされている。そうした背景を飲み込んだ上でラスト一文を読むと、主人公フランソワがここで世界と完全に断絶して、それまで彼が当然のように担ってきた父性を喪い、物語の幕が閉じられたことがわかるのだ。
フランソワは最終的に愛を知った。愛に気づいた。あるいは彼にとっての真実の愛をついに取り戻した。だがそれは彼自身がこの世界のなかでたったひとり、すべての地位も人間関係も捥ぎ取られて、ただの生きる屍となってしまったことを意味していた。これが本作の恐ろしい結末だ。
そして、ではタイトルにも掲げられたベベ・ドンジュの真相、〝真実〟とは、いったい何であったか? フーコー教授の解説文には模範回答が示されており、その意味で読者は事件解決に辿り着けないわけでは決してない。むしろ直観的には、小説好きの人ならばおおむね〝真実〟を見抜けるだろう。だがそれを具体的に言葉で書き下して表現しようとすると、どんな人でもかなり難しいのではないか。試験用紙に回答を〝書く〟ことが難しい。ここに私はシムノン作品の醍醐味を見て取る。そして、その難しい行為を、あえて「あなたの番です」と促し、リセの生徒たちからその難しい言葉を引き出そうとするフランスの文学教育の凄みに、やはり私は感銘を受ける。
シムノンは本作がすぐにでも映画化されることを望んでいたようだが、それは果たせず、アンリ・ドコアン監督(1890-1969、ドゥコアン、ドコワンなどとも書かれる)によって1951年に公開された。
ただしドコアン監督は、戦時中の1942年に『家の中の見知らぬもの』を、また1943年に『L’homme de Londresロンドンから来た男』(日本未公開)を発表している。さらにほとんど実際には関わらなかったようだが、ドコアンが脚本にクレジットされた『Annette et la blondeアネットと金髪女』(日本未公開)も1942年の公開である(映画『L’homme de Londres』と『Annette et la blonde』は次回以降に紹介する)。このようにドコアンは第二次世界大戦の時期にシムノン作品を数多く手がけた監督であった。だがこの占領者側のドイツが資本提供していたコンチネンタルフィルム社で仕事をしたため、戦後は強い非難を受けた。
しかし作家性にも優れ、いまなおファンの多い映画監督である。『家の中の見知らぬもの』ないしは『ベベ・ドンジュについての真実』のいずれかをドコアン監督の最高傑作と賞賛する声は大きい。映画『ベベ・ドンジュについての真実』については彼の死後の1991年に《シネマ・プレビューL’avant-scène cinéma》という雑誌で一冊丸ごとの特集が組まれ、シナリオが全掲載されたほどだ。公開当時もさまざまな雑誌で取り上げられ、評論特集が組まれたりもした。
ただし『ベベ・ドンジュ』は当時の観客には不評で、興行的にも大失敗だったという。私個人の想像だが、まず主役のジャン・ギャバンがひたすら病床で過去を振り返るという斬新で意欲的な構成が、一般大衆には〝難解だ〟と敬遠された可能性がある。実際にはシムノンの原作よりもかなりわかりやすく、とくに過去の回想部分は原作と異なってきちんと古い記憶から最近の記憶へと順番に提示されるので、それだけでも脚本上の工夫が充分に伝わってくるのだが、それでもまだわかりにくいという不満は出たそうだ。
もうひとつ、詳しい事情は調べていないのでよくわからないが、かつてドコアン監督の3番目の妻であったダニエル・ダリューがベベ・ドンジュ役を演じたという、いささか下世話な興味を掻き立てる要素も世評に影響したのではないかと思う。彼らは1935年に結婚し、1941年に離婚した。夫婦だったとき、もちろんドコアン監督はダニエル・ダリューを積極的に起用していたのだが、本作はその時期ではなく離婚後につくられている。夫婦生活の破局という本作の内容がそのまま監督と女優の人生に直結していたことになる。
ドコワンとはなかなか興味深い人物だったようで、彼はまず水球と水泳のスポーツ選手として世に知られ、1912年のストックホルムオリンピックにも出場して優秀な成績を収めた。その後はジャーナリストや小説家へと転身し、ボクシング小説も書いている。そして映画脚本も書きながら、やがて助監督を経て監督となったという経歴の持ち主だ。
当時の評論で私が入手できたものを紹介すると、まず《パリ・マッチParis Match》誌1952年2月16-23日号は「ダニエル・ダリューとジャン・ギャバン、夫婦の問題を提起する」というタイトルの紹介記事で、「監督はこれが探偵映画であることを否定している」と伝え、彼の話には解決策がない、出口がないのが特徴だ、と本作の主題を的確に指摘している。いくつかの重要な台詞を引用し、ラストシーンでベベ・ドンジュが車に乗せられ去って行くなか、彼女がまったく涙を流さないことについて、それは彼女がすでに死んでおり、死者は泣かないものだからだ、と印象的な文章で評論をまとめている。
ベベ・ドンジュはすでに夫婦生活の家庭で徐々に死んでいったのだ、という指摘は当時の専門評論誌《テレシネTélé-Ciné》1952年第32-33合併号にも書かれている。映画が原作ともっとも異なる点は、ベベ・ドンジュがすぐに拘留されるのではなく、彼女が夫に毒を盛ったことは最初のうち誰もわからず、夫フランソワは食事中に牡蠣にあたったのだと思われており、しかしやがて夫フランシスが記憶を取り戻すにつれてベベの犯行が明らかになる、という段階的な展開が採用されていることだ。そのためフランソワが倒れた原因が砒素だとわかるまではベベも自由に行動できるわけで、彼女は何度も病室の夫を見舞う。そのときの彼女はいつも黒服で、ドアの脇に無表情で立ち、半ば部屋の陰に隠れており、まるで幽霊のように見える。つまりほとんど彼女はゾンビと同じなのである。
本作の脚本担当はモーリス・オーベルジェだが、いくつかの印象深い台詞はドコワン監督とともに練られた可能性もありそうだ。もっとも有名なのはベベが夫に訊く「カップルって何ですか、フランソワ?」だ。他にも「欲望とは何ですか?」など、愛のない夫婦生活に疑問を抱いたベベは繰り返し夫に〝定義〟を迫る。夫フランソワは大人であるから、そんなことはどうでもいいじゃないか、とつい思ってしまう。そんなことは若い娘の悩みに過ぎないと軽く受け止めている。だがこの映画でのベベは定義こそが愛の証なのである。彼女は新婚旅行から初めて自宅に戻るときはお姫様抱っこされながら夫に扉を跨いでほしいと願うほどで、男性はついそんなことどうでもいいじゃないかと思ってしまい、たいていはそこから夫婦生活の破綻が始まるわけであるが、そうした些細な擦れ違いが定義の詰問というベベの行動変化に至ってゆく様子が映画ではうまく描かれている。究極的なベベの問いはすなわち、先にも示した「夫婦(カップル)とはいったいなんですか」というものだ。そのまま私たち観客はドコワン監督と俳優ダニエル・ダリューの極めてプライベートな対話として聞くことができる。
そしてベベの放つ問いは、幼稚な理想に過ぎないようでいて、実際にはどれも核心を衝くものだ。「ひとりで生きるよりもよく生きることができなければ、いっしょに生きることに何の意味があるのでしょうか?」
この映画でベベたち姉妹の母親の役割は、ドルトモン夫人という世話好きの老女が担っているが、愛なんてものは後で来る、と結婚について悩む若いベベを諭そうとする場面もある。結婚という儀礼を経て徐々に本当の愛は育まれてゆくものだ、という、これも一種の真理ではあるのだが、ベベは納得できない。このドルトモン夫人は映画のラストに至りベベに向かって「あなたとフランソワは互いを愛していたと思うわ」と不思議な台詞を発して退場してゆく。もちろん聞いているベベは夫人の言葉に微塵も共感できない。だが夫人はかなりの確信を持って最後に語ったかに見える。この齟齬は何に起因するのか。あるいは、夫人は〝こうした結末こそが愛の真実だ〟とでもいいたかったのだろうか。
シムノンの原作でもそうなのだが、この映画ではフランソワとベベの間に生まれた8歳の息子がほとんどまったく画面上に姿を見せないことは、異様な気持ちにさせられる。ベベは生まれてきた子供にこそ愛の果実としての現実性、実際に自分で手に取って確かめられる愛のかたちを見出そうとしていたはずなのに、家を去ってゆく最後のシーンでさえベベは子供と対面しようとしない。もはや彼女は愛の希望などといった問いさえも失った、生きる屍に過ぎないのだということがわかる。ラスト直前、最後に病室で彼女が夫と面会する際、彼女は夫から改めて愛を告白される。夫フランソワは、もう一度やり直そうとベベに訴える。だがベベは乾いた目を大きく開いた死人の表情で、「愛は奇跡。だから愛をやり直すことはできない」と拒絶する。「ぼくはやり直せる。希望はないのか?」と再度問う夫に、ベベは「すべては失われたわ」と答えるだけだ。部屋を出て行こうとするベベの後ろ姿に夫フランソワは声を上げる。
「聞いてくれ。すべてが失われたとき希望もないのなら、希望とは何なんだ?」
定義を問う立場が最後になって逆転する。この問いが、映画全体のなかではもっとも切実で、私たちの心に響く、人間らしい感情の籠もった問いかけだ。
しかし人間らしさを取り戻したときには、すでにフランソワという男の人生は終わっているのだ。
生成AIが一気に普及し、未来において人間は肉体を失い機械と果てしなく融合して精神生命体となるだろうなどと一部のロボット学者が本気で語って大規模研究予算を獲得する現在の社会において、シムノンの物語はいっそう〝人間らしさ〟の本質的定義を問うものとして再生を遂げつつあるように思える。これは逆説的に、生きる屍となった者のほうが実は世俗的な人間らしさを保持しているのであり、人間らしさの真実に手を伸ばそうとした途端に私たち人間は〝生命らしさ〟を失ってしまうのだという皮肉でもある。
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・Marcel Sauvage他, Situation du Cinéma « Pour Vous » 1933/11/16号(n° 261) p. 7* ・ポオル・モオラン、フェルナン・レジェ、ジョルジュ・シムノン「映画の現状を論ず(一)」飯島正訳、《新映画》1934/新年特別号(第4巻第1号)pp.38-41* |
シムノン最初期の邦訳文章を新たに見つけたので、映画繋がりの意味も含めて今回ここで紹介しておく。《あなたのためにPour Vous》という映画専門紙が1933年に各界著名人へアンケート調査をおこなったのだが、その回答者のなかにシムノンが含まれていた。その調査記事が翌1934年の本邦映画専門誌《新映画》に訳出されたので、シムノンの回答文もまた訳載されたのである。
当時シムノンは映画『モンパルナスの夜』の台詞づくりに協力した実績があり、掲載紙《あなたのために》でも出演俳優インキジノフとともにタイピストの女性を挟んで頭を突き合わせ思案するさまを写し取った有名なスナップ写真が引用されている。実際は『モンパルナスの夜』の後、シムノンは映画産業に失望して、大戦時まで距離を置くようになるのだが、当時は今後も映画業界で活躍しうる有望株と見込まれていたのかもしれない。「《あなたのために》が大規模調査を実施」と銘打たれた「映画の近況」という記事内では、当時の有名作家ポール・モラン、画家フェルナン・レジェ、映画監督ルネ・クレールと並んでシムノンのコメントが掲載されている。記事は連載だったらしくルネ・クレールのコメントは途中で切れており、《新映画》1934年新年特別号掲載の「映画の現状を論ず(一)」もシムノンまでの3名のコメントで終わっている。
詩人で美術評論家のマルセル・ソヴァージュが取りまとめたアンケートは、5つのいささか漠然とした質問事項から成っていた。端的にまとめれば近年台頭している映画には過度に商業的との批判も聞こえるが、果たして芸術的価値のあるものであろうか、映画の言語とはいかなるものか、監督や脚本家と俳優や技術者との関係はどうあるべきか、あなたは映画の未来をどのように考えるか、といったものである。40名の著名人に送り、20名から返答があったという。
ポール・モランもフェルナン・レジェも、これからは映画が人々にとって必要不可欠な巨大産業になってゆくだろうと述べ、今後も人々に大いなる活力を与えてゆくだろうが、むしろ映画の持つそのあまりの豊かさに、文明は圧倒され危機に陥ってゆくのではないか、との懸念を示している。
そうしたなかでひとりひよっこといってよい若造シムノンが、ひねくれた見解を寄稿した。
「私はかつて映画を信じていました。いまはもう信じていません。少なくとも、過去も現在も未来も、完全な芸術としては信じていません。」(Claude 3.5による翻訳)
シムノンはここで、かつては自分も映画ファンだったが、実際に関わってみてあまりにショービジネス的であることに失望した、と述べたかったようだ。皮肉に溢れた文章はいかにも駆け出しの若手が露悪的に書きそうなもので、映画人同士の協同作業なんてものは幻想だ、協力したいならなぜ作家は写植工と協力しない? などとからかった上でこう結論づけている。すなわち、いま誰もが偽の金時計をつくり、偽の銀スプーンをつくり、偽の琥珀の煙草入れをつくっているのと同じように、いま映画人たちがつくっているのはしょせん偽物でしかない。ところが彼らの一部はそうした〝傑作〟をつくって財を成しているのだから、今後も映画が栄光に満ちて繁栄しないはずはない! と。
その後、シムノンは下手くそで意味のよくわからない詩を書いてコメントを終えているが、これは質問者が映画の言語・詩的表現について問うたことを受けての悪ふざけであろう。
大した内容ではないが、シムノンの映画に対する姿勢は初期のころ、このように一貫していたのだと再確認できる文章ではある。そしてこのときすでにポール・モラン、フェルナン・レジェ、ルネ・クレールと対等の立場で、本格デビューしてわずか2年目のシムノンがアンケートに答えているのはいささか驚きであった。
《新映画》に掲載されたシムノンのコメントは、全訳でもないが一部を忠実に訳したものでもない、少し不思議な内容となっている。訳文にあるチャーリー・チャップリンや『三文オペラ』への言及は原文に見当たらないし、ひとりの人間がすべて映画製作をコントロールできるならまだ映画に可能性はある、自分で金を出してやってみたいというくだりも、シムノンの〝真意〟を推測して訳者の飯島正がつけ加えたものに見える。最後に付されたシムノンという人物への紹介文も、まだ小説の邦訳が進んでいなかった時期のものであり、訳者はこの「近頃売出しの探偵小説家」の扱いを持て余しているかのようで微笑ましい。
瀬名 秀明(せな ひであき) |
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1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。
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