・Le bateau d’Émile, Gallimard, 1954(1954/5) [原題:エミールの船]中短篇集 ▼収録作 1. La femme du pilote « Gringoire » 1940/10/3号(n° 617) [水先案内人の妻]1940執筆(第109回) 2. Le doigt de Barraquier « Gringoire » 1940/10/24号(n° 620) [バラキエの指]1940執筆(第109回) 3. Valérie s’en va « Gringoire » 1941/3/6号(n° 639)(初出タイトル:Les larmes à l’estragon)* [ヴァレリーは出てゆく(エストラゴンの涙)]1940執筆(テール゠ヌーヴ城Château de Terre-Neuve, フォントネー゠ル゠コントFontenay-le-Comte(ヴァンデ県)) 4. L’épingle en fer à cheval « Gringoire » 1941/6/20(n° 654)* [馬蹄型のピン]1940執筆(テール゠ヌーヴ城Château de Terre-Neuve, フォントネー゠ル゠コントFontenay-le-Comte(ヴァンデ県)) 5. Le Baron de l’écluse ou la croisière du Potam « Gringoire » 1940/12/12号(n° 627) [水門の男爵または《ポタム号》の遊覧]1940執筆(第109回) 6. Le nègre s’est endormi « Gringoire » 1941/1/30号(n° 634)(初出タイトル:La passion de Van Overbeek) [黒人は眠りに落ちた(ヴァン・オーヴァービークの熱狂)]1940執筆(第109回) 7. La deuil de Fonsine 未発表 「フォンシーヌの喪」1945/1執筆 『メグレとしっぽのない小豚』(1946)収載の同題作、また『三羽の雛のいる通り』(1963)収載の同題作と同じ →後年の版では割愛 8. L’homme à barbe « La Revue de Paris » 1945/6/3号(n° 3)(別題:Nicolas) 1944/1執筆 →改題して『La rue aux trois poussins』(1963)収載。『十三人の被告』(1932)収載作「ニコラス」とは同題の別作品 →後年の版では割愛 9. Le bateau d’Émile « Lectures de Paris » 1945/7/20号(n° 2) 1945/7執筆 ・Tout Simenon t.25, 2003/1(t.4収載の[5]、t.12収載の[8]を除く) Œuvres Comprètes t.26, Éditions Rencontre, 1969 Nouvelles secrètes et policières t.2 1938-1953, 2014/8 ▼英訳 ・Tout Simenon t.12, 2003/1(t.4収載の[5]を除く) Œuvres Comprètes t. XXV, Éditions Rencontre, 1969[11, 14] Œuvres Comprètes t.26, Éditions Rencontre, 1969 Nouvelles secrètes et policières t.2 1938-1953, 2014/8 ・La rue aux trois poussins / Le mari de Mélie, Rédacteur : Hanne Blaaberg, Illustration : Per Illum, Easy Readers, 1985 フランス語学習者向けにAランク600語(A2)でリライトされたもの。[丁(デンマーク)] ・L’homme à barbe et autres nouvelles, Lecture d’Alain Bertrand, Luc Pire, 2008/10 [白(ベルギー)] |
1940年、シムノン一家はさらに引っ越しをした。ヴァンデ県ヴヴァンの農場からわずかな期間別の場所に移り、そして最終的にフォントネー゠ル゠コントにあるテール゠ヌーヴ城に落ち着いた。1590年ころに建てられたとても立派な白亜の城で、現在は見学もできるらしい。シムノンはここに1943年まで住んだ。
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今回はここで1940年内に書かれた3つの短篇を読んでゆく。1941年以降の短篇はまた別途取り上げる。
クリスマスが近い、日曜日の朝6時。未婚の女性ヴァレリーは石油ランプを灯し、黒い衣服で身支度をする。毎週日曜日は早朝のミサに行く習慣なのだ。彼女は老いて足腰の立たなくなった母親と暮らしており、家は雑貨商と酒場を兼ねた店で、世界を支配する青白い十字のようにも見える寒々しい四つ辻の角に建っている。
ミサから戻ってきたヴァレリーは、店に置いてある人形の位置が変わっていることに気づいた。母親であるコンシュ夫人は眠っているふりをしていたが、ヴァレリーは母を起こして、誰が来たのかと尋ねた。母は車椅子生活を送っているので、人形を置き換えられたはずがないのだ。ひょっとしたら親族の誰かが、母の隠し財産を狙って侵入したのかもしれない。
だが、ヴァレリーはそのとき初めてわかったのである。母親の靴下の裏が汚れている。母は自分で立って歩くことができるのだ。それなのにずっと自分に隠したまま、介護を求めて生きてきたのだ! ヴァレリーは兄や姉が家を出てそれぞれ小器用に暮らしていることを知っていたし、自分だけがずっとこの家に取り残されて、町に出て裁縫師として働きたいという夢も棄てて母に奉仕してきたことも充分にわかっていた。だが母が自分で歩けるというのなら話は別だ。自分がここに縛られ続けるのはもうまっぴらだ、とヴァレリーは感じた!
ヴァレリーは初めて自分の想いを強い口調で母に告げる。定期便のバスが四つ辻にやってきた。あれに乗って自分もこの家を出てゆくのだ! 母には金があるのだから、今後は隣人にでも世話を頼めばよいことだ! ヴァレリーは荷物をまとめ始めるが、そのときちょうど客が来て、ヴァレリーは店でひとつの瓶を手に取った。そのとき彼女は驚愕して「ありえない……」と呟いた。母はあることを医者から禁止されていたはずだ……。
バスが出ようとするその直前、ヴァレリーは再び母と対峙する。そして彼女の人生は……。
実に苦い読み味の一篇である。「四つ辻」の舞台というとメグレものの初期傑作『メグレと深夜の十字路』(1931、第6回)を思い出すが、あちらは「十字路、交差点(carrefour)」であるのに対して、こちらはQuatre-Bras、「4つ腕」であり、いっそう不穏な感じを読者に与える。
シムノンの短篇ではこのように自立したいと願う薄幸の女性が、思い描いていた自由を手に入れようとする寸前に、それでも因習に囚われ自壊してゆく、という物語がよく繰り返される。これがシムノンの女性に対する偏見といえるのかどうかはわからないが、少なくとも彼女らはもとからの悪人ではなく、同情の余地を残している。本作も「ヴァレリーは出てゆく」というタイトルがあまりに残酷で、もの悲しい。
ある朝のこと。4歳を少し過ぎた少年ドゥドゥ(本名エミール・ブーテ)は1歳下の友だちコルビオンとパルツール通りで遊んでいた。牛乳売りの女性が通りの端にいて、そしてドゥドゥはニコラおじさんが角を曲がってやってくるのに気づいた。
ニコラおじさんは家のなかに入り、ソフィー母さんと台所で何か相談事をしている。ドゥドゥは外から立ち聞きした。なんとおじさんによれば、保険会社に勤めているはずのシャルル父さんが、実は2年も前に退社していたというのだ。
父さんは今日も朝から会社に行って、昼には食事をするため家に戻ってきた。ふだんとまったく変わった様子はない。父さんはもう一度会社に行って、そして夜に戻ってくるのだ。学校で父親はどんな仕事をしているのかと訊かれたときは、保険会社の部長ですと答えなさいと教えられてきた。父さんはときどき会社のバスティアン社長からもらったお土産を持ち帰ってきてくれる。父さんはもう15年もバスティアンさんの会社に勤めているはずなのだ。
母さんは昼食を摂って出ていった父さんの真意がわからず、ひとり涙をこぼす。「お父さんにはわたしが泣いたことを絶対にいわないでね。あなたにはまだわからないわ」とエミールはいい含められた。母さんは決してわが子を渾名では呼ばないのだ。
しかしその後、ニコラおじさんが警察署長を連れて再びやって来ると、事態はもはや冗談ではすまされなくなった。父さんを尾行した刑事は、父さんが会社には行かずビリヤード場で時間を潰しているのを確認した。また出張と偽った数日の外泊時には、パリで車を乗り回していることもわかった。新聞に「新しい信号システムが稼働開始」という見出しの記事があり、そこに載っているグラン・ブールヴァールの交差点の写真に、オープンカーに乗った父さんの姿が映っていたのだ。新聞を見てエミールはすぐにわかり、署長さんたちに説明した。写真に写っている人は馬蹄型のネクタイピンをつけている。これは1年前に父さんが社長さんから贈られたものだったはずなのだ。
つまり写真の人物は父さんであり、父さんは馬蹄型のピンを自分で買ったことになる。パリでの生活費や車はどうやって工面しているのだろうか。
署長さんたちは家で父さんの帰りを待つという。エミールが外にいると、帰宅中の父さんを見つけた。車のことを訊くと父さんは驚くので、パパのネクタイピンですぐにわかったとエミールはいった。父さんはエミールに、どこかへ遊びにいって来なさいと勧めたが、エミールがそのとき思い出したのは、日曜日に父さんと菓子屋に行って、サントノーレという伝統菓子や、何でも好きなものを買ってもらえたときのことだ。「しーっ、母さんには内緒だよ」と父さんはサントノーレと同じくらい伝統的にいうのだった。
家に戻った父さんは、ついに白状した。
息子のエミールを喜ばせたくて、父さんは以前から売上のうちごく少額をくすねて、お土産の購入費に使っていたのだという。そしてあるとき社長のバスティアン氏が何度目かの親族遺産を相続することになり、その整理を父さんが担当したのだが、そのとき目録にない株や債券を相手宅で見つけて、こっそり1枚持ち出してしまった。その元手でくじが当たり、50万フランの金が手に入ったのだという。自由に暮らしたいという以前からの希望が膨らみ、だから退屈な仕事をやめたというのだ。しかし金の使い道も時間の潰し方もわからず。ひとりで愉しむためにビリヤードをするほかなかったのだと……。
母さんはパリに別の女の人ができたのではないかと心配したが、それはないと父さんははっきり答えた。しかし車を事実上盗んだりと節度のない暮らしをしていたことは事実だ。父さんは皆に謝り、そして署長さんとともにどこかへ出ていった。去り際に父さんは「さようなら、息子よ!」と声をかけた。
なぜ父さんの会社の社長さんが、いつもエミール好みのお土産を知っているのか、ようやく理由がわかった夜でもあった。
エミールと母さんは引っ越した。列車に乗って別の町へ行き、貧しい生活を送った。1年、2年が過ぎたある日、学校の出口でエミールは短い髭を生やして悲しい目をしている男と出会った。
「わからないかい?」
「パパ……」
そして一家はまた引っ越しをした。それでもまだエミールは、人から父親の職業を訊かれたときは保険会社の部長と答えた。
ときおり父さんと母さんは喧嘩をしている。しかしいまもエミールはパスツール通りの朝の光景を思い出す。いまでもエミールは父親は保険会社の部長で車も持っていたと他の人たちに誇らしげに話す。そして日曜日には父さんといっしょに菓子店に行って、慎重にサントノーレを選ぶのだった。
「大人になったらわかるさ!」と父さんは繰り返しいったものだ。
この短篇についてはオチまですべてあらすじを書いてみた。最後の一行がとても素晴らしく、そしてここを紹介しなければ本作のよさは伝えられないだろうと考えたためであり、ご了承いただきたい。
本作にはシムノンの特徴が凝縮されている。〝いつもの街角〟から物語は始まり、しかしそのディテールは要を得て印象深く、子どもと大人の違いがまずは浮き彫りになる。父親はこう告白する。
「わかりますか、私は違う生活がしたかったわけじゃない。ただ少しだけよい暮らしがしたかった」
母親は夫の二重生活に裏の理由があるのではないかと勘ぐるが、父親の弁明は極めて単純だ。彼はアルセーヌ・ルパンのように別人を演じて二重生活のスリルを愉しみたかったわけではない。他に女がいたわけでもない。「いつも話題にはするけれど買えないものを手に入れたかった」──思いがけない大金を手にした彼が望んだのは、そんなありきたりのことだった。
それでも彼は金の使い道を知らない。「朝がいちばん辛かった……。何処に行けばいいのかわからなくて……。カードゲームの相手も見つからなくて……」自由が手に入ったのに、彼は毎朝起きることがもっとも辛かったと述べるのだ。その日一日をどうやって過ごせばよいのかわからない。機械的に退屈な仕事をしていたときは日課があったのに、あぶく金を持ったいまは、自分のやりたいことが見つからない。人間は誰でもロボットのように生きる方が楽なのだ。
母親と父親では息子エミールにかける言葉も違う。泣いたことを隠すために母は「あなたにはまだわからないわ」と教え諭す。しかし父親は日曜日になると息子と散歩し、その足で菓子店に行って、こっそりと菓子を買い与える。そのときの台詞は「しーっ、母さんには内緒だよ」であり、そして最後の一行でこういうのだ。「大人になったらわかるさ!」と。
母親は4歳の息子に「(子どもの)あなたにはまだわからないわ」と告げ、おそらく刑務所に入っていた父親は、同じ息子に「大人になったらわかるさ!」という。この対比が短篇全体のトーンを形づくっている。この感覚、とてもよくわかるのではないだろうか。そしてさらにつけ加えるならば、本作でもラスト寸前に時間と場所が大きく飛ぶ。一気に1年、2年が経って、登場人物は年齢を重ね、そして思いがけない再会と反復がある。息子のエミールがいまも思い出すのはパスツール通りの朝の光景であり、牛乳売りの女性が通りの端にいて、ニコラおじさんが角を曲がってやってくるのが見えるのだ。
最近、BSテレビで短篇映画の特集をやっていて、面白いので毎回観ている。15分ほどのショートフィルムには、長篇作品では表現できない切れ味の鋭さや、かえって長く続く余韻がある。シムノンの短篇は15分のショートフィルムがふさわしい。少し人生が豊かになるのではないだろうか。
バスター通りでロモン夫人が敷居の階段と家の前の舗道を洗い終える。警官が各家庭を回って、敷石の間の雑草を抜くようにと注意を促す。3人の子どもたちの遊びが始まった。いちばん上はアルベール5歳、次は女の子ルネ4歳、いちばん年下の男の子はビロと呼ばれている。3人の子たちは舗道にしゃがみ込み、ひよこのような格好で大仕事に取り組んでいた。マッチ棒の先で敷石の間の溝を掘り、ロモン夫人が洗い流した水を運河のように導く遊びだ。
最後にひとり残って溝掘りを続けていたビロの前に影が立った。見上げるとそこにいるのは先日通りの2階に母親と越してきたサンドロンという青年だ。実際はまだ15歳だが、ビロにとってはとても大きな男に見えた。
サンドロンは多機能ナイフを見せて、悪魔のように囁いてくる。そのナイフは壁に穴を空けられるのだ。さらに彼は虫眼鏡を取り出して、ビロに新しい遊びを教え始める。靴紐の切れ端を敷石の溝に置き、虫眼鏡で光を当てると、靴紐は火を熾すというのだ。マッチを使えばいいのに、とビロは思ったが、サンドロンは悪魔的にいうのだ。「マッチがいつもあるとは限らないだろう。囚人になることだってある……」と。
実際、虫眼鏡の光を当てると、靴紐の火種からは薄い煙が立ち始めた。「誰に教わったの」とビロが尋ねるとサンドロンは答えた。「秘密警察の人たちにさ」「きみも秘密警察なの」「誰にもいっちゃ駄目だぞ」「秘密警察って何をするの」「穴を空けて、監視するんだ」「誰を監視するの」「みんなさ。たとえば、おまえの名前はバスティアンだ。おまえの父さんはシャルル・バスティアンで、どこで働いているかも知っている。リベルテ通りの、ロッジア[註:屋根つきのバルコニー]のある大きな家さ」
「違うよ。父さんはサン・レオナール通りのデュカテルさんのところで働いているんだ!」
ビロは反論した。しかしサンドロンが意見を曲げることはなかった。
「へえ! 昨日も6時15分にリベルテ通りのロッジアのある家から出てくるのを見たぜ。おれの方が、おまえの父さんが何をしているのか知っているのさ」
その夜、ビロは帰宅した父親に無邪気に尋ねた。だがそれを聞きつけた母親は怒り出した。夫がいささか治安の悪い通りの、しかも女が客を連れ込んでいるという噂の家に入っていったことになるからだ。それにその日は保険会社の社長デュカテル氏の誕生日で、社員は毎年社長に美術品を贈る代わりに、氏は社員にお礼のプレゼントを渡す。子どものいる社員ならチョコレートが贈られる。夫はそのチョコレートを家に持ち帰らず、リベルテ通りの女の家に置いてきたことになる。
そしてある日、家の前に車が止まり、作業服を着た男たちがやってきて、家具を運び出してゆく。ビロの新しい住まいは町の中心街に近い別の地区で、周囲はうるさく、前の通りは狭い。もう友だちといっしょに、ひよこのように遊ぶことはできないのだ。ビロはもうすぐ学校に上がる。両親は離婚しなかったが、ふたりの関係性は変わってしまった。母親はやがて近隣の婦人たちと仲よくなって、よく連れ立ってケーキを食べに行くようになった。年月が流れ、ビロは成長し、声変わりもして、高校生になった。ある日久しぶりにルネと会った。聞くとあのサンドロンは、いまでは車椅子の母親の面倒で苦労しているという。あんなに大きくて悪魔的だったサンドロンが、もう悪魔には見えないというのだ。
17歳になっても彼はビロと呼ばれていた。友だちに誘われて女性のいるカフェに行った。彼が払うことになっていたが金がない。仕方なく彼はデュカテル氏の事務所の向かいで待った。やがて父が仕事を終えて出てきて、ビロは素直に無心した。事情を聞いた父親はすぐに150フランを渡して息子にいった。「母さんには絶対にいうなよ。母さんには理解できないだろうから」
息子と父は、並んで歩いた。そこで初めて息子はあのときなぜ父さんがロッジアのある家に行ったのかを知ったのである……。
これまで本作の仮題を「ちびっこ三人のいる通り」としてきたが、実際に読み直して、タイトルを変えてみた。3人の子どもたちが実際にひよこのような格好で舗道の溝掘りに夢中になっているという設定が面白いので、タイトルにもそれを活かしておきたいと考えたためである。
先の短篇「馬蹄型のピン」から続けて読むと、本作が変奏曲のひとつであることがわかる。多くのモチーフが重複しているが、ひとつ階段を上がった感覚を覚える。終盤で時間と空間は前作以上にすばやく飛んでゆき、4歳に満たなかった息子は17歳となって、女性のいるカフェに行くような年ごろとなるのだ。ラスト近くの息子と父との会話は、「馬蹄型のピン」のときよりいっそう大人のものになっている。女性に会いに行くという大人の男の性質を、互いに理解した者同士の会話として、彼らは母親の前では話せないことを話す。次の一文が挿入されているのが「馬蹄型のピン」との違いだ。
初めて、ふたりは男同士として向き合っている。
その会話は決して下卑たものではない。父親がこれまで話さなかった当時の真相も、17歳のビロが聞けば充分に納得できるものだ。
そうしてふたりが家の敷居の階段を上がると、母親のつくったポロネギのスープの匂いが漂ってくる。食卓は準備ができていた。バスティアン夫人は帰宅したふたりの男たちを見て、スープ皿に注ぎながらいった。
「息子にどんな悪い助言をしたの?」
本作はもちろん、ここで終わってもよい。父親と母親の対比が見事だ。スパイスの利いた小品として読者は満足できる。しかし作者シムノンはさらにほんの少し文章をつけ加えた。父親は息子にほとんどわからないほどのウインクをして、ナプキンを広げながらこう呟いた。
「偶然会っただけさ。そうだろう、ビロ? ラテン語の訳について話していたんだ……」
ああ、オチまで明かしてしまったが、これぞ短篇。素晴らしい一篇ではないだろうか。
瀬名 秀明(せな ひであき) |
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1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。 《月刊星ナビ》で2025年3月号より「オリオンと猫 野尻抱影と大佛次郎物語」を連載中。 ■最新刊!■ |
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