・La rue aux trois poussins, Presses de la Cité, 1963(1963/10/20) [原題:ちびっこ三人のいる通り]中短篇集 ▼収録作 1. La rue aux trois poussins « Gringoire » 1941/7/11号(n° 657) 1940執筆 2. Le comique du Saint-Antoine « Gringoire » 1940/1/18号(n° 584) [《サン゠タントワーヌ号》の喜劇]1939執筆(ニュル゠シュル゠メール(シャラント゠マリティーム県))(第105回) 3. Le mari de Mélie « Toute la vie » 1941/8/3号(n° 3) 1941執筆 4. Le capitaine du Vasco « Gringoire » 1940/2/15号(n° 588)[《ヴァスコ号》の船長]1939執筆(同)(第105回) 5. La deuil de Fonsine 未発表 「フォンシーヌの喪」 6. 1945/1執筆 『メグレとしっぽのない小豚』(1946)収載の同題作、また『Le bateau d’Émile』(1954)収載の同題作と同じ。後年の再刊では割愛。 7. Le crime du Malgracieux « Gringoire » 1940/4/25号(n° 598) [無愛想な男の犯罪]1939執筆(同)(第105回) 8. Le docteur de Kirkenes « Gringoire » 1939/12/21号(n° 580) [キルケネスの医者]1939執筆(同)(第105回) 9. La piste du Hollandais « Gringoire » 1941/6/27号(n° 655) 1941執筆 10. Les demoiselles de Queue de vache 未発表 1941執筆 11. Le matin des trois absoutes « Gringoire » 1940/3/21号(n° 593)* [三度の 12. Le naufrage de l’armoire à glace « Gringoire » 1941/4/3号(n° 643) 1941執筆 13. Les mains pleines « La Patrie » 1945/7/7号(n° 39) 1945/3執筆 14. Nicolas « La Revue de Paris » 1945/6/3号(n° 3)(L’homme à barbe) 1944/1執筆 『十三人の被告』(1932)収載作とは同題の別作品 15. Annette et la dame blonde « Pour Elle » 1941/1/1-1941/2/5号(n° 21-26)(全6回) 1940秋執筆 ・Tout Simenon t.12, 2003/1(t.4収載の[5]を除く) Nouvelles secrètes et policières t.2 1938-1953, 2014/8 ・Nouvelles introuvables 1936-1941 [稀覯短篇1936-1941] |
前回(第107回)も述べたように、第二次世界大戦が始まりパリが占領される前後から、シムノンは作家としてその活動に大きな変化を余儀なくされることになったようだ。速筆とはいえ気力を溜めて集中的に書き下ろすロマン・デュールのような長篇は書きづらくなったのだろう。また契約先のガリマール社も以前のようには次々と書籍を出版してはくれない状態だった。
このときシムノンには妻だけでなく息子を含む「家族」があった。もはや自分ひとりの身ではない。日々の生活費や食糧を確保するとともに、家族の生命の安全を考えなければならない。そうしてシムノンはいくつかの決断をすることになる。ひとつ、より安全な場所へ疎開すること、ひとつ、長篇ではなく紙誌掲載料が早めに手に入る中短篇の執筆に注力し、また映画の原作権を積極的に売って、戦時中であっても金銭に困らないよう努力すること、そしてもうひとつ、いつ自分が死ぬかわからないのだからどうしてもこれだけは書き遺しておきたいと思うおのれのなかの記憶、自分を形成した血族の物語に向き合い、その小説を完成させること、である。
1940年にシムノンはかなり多くの中短篇を執筆し、それらの多くは《グランゴワール》誌に掲載された。また2回も引っ越しをした年でもある。シムノンはこの年の夏まで、住み慣れたニュル゠シュル゠メール(シャラント゠マリティーム県)に留まっていたのだが(『帰らざる夜明け』(第106回)執筆のころまで)、8月にヴヴァンのフェルム゠ムーラン・デュ・ポン゠ヌフという農場(ヴァンデ県)に移り(『ベベ・ドンジュの真相』(第107回)執筆のころ)、さらに秋になると同じく中立地帯のヴァンデ県内だがより奥まったフォントネー・ル・コントへと引っ越しをした。そして戦争が終わるまでその場所で暮らすことになる。
この時期の中短篇は、どのような事情だったのかわからないものの、最終的な収録先はまちまちであった。大きく分けて次の3つがある。
・中短篇集『Le bateau d’Émileエミールの船』(ガリマール社、1954)に収録 ・中短篇集『La rue aux trois poussinsちびっこ三人のいる通り』(プレス・ド・ラ・シテ社、1963)に収録 ・『Tout Simenonシムノン全集』第22巻の「Nouvelles introuvables 1936-1941」(稀覯短篇1936-1941)(プレス・ド・ラ・シテ社、1992)にまとめて収録→オムニビュス社版の『Tout Simenonシムノン全集』第22巻2003に移行 |
シムノンの原稿は、いつどこで書かれたものであるかが保存用の封筒などに書き遺されており、後年の研究者によって調査され、現在出ている全集や選集には判明した範囲で各作品の執筆時期と執筆場所が記載されている。そこで今回は1940年の夏まで、すなわち疎開する前、海に近い避暑地ニュル゠シュル゠メールで書かれた短篇のうち、『ちびっこ三人のいる通り』に収録された[10]と、「稀覯短篇1936-1941」にまとめられた[7-10]の計5篇を読んでゆくことにする。『エミールの船』に収録された残り5篇は次回に取り上げる。
その朝、11歳の少年ジョルジェは目覚まし時計が鳴る前の午前5時半にベッドから起き上がり、まだ寝ている両親を起こさないようそっとアパルトマンを出た。空はまだ暗い。病院を併設する修道院の児童聖歌隊員になって2年目の冬である。少年は寒さを堪えながら早足で街路を行き、コングレ広場を過ぎ、パストゥール通りを抜けて、もうすぐ修道院だというそのとき、突然後方から迫ってきた男に肩を摑まれたのだった。
「おい、きみ! 聞いてくれ!」
「殺さないで……」
少年は怯えた。男の手が食い込んで痛い。男はこの3日間、少年がここを通るのを見ていたのだという。そして唐突に「何か贈り物があるとしたら何がほしい?」と訊いてきたので、咄嗟に少年は「自転車」と答えた。
男はたったひとつの願いごとを少年に伝えた。病院の礼拝堂に入る手前の扉の閂を、内側から引いておいてほしいのだという。「引くと誓え」とすごまれて少年は恐ろしさのあまり「誓います……」と答え、懸命に走って逃げた。病院の時計は5時55分。いつもより2分遅れての到着だった。礼拝堂に入る直前、少年の脳裏に「閂を引いておいてくれ」という男の声が谺した。
世話係のアドニー修道女に急かされて、少年はまず聖具室へ向かい、衣服を着替える。今朝は珍しく聖水散布〔灌水器に入った聖水を、司祭が灌水棒で振りかけるキリスト教の儀式〕が3回もあるのだとアドニー修道女はいった。1回の散布あたり児童聖歌隊員は3フランもらえることになっている。3回なら合計9フラン! いつもなら大喜びするところだが、この朝に限ってジョルジェ少年は男との誓いが恐ろしくて気が気ではない。ふだんなら決して間違えないような手順を間違えてしまう。
最初は担架に乗った患者で、次とその次は遺体が収められた棺だ。生者と死者では児童聖歌隊員が身につける衣服の色も違うし、歌うべき聖歌も違う。最初の聖水散布が終わって患者たちが帰り、そこでひと休みして、アドニー修道女からお腹が空いていないか、チョコレートを食べるか、と訊かれたころから、ようやくジョルジェは落ち着き始める。続いて棺が運ばれてくる。
「Pater Noster〔天にまします我らの父よ〕……」
とジョルジェはオルガンに合わせて歌う。ラテン語の歌詞を少年は暗記している。ここが彼にとっていちばん好きな瞬間だった。そして次の棺にも聖水散布が終わり、ジョルジェは9フランをもらい、いったん家に戻ったが、早朝に出会った男のことは母親に話せなかった。しかしどうしても誰かに話したくて、ジョルジェは級友のギャレに「ぼく、自転車をもらうんだ!」と学校で話した。
そしてその日の授業が終わり、ジョルジェ少年が家に戻ると、そこにはまだ包装紙で包まれた自転車があったのである。両親は困惑していた。いったい誰からの贈り物なのか。カイロに移り住んだマチルダおばさんが、ジョルジェの初聖体拝領の記念に贈ってくれたのかもしれない。ジョルジェにはそれが誰からの贈り物かわかっていたが、両親はマチルダおばさんからだと勝手に納得し、ジョルジェにお礼の手紙を書きなさいといいつける。もちろんマチルダおばさんは自転車のことなど知らないと後日返信してきたが、両親はそれもおばさんの気遣いなのだろうとやはり勝手に納得したのである。
ところでジョルジェの父には家族の皆に新聞を読んで聞かせるという習慣があった。三度の聖水散布があったその翌日、父親は奇妙な記事を発見して皆に読み上げた。数日前に銀行強盗があり、少なくとも3人の共犯者がいたはずだが、警察はそのうちひとりしか捕らえることができず、その男は病院で胸膜炎にかかって死亡した。ちょうどジョルジェが聖水散布した棺のひとつがその男の遺体だったのだが、葬儀の間に何者かが病院の遺体安置所に忍び込んだらしい。強盗犯の遺体から左の靴だけが盗まれて消えていたと後でわかったというのである。亡くなった犯人は共犯者のことをひと言も語らなかったが、その靴には警察が必死に聞き出そうとしていた秘密でも隠されていたのだろうか──。
そして年月が過ぎ、少年は18歳になっていた。父親は亡くなり、マチルドおばさんは不倫した夫と別れてフランスに戻り、貧困のなかで暮らしていた。母親とふたりで台所にいるときおばさんのことがふと話題に出て、彼は自分の少年時代のことを思い出す。だが、そうしたところで何の意味があるというのだろう?
「何でもないよ、お母さん……。ぼくは……」
あの自転車はいまでは錆びて、彼にも弟にも小さすぎた。彼は大人用の自転車に跨がって仕事へと向かった。
短篇ミステリーのアンソロジーを編む機会があればぜひとも収録したい一篇である。ふだん短篇ではいまひとつ冴えないシムノンだが、これは傑作のひとつといってよいのではないか。未訳のままなのは惜しいと感じるほどだ。《ハヤカワ・ミステリ・マガジン》編集部はいますぐにでも私・瀬名に連絡して、本短篇の初邦訳を掲載するよう調整すべし。
本作の発展型が後に『メグレと無愛想な刑事』の一篇として発表される「児童聖歌隊員の証言」だ。読み比べると、ひとつの物語を少年側とメグレ側から書いた表裏一体の2作品として楽しめることがわかる。だが本作の方はもっぱら少年の心理と動きに描写が限定され、しかも礼拝堂での儀式が細かく記されるので、キリスト教小説として崇高な読後感をもたらしてくれるのが素晴らしい。
シムノン自身、少年のころ児童聖歌隊の一員であったことが知られており、本作はシムノンの少年期の思い出が作品に昇華されたものと考えてよいだろう。そしてシムノンは自分が児童聖歌隊員であった経験を、自分のアイデンティティのルーツとして、ずっと大切にしていたようである。最晩年の《口述録》シリーズには『Je suis resté un enfant de chœur私は児童聖歌隊員のままだった』(1979)という一冊があるほどだ(未読)。
メグレものとして書き直された「児童聖歌隊員の証言」は、メグレと少年の交流が主体となったために、少年がふだん礼拝堂でどのようなことをしているのかという記述がごっそりと削られており、本作が持っていた奇跡のような美しさは残念ながら味わうことができない。本作では祈禱の部分はすべてラテン語で記され、作者シムノン自身が実際にラテン語で歌い、それらを暗記していたことも伝わってくる。そしてもっとも大きな違いは、本作では最後に大人になったジョルジェが読者の前に現れることだ。シムノンはしばしば短篇作品で、主要な事件を記してから最後のほんの1ページほどで、数年後の関係者の様子をすばやく素描し、読者にもうひとつの感慨を瞬きのように与える。このあっという間の鮮烈さと深く余韻の残る哀愁が、本作では実に見事に効いている。
改稿された「児童聖歌隊員の証言」でも〝なぜ〟〝どのようにして〟共犯者が遺体に細工したのか、よくわからないまま終わるのだが、本作の謎はもっとわけがわからない。なぜ銀行強盗の共犯者が遺体の靴を片方だけ盗んでいったのか、その理由はまったく明かされないまま終わるからである。それでも少年期のジョルジェにとってこの共犯者はクリスマスのサンタクロースのように、彼の望みを叶えてくれる奇跡の人だった。すなわち少年期のジョルジェはその日、奇跡と出会ったのだ。クリスマスの時期とは記されていないが本作は正しきクリスマスストーリーなのである。ならばシムノン独特の曖昧な書きぶりも、今回ばかりはすべてがよい方向に働いている。こうした物語に野暮な理由づけなど必要ないからだ。それでいてまるで実話のように読めるではないか。
改稿版の「児童聖歌隊員の証言」は、後に3篇のミステリーをまとめたオムニバス映画『Brelan d’as(エースのスリーカード)』(日本未公開、1952)として映画化されたが、尺が短くストーリーも単純化されていてさほど面白くはない(詳しくは「児童聖歌隊員の証言の回で取り上げる)。だが子役の少年だけは素晴らしい。もしもオムニバスではなくシムノンの原作だけで一本の映画にしていたら、奇跡の名作となったかもしれない。
舞台はフランス北西部の港町、シェルブール。大西洋を横断する客船の乗客で賑わう《二大陸》ホテルでは、3週間前から奇妙な老夫婦が宿泊費も払わずに居座り、支配人夫妻や従業員たちは困惑していた。彼ら老夫婦はどこかの農民だったらしく、列車を乗り継いでこの港町にやって来たのだが、フランス語が話せず、どこの国の者かも判然としない。どうやらアルバニア人らしいとまでは見当がついたが、誰も会話のできる者がいない。その日も老夫婦は早朝に到着した《マジェスティック号》まで出向いて降客のなかに誰かを捜し、そして落胆して帰ってくる。
ホテル側はもう支払いを待てないと考え、とある船長を見つけて通訳に入ってもらい、ついに老夫婦とわずかに意思疎通することができた。夫妻が財布から取り出した紙片は1万ドルの小切手だというではないか。これを換金してホテル代に替えたいというのだ。自分たちには裕福な息子がおり、先日アメリカに滞在するその息子から手紙と小切手が届いて、数日中にシェルブールに寄港して迎えに行くから港で待っていてくれといわれたのだ、と主張する。息子は裕福なので、いますぐホテル代がほしいならこの小切手を割安で買い取ってくれないか、との話であった。
半信半疑の支配人は老夫婦を銀行へ連れてゆき、小切手を確認してもらった。なるほどこの小切手は本物らしい、だが手続き上に問題があって、この小切手はニューヨークでないと換金できないのだという。ならば老夫婦はいますぐホテル代を支払うことはできないのだ。
翌朝、アメリカからの大陸横断船《イル・ド・フランス号》がシェルブールに到着した。その一等室の乗客が姿を現すと、ついに老夫婦は歓喜の声を上げて手を振った。男も両親に気づいて手を振り返す。その男、ジャン・フルチこそ、老夫婦が待ち焦がれた息子であった。
ところが下船するやいなや、フランスの検査官2名が現れてジャンを逮捕し、親子で喜びの抱擁を交わす時間さえなく連れ去って行ってしまう。翌日の新聞で支配人夫妻は驚く。老夫婦の息子ジャン・フルチはアメリカで暗躍する有名な阿片密売人のひとりだが、明確な証拠がなくアメリカ国内では逮捕できずにいた。しかしフランスに足を踏み入れたならばその瞬間にフランスの法律下で逮捕できる。こうして男の逮捕劇が港で敢行されたという次第なのであった。
老夫婦は雨のなか、ポーターによってホテルを追い出されていた。しかし支配人夫妻は待てよとひとつのアイデアを思いつく。彼らは1万ドルの小切手をいまも持っている。フランスでは換金できないが、いま安く買い叩いておけば、いつかニューヨークへ渡って、まるまる1万ドルを入手できる……これは魅力だ。
支配人夫妻は急いでホテルの軒先で途方に暮れる老夫婦のもとへと駆けつけ、慇懃に詫びを入れ、ポーターに指示を飛ばし、ふたりを食堂へ連れて行くのであった。
「荷物は全部なかに戻せ! 12号室へ運べ! さあ、お入りください……こちらの手違いでして、申し訳ありません……。さあ、フルチ様ご夫妻の席はどうなってるんだ? 窓際だよ!」
映画ファンなら誰でもその名を『シェルブールの雨傘』で知っている北の港町が舞台である。時代背景は本作が書かれたそのとき、すなわち戦時中と思われるが、このように大陸間の客船はまだ運行していたのだろう、シェルブールにはアメリカからだけでなくイタリアやドイツからも毎日のように客船が到着していたことが記されている。
ひとつおやっと思ったのは、ホテルの食堂で皿洗いとして働いているヤルコという男がユーゴスラビア人だと紹介されていたことだ。坂口尚の名作『石の花』に描かれたようにユーゴは第二次大戦中とても厳しい運命を辿ったのだが、フランスに滞在していたユーゴスラビアの人たちは生活できていたということだろうか。『帰らざる夜明け』『帰らざる夜明け』(第106回でも主人公の男がユーゴから来た人だと勘違いされる描写があり、戦時中の作品になってからユーゴスラビアのことが書かれるようになったのは、心に留めておく必要がある事案だと感じた。
たわいもない結末であるものの、戦時中のひとつのスケッチと捉えることができるのだろう。シムノンが《グランゴワール》誌に寄稿していた短篇は、1939年まで異郷の地を取り上げたものが続いていたのだが、ここへ来てフランス国内へと舞台が移り、しかも庶民に焦点を据えたペーソス漂う作品へと雰囲気が変わっている。戦争の出てこない戦争時代の小説である。
17歳の青年ジョゼフ・アルシャンボーは、その麦わら色の髪からカナリアと渾名されていた。彼は勤め先の銀行で上司に叱られ、さらに支配人からも父親と比較されて蔑まされるに及んで、ついに我慢の限界に達していた。
彼はフェラーリというイタリア人が営むバーでペルノーを何杯も飲んで酔い、しかし金の持ち合わせがなく、家で両親と喧嘩になる。彼は父親の寝室からリボルバーを持ち出し、親を罵倒して夜の街に再び飛び出した。
「嫌いだ! 嫌いだ! 嫌いだ!」
ジョゼフは毒づきが止まらない。両親は彼のことを厄介者だと思っている。いつも可愛らしげに芝居してばかりの妹のイヴォンヌにはピアノを買ってやるほど優しいのに、25フランの帽子さえ母の財布から少しずつ盗んでようやく買えたこの自分は、名づけ親であるマルトおばからもらった懐中時計も手放す必要に駆られるほどの金欠で、両親は面倒を見てくれない。だが父親は40年も金物屋の主人をやってきただけの能なしだ。裕福なマルトおばに比べたらまるで冴えない人生なのに、自分だけは200フラン以上もする海泡石のパイプを買い込んでいる。道を歩きながら彼のなかで怒りと憎しみは増幅し続け、もはや誰でもいい、次にばったり出会った奴を銃で殺そうとすら考え始める。
そして憤怒が沸騰したそのとき、彼は目の前に現れた人影に引き金を引いた。だが発砲音が鳴らない。それどころか彼は相手に取り押さえられる。相手は彼の友人オスカーの父親、ルロワ巡査部長であった。その手から必死で彼は逃げ出した。橋を渡り、別の街に彷徨い込み、彼は列車の車輌が並ぶ間に隠れて、追っ手と思われる者たちから身を潜めつつ、いつ車輌が動き出して押し潰されるかと怯えていた。
どうやって辿り着いたのだろう、彼は足を引きずりながらカルティエ・ラタン(学生街)の教会の前で、無料スープの列に並んでいた。夕暮れ時に彼は求人広告の張り出されている店を見つけ、いつしか彼はそのレストランの地下室で皿洗いとして働いていた。ともに雇われているのはポーランド人やスペイン人やロシア人だ。そして彼はセクションチーフとなっていた。
いま、グラン・ブールヴァールとモンマルトルの間にあるブランシュ通りのネオンサインに、「カナリアの店」という店名を見つけることができるだろう。その控えめなレストランは、うまい食べ物と簡素かつ快適な雰囲気で評判だ。海泡石のパイプを吸うドアマンは「カナリア氏」と呼ばれている。客を迎えるのはタキシードを着た「カナリア・フィス(息子)氏」で、レジを打つのは「カナリア夫人」だ。彼女はまるで頭上に災難が吊り下がっているかのように溜息をつく。
確かに、イヴォンヌは道を踏み外した。生まれ故郷で予審判事の愛人となり、おばたちは彼女を見かけると道の反対側に渡らなければならない。
最後の3つの文章は生成AIのClaudeが翻訳したものをそのまま用いてみたが、いかがだったろうか。《グランゴワール》の短篇をフランス国内に移してからのシムノンの文章は、以前に特徴的であった時制の突飛な往来も影を潜め、しかしラストで主人公たちの数年後の運命へといきなり飛んで、こちらに驚く間さえ与えず居合い切りの如くに物語を締め括る。私の経験では、こうした終わり方はジャズ演奏のアドリブに近く、私自身の作品だと「光の栞」(『希望』所収)のようなものだろう。あのラストは自分で書いていながらほとんどその場の直感でタイプしたのであり、深層意識の所産である。つまり書くその瞬間まで作者自身もこんな結末になるとは考えていない、そういうタイプのオチなのである。
若者の内面にふつふつと湧き起こる不条理な憎しみの感情という主題は、シムノン作品のなかで定期的に繰り返し書かれるものであり、たとえば初期の自伝的長篇『赤いロバ』(第38回)などがすぐに思い出される。だからシムノンにとって本作はまさに全篇がアドリフ演奏、即興書きのようなものだったのではないか。髪の色からカナリアと渾名されているとの設定も本編中ではほとんど意味を為さないものだが、その伏線にもならない雑な設定が却ってリアリティを高めているのだ。家族は貧乏だがおばは裕福であるとか、皿洗いとして雇われているとか、海泡石のパイプなど、これまで見てきた短篇と共通モチーフも多い。そしてここでもまた目を惹くのが、皿洗いとなったジョゼフの周りにいたのはポーランドやスペインやロシアといった外国人ばかりであったというさりげない一文だ。これもまた戦時中の一風景だったのかもしれない。記録には残らないが人々の記憶には刻みつけられた、パリのモノクロの一コマであったのかもしれないと想像する。
ここからの3篇は、戦後にイギリスの雑誌《リリパットLiliput》で英訳紹介された短篇でもある。中綴じ形式の小冊子で、表紙のイラストが可愛らしく、なかには書籍の広告が載り、ちょうどイギリスにおける《リーダーズ・ダイジェスト》のような存在だったと思われる。
ちなみにルロワという名の刑事はメグレものにも登場するが(『黄色い犬』(第5回))、同一人物であるかどうかは定かでない。
10月3日、午後2時少し前。いくらか日中も寒くなり、この日マリー・デュドンはその年初めて火を熾した。彼女は夫や幼い子供たちと借間で暮らすごく平凡な主婦で、3か月前から夫が失業したため家計はもはや破綻寸前である。その日も彼女は失業手当を受け取りに出かける手はずになっていた。彼女たちの住処はロリーヴ夫人が家主と務める建物の三階であり、洗濯のときは階段の踊り場を使わなければならない。下から水や石炭を取ってきて、赤ん坊をあやしながら中腰で洗濯をするのは身に堪える。
洗濯場所から中庭とその向かいの家が見渡せる。向こう側は引っ越し業者を営みこの近隣の地主でもあるカシュー氏の邸宅だ。裕福なカシュー氏は少し前に20歳も年下の女性マチルドと結婚したのである。だがその日、マリー・デュドンは邸宅の窓の向こうで、たまたまカシュー夫人が浴室でコップの水に何かの粉薬を溶かしているさまを目撃してしまった。夫人はその後コップをカシュー氏のところに持ってゆき、その水でさらに何かの常備薬を飲ませたのである。そしてそのとき、ふと夫人が顔を上げたため、マリーと夫人は目が合ってしまった。
マリーは急いで隠れたが、戦慄した。あの若い夫人はいずれカシュー氏の莫大な財産を相続するはずだが、それさえ待てずに夫の毒殺を目論み、いま自分はその犯行現場を目撃してしまったのではないか。そして自分が目撃していたことを夫人は知ってしまった! 自分は殺される!
事実、少し経ってカシュー夫人が自分の住む29番地の建物へと向かってくるのが見えて、マリーは急いで想像を巡らす。カシュー夫人は私とさりげない会話をする振りをして、本当に現場を見たのか聞き出そうとするのだろうか? 何か要求をしてくるかもしれない……。だが偶然にも建物の入り口でカシュー夫人はこちらの家主のロリーヴ夫人と鉢合わせしたため、彼女はそのまま帰っていった。
ただしマリーの想像は当たっていた。その夜、帰宅した夫から聞くところによると、カシュー宅から医者が出てくるのを見たという。確かにカシュー氏は死亡していたのだ。貧しいマリーの心に欲望が芽生える。マチルド・カシューを脅せば、いくらかまとまった金を入手できるのではないか。姉は4万フランで小さな家を買ったという。マチルドは何十万フランも相続するのだから、5万や10万を要求しても受け入れるのでは……?
翌日はひどい雨で、夫も職探しには出かけようとしない。マリーは自らカシュー宅へ乗り込んでカシュー夫人と話そうと考えた。しかし出かける身支度をしていると、夫が訝しんで、「買い物に行くならそんな大層な服は不要だろう。雨に濡れて汚れてしまう。ふだんの靴と、雨よけならおまえがいつも使っている肩掛け(ショール)で充分だ」という。怪しまれるのを防ぐため、しぶしぶマリーは夫に従った。ふだんの靴で雨路を行くとすぐに水がなかに浸みてくるので本当は嫌なのだ。
カシュー宅の玄関に着くと、メイドが迎えてくれた。本当にカシュー氏は亡くなり、親族で葬式が執りおこなわれていた。まだ遺体は室内に安置されている。死亡診断書を書いた医師は詳しく検査しなかったのだろう、だが自分がひと言、「カシューさんのご遺体をよく調べてみてください」と告げれば、たちどころに毒殺の証拠が見つかるはずだ。この遺体がある限り証拠は失われることはない。
マリーは夫人との面会を所望する。メイドは戸惑ったが、取り次いで夫人が承諾してきたことにさらに驚いた様子だった。ついにマリーはマチルド・カシューと対面を果たす。金の要求を口にしようとしたそのとき──。
ふとした拍子に形成は逆転した。汚い肩掛けを羽織って雨に濡れたマリーに対して、マチルド・カシューは優越感に満ちた笑みを浮かべたのである。むしろ冷ややかな態度でマリーを圧倒し、マリーの夫が失業中であると聞き及ぶと、亡夫の引っ越し会社で雇えるはずだから明日事務所と訪ねなさいと話を切り上げ、メイドを呼んだ。
「こちらのお客様をお連れして……、ところで、お名前はなんとおっしゃいました? デュドン……」
マリーは惨めな思いで帰宅した。夫のいうことを聞いてみすぼらしい身なりで訪ねたから馬鹿にされたのだ。数日が過ぎ、すでに葬儀は終わっていた。しかしマリーはまだ虎視眈々と機会をうかがっていた。見ているがいい……皆をうまく騙したつもりでも、埋葬された棺に遺体が収まっている限り、掘り起こして検査すれば毒殺の証拠などすぐにわかると聞いたことがある……。今後こそ身なりを整えて相手のもとへ再訪するのだ……。
夫は実際にカシュー氏の引っ越し会社に採用されたのだが、その夜は疲れて帰ってきてマリーに愚痴をいった。まるで重要でない仕事ばかりを押しつけられ、露骨に邪魔者扱いで閉口しているという。そしてふと彼は新聞を広げて呟いた。
「カトリックだと思っていたんだがな……」
「誰が?」
カシュー家だよ、と夫が答えた。遺体は火葬されたと書いてある……。
マリー・デュドンはそれを聞いて青ざめ、つい先ほどまで浮かべていた笑みも消え失せていた。彼女は肩掛けを羽織って石炭を取りに階段を降りていった。家主が待ち受けていて彼女を叱った。「午後に石炭を取りに行かないでとあれほどいったでしょう! 階段を汚さないで!」
いまとなっては、屈辱など些細なこと……!
市井の人々の悲哀をさらりとスケッチした一篇。マリーの夫が3か月失業しているのは戦争のためだろうか。ペンネーム時代にシムノンが書いていたショートコントに近く、オチのあるわかりやすい読み心地だ。
本作は一度、シムノンの書籍に収録されたことがある。ガリマール社が戦後に出したシムノン選集の一冊『ドナデュの遺書』と抱き合わせのかたちで巻末に掲載された。戦後シムノンはガリマール社と関係が悪化し、新作は別の出版社に乗り換え、しかも家族とともにカナダやアメリカへと移住していたのだが、どういう契約が残っていたのか、ガリマール社からはペーパーバック判で1冊あたりロマン・デュール2〜4編を収録した合本シリーズが出ていた。表紙の色は緑で統一されており、『ドナデュの遺書 マリー・デュドンの肩掛け』は第14巻だった。他巻は通常のロマン・デュール長篇をまとめているのだが、『ドナデュの遺書』(第58回)はかなり長い作品なので、巻末に短篇をつけ足してページ数の調整を図ったのだと思われる。
ところで肩掛け(ショールchâle)といわれると私はアルセーヌ・ルパン譚の名作「赤い絹のスカーフL’Écharpe de soie rouge」(『ルパンの告白』所収)を連想するのだが、ショール(シャール)とスカーフ(エシャルプ)はフランス語の単語も別なのであった。
クリスマスが近づいており、パリの店のショーウィンドウでは飾りつけが始まっている。その日、サフト氏は3軒目の医院を訪れていた。1回の診察あたり20フラン。つまりこれで60フランの出費だが、70フランを出して上等な医院を1軒訪れた方がよかっただろうか……。だがサフト氏はすでに医師の診断を聞くまでもなかった。きっとこの医師も、レピュブリック広場の医師やベルジェール通りの医師と同じくこういうのだ。「過度な生活をしなければ、あと6か月は生きられるでしょう……厳密にいえばあるいは1年か……」
「突然やって来るのでしょうね?」
と独り言のように念を押して、サフト氏は医院を出た。自分の運命が終わったかのように感じ、重い足取りでパリの街を彷徨い歩く。グラン・ブールヴァールに辿り着いたとき、ひとりの老人が力なく階段に座り、新聞を売っていた。横の帽子に硬貨を投げ入れて一部抜き取る。老人は反応しない。幼かったころの出来事をサフト氏は思い出した。彼は少年期にワルシャワで暮らしており、町に黄色く雪が積もったある日、同じように老人が座って新聞を売っている前を通り掛かった。だがその老人は目を開けて座ったまま死んでいたのだ。その強烈な体験を思い出して、サフト氏はおのれの死をいっそう実感し、自分が経営する地下出版社の事務所へと急いだ。
彼はいささかいかがわしい表紙の雑誌を郵便販売して生計を立てている。40代のブールセル夫人という事務員をひとり雇っており、彼女はまだ事務所で作業をしていた。死を怖れるあまり、ついサフト氏は、今晩だけ家に来てくれないか、と願い出るが、夫人には怪しまれ、「無理です。家には16歳の息子がいますから」と避けられてしまった。もちろんサフト氏にやましい思いはなかったが、おのれの死が直前に迫っている、しかもそれは突然にやって来るのだと知ってしまったいま、ひとりで夜を過ごす寂しさにとても耐えられそうにない。サフト氏はビアホールやバーを転々とし、閉店になればさらに夜更けまでやっている店へと移動を続けた。ある店で娼婦と目が合ったが、サフト氏が何もしないとわかると女は怒って借り部屋を出て行ってしまった。
早朝、サフト氏は宿を出てタクシーを捕まえ、「ジャヴェルJavel河岸へ」と行く先を告げた。彼は17歳で初めてパリへ出てきたとき、そこの新聞配達所の近くの家で下宿生活をしたのだ。ヴァン・オステン夫人というベルギー人が切り盛りしており、サフト氏自身もポーランド系ユダヤ人だったが下宿人には外国人の若者が多く、夫人の娘のエリザはしばしばボグダノフスキーというロシア人の部屋に忍び込んで、愛し合っている様子だった。その下宿で暮らした5年間でサフト氏は事業の手付金2000フランを貯めて独立したのだ。
周囲の建物は変化していたが、サフト氏はかつての家を見つけることができた。その戸口にいたのはエリザで、話しかけるとすでに母親は亡くなり、彼女は3人の子持ちとのことだった。長女はあのロシア人のボグダノフスキーに似ていた。
まだ生活のために下宿を営んでいるというので、サフト氏はひとつだけ空いていた屋根裏部屋をその場で借りた。そして彼は残りの人生を、この思い出深い下宿でまっとうしようと決めたのである。幸いにして自分には出版社で貯めた金がいくらかある。死ぬときはそれをエリザにやればいい……。
だが思いもかけず年月は過ぎていった。いまやエルザはサフト氏の妻となり、彼のことを〝あんたtu〟と呼び、亡くなったヴァン・オルセン夫人のベッドでふたり寝ていた。そして7月になっても彼はまだ生きていた!
彼が生きたままで、しかも家も手放さずここに暮らすままなら、彼らは貧乏なままだ。「忘れないでくれ、医者はそれが突然起こるといったんだ……」とサフト氏は妻に念を押したが、実際のところ彼女の方が先に死んだ。二年後、乳がんで亡くなったのだ。
葬儀から帰る途中、サフト氏は思案していた。もしかしたら……。
だがそのとき路面電車が彼を巻き込んだ。運転手が驚いて下りてくる。最後の意識のなかで彼は声を聞いた。「私の義理の父です」
こうして、彼は死ねなかった……死ねなかった……ひとりの、運命をまっとうする男として……。
ラストシーンは少し意訳を加えてみた。原文では「comme…un homme qui…
(であるひとりの人間として……)」で終わっており、どのような人間として死ねなかったのかは、息が途絶えて私たち読者に聞こえない。だが本作は皮肉を効かせた一篇であるのだから、おそらくは上記のようなことなのだろう。
本作を読んで驚いたのだが、これはシムノンの実生活からヒントを得て書かれた物語なのであろう。というのもシムノンは戦時中、自宅の庭で幼子のジョンと遊んでいるとき、枝棒で胸を衝かれた。その後も痛みが残ったので地元の医師に診てもらうと、心臓肥大症であと2年の命だと宣告されたのである。この衝撃が彼に回想録を書き遺しておこうという決意をもたらしたと考えられる。
その後、パリで別の医師に診てもらい、最初の医師の診断は誤りだったとわかるのだが、本作「サフト氏の運命」はシムノン自身に降りかかった出来事にそっくりなのだ。
ピエール・アスリーヌの伝記『シムノンSimenon』に拠れば、息子のジョンに胸を衝かれたのは1940年の夏の終わり、ヴヴァンの森での出来事であったという。最初の引っ越し先である。だが本作はニュル゠シュル゠メールで書かれたようなので、前後関係にいくらかの疑問が残る。8月から9月のうちにシムノン一家はヴヴァンへ引っ越しを終えたのだが、その間も何度か一家は往復しており、胸を衝かれたのはヴヴァンでのことだった、ということだろうか。いずれにせよ1940年夏のうちには自分が余命2年だと宣告されていたのだろう。
すぐに誤診だとわかったのかどうか、シムノンの伝記を精査してみないとわからないが、本作「サフト氏の運命」はまさしくその後に起こり得る「シムノン氏の運命」であったのだともいえる。死を宣告されたサフト氏が意外にも妻より生き延び、病気は克服されたかに思えたのに、葬儀の帰り道で路面電車に轢かれてあっけなく死ぬさまは滑稽だが、シムノン自身もある期間は誤診に怯えて過ごしていたのだから、その結末を知っている現代の私たち読者にとってはいっそう皮肉が効いている。
《グランゴワール》誌に掲載された短篇はまだ残っている。次回以降も続けて読んでゆこう。
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・映画『L’homme de Londres』アンリ・ドコアンHenri Decoin監督, フェルナン・ルドーFernand Ledoux, ジュール・ベリJules Berry出演, 1943[仏] ※日本未公開か。 ・映画『誘惑の港(Temptation Harbour)』ランス・コンフォートLance Comfort監督, ロバート・ニュートンRobert Newton, シモーヌ・シモンSimone Simon出演, 1947[英] |
これまで視聴困難だった『倫敦から来た男』(第41回)の映画2作を最近観ることができたので紹介する。すでにタル・ベーラ監督版は本連載第41回で紹介済み。残りはアンリ・ドコアン監督版とランス・コンフォート監督版だ。後者は本邦でも『誘惑の港』のタイトルで公開された。そのときのパンフレットや当時英国で出た映画タイアップ版のジャケットは第41回 【写真2】をご覧いただきたい。
アンリ・ドコアン監督のことは本連載第107回で簡単に紹介した。映画ファンには戦時中のレジスタンス活動を描いた『女猫』(1958)でもっとも知られている監督だが、シムノン原作の映画を多く手がけたことも見逃せない経歴の一部である。『L’homme de Londres』は1943年のモノクロ作品。
3度映画化されたなかではもっともシムノンの原作に近いアダプトである。前後に撮られた『家のなかの見知らぬもの』(1942)や『ベベ・ドンジュについての真相』(1952)がぐいぐいと観客の心を摑んでくるのに比べて、本作はよくいえば原作に忠実、そうでなければいささか個性に乏しい出来映えのように思える。ただし冒頭シーンでNina Carlaが気怠げに歌うシャンソン「L’aventure aime la nuit」は名曲で、CD『Le Chansons du Cinéma』Volume 2にも収められている(現状CDの入手は困難)。彼女は映画のなかでも町女役で登場する。霧深い港町に彼女の歌う姿がよく似合う。
もともとシムノンの原作でも主人公の転轍士マロワンは無口な中年男性だが、彼がしゃべってくれないと話がまるでわからないので、本映画の主人公を演じるフェルナン・ルドーはたくさんの独り言を観客に向けて語り続ける。それがやや不自然ではある。彼には妻と息子がおり、何事にも慎ましやかで、唯一の楽しみといえば決して高級とはいえないパイプをくゆらすことと、近くの酒場《ムーラン・ルージュ》で一杯やることくらいだ。港町の遠景が何度も出てきて、当時の雰囲気がわかりやすく伝わってくる。
主人公マロワンは金の入った鞄を海から拾い上げ、なかに入っている大金に驚き、しかし警察に話すほどの勇気はない。ずるずると鞄を隠しているうちに英国から刑事がやってきて捜査を始め、また鞄を落とした男がマロワンにつきまとってくる。英国の刑事は港のホテルに宿泊して、いったんは犯人を追いつめるものの取り逃がし、やがてはマロワンにも迫ってくる……という筋書きは原作と変わらない。にわか成金の主人公は娘にドレスを買い与え、自分が前からほしがっていた高級パイプにも手を出そうとする。英国の刑事は犯人の家族も連れて来て、犯人を説得させようとするが、居場所がわからない。そんな折り、偶然にもマロワンの娘が海辺の納屋に行ったところ不審人物を見つけ、驚いて戻ってきた。そこに隠れていた男こそ、大金の鞄を探すロンドンから来た男、ブラウンだった。マロワンはひとり決意して納屋へと向かい、相手と決着をつけようとする。
その決意の直前に、マロワンの青ざめた顔がアップで映し出されるのが印象的であるくらいか。俳優フェルナン・ルドーの髪が若干薄いことは主人公マロワンのキャラクターとマッチしているし、納屋での一件の直後、浜辺に打ち寄せる白い波やもくもくと立ち上る雲を映し出すほんの数秒間のモンタージュは、本作のテーマを端的に象徴しているようでもある。
しかし驚いたが、私は原作を何度も読んでいたのに、「はて、結局この話はどうなるのだったっけ」とまるでラスト付近の展開を憶えておらず、どのように映画が終わるのか見当がつかなかったことである。作家の都筑道夫は晩年にシムノンと岡本綺堂は何度でも読めると書いていたが、まさしくシムノン作品にはラストがどうなったのかまるで思い出せないタイプのものが少なからずあるのだ。『倫敦から来た男』はその代表例であり、よって何度でも新鮮な気持ちで楽しめる。単体として読むと『倫敦から来た男』はオチが弱いと感じられるのだが、かえって印象に残らないことが再読を促す好条件となっている。
もうひとつ、戦後の映画『誘惑の港』は、題名だけ見ると性欲を持て余した若い男女が港町で繰り広げる恋の鞘当て、といったイメージであり、実際に映画を観ても途中まではそぐわない題名のように思えるのだが、後半にはその意味がわかってくる。本映画もシムノンの原作を踏襲しているが、いくつか大きな変更がある。まず舞台の港町は英国側であり、主人公マリソンや登場人物がみな英語を話すこと。当時シムノンの『倫敦から来た男』は『>Newhaven-Dieppe』(ニューヘイヴン‐ディエップ航路)という英訳タイトルで売られていたので(Newhavenとは新租界、新しい避難港、の意味。Newheaven=新しい天国、ではないので注意)、ここではニューヘイヴンが舞台のモデルとなっているわけだ。
冒頭でフランスからやってきた船の乗客が、港の男に鞄を投げ渡す。それをマリソンが目撃してしまう。ここまでは原作と同じだが、その後私は少し混乱してしまった。というのもその後マリソンはふたりの男が争っているのを見て、一方が他方を殴り倒して海に突き落とし、その弾みで鞄も海に落ちてしまう。ここまでは原作の筋書きと同じなので、ならば生き残った方は鞄を投げた〝巴里から来た男〟の方だと思いながら漫然と観ていたのだが、この男はホテルの台帳にロンドンから来たブラウンだと書くのである。主人公のマリソンと大金を持っていた男ブラウンの両方が英国人だということになってしまう。これはヘンだ、と首を傾げたのだが、途中でようやく事情がわかった。
〝巴里から来た男〟はもともとイギリス人だった、という設定だったのである。 船から鞄を投げた黒い帽子の男と、受け取ったマフラーの男がおり、このふたりが争って、マフラーの男の方が海に落ちて死ぬ。船でやってきて鞄を投げた男が生き残るのだが、この男はかつてカジノの金を巻き上げていたブラウンで、久しぶりに英国に戻ってきた、ということなのだ。よって〝○○から来た男〟のタイトルは使えなかったのだろう。
もうひとつ大きな違いは、主人公マリソンは若い娘と同居しているのみで妻がおらず、娘と港のカーニヴァルに出かけて「世界最後の人魚」なるものを見せるゲテモノ小屋に入り、そこで人魚の扮装をしてロシアの高貴な家の出身でもあると自称するフランスの若い女性と巡り会う。見世物自体は水の入った水槽からその女性が脱出するという手品なのだが、その後彼女とバーで再会し、次第に親密になってゆく、という原作にない展開が採用されていることだ。この人魚の女性を演じるのがパンフレットの表紙にも大きくポートレイトが描かれたシモーヌ・シニョンであり、もともと彼女はフランス生まれで、とてもわかりやすいフランス訛りの英語をしゃべってくれて、とても可愛らしい。初代の映画『キャット・ピープル』(1942)や『キャット・ピープルの呪い』(1944)にも出演した人だそうで(未見)、本作の見所はほとんど彼女の魅力にある。
彼女が演じるカメリアは、幼いころはフランスに住んでいたが、いつの間にかイギリスに連れられて、サーカスの一員として暮らすようになっていたという設定で、それゆえいつか金を貯めて故郷のフランスに戻り、幸せに暮らすことを望んでいる。彼女は途中からほとんど押しかけ女房のようにマリソンの家にやってきて居着いてしまうのだが、マリソンが大金を隠していると知ると、いったんは警察に届け出ない彼をなじるものの、欲望を抑え切れなくなり、私といっしょに金を持ってフランスに逃げましょう、小さな家を買って幸せに暮らしましょう、と誘惑する。
ランス・コンフォート監督はいわゆる〝B級〟映画を量産した職人だったらしく、本作も後世に残る名画というわけではないが、当時はシモーヌ・シニョンの人気で本邦公開も決定したのかもしれない。評伝も出ている(未読)。
タル・ベーラ監督版を含めて3つの映画すべてがモノクロであるので、どれも雰囲気が似かよって感じられることは仕方がない。だが1回くらいはカラー映画で観てみたい気もする。
瀬名 秀明(せな ひであき) |
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1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。
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