Le Voyageur de la Toussaint, Gallimard, 1941 [原題:万聖節の旅人]
執筆:フォントネー゠ル゠コント(ヴァンデ県), 1941/3
・« Le Petit Parisien » 1941/5/15-8/23号
Strange Inheritance, translated by Geoffrey Sainsbury, PAN, 1958[英]*
・映画 同題 ルイ・ダカンLouis Daquin監督、ジャン・ドザイーJean Desailly、アッシア・ノリスAssia Noris出演、1943[仏] ※日本未公開。
Tout Simenon t.22, 2003 Les romans durs 1941-1944 t.5, 2012, 2023

 ジル・モーヴォワザンは何も見えないなかを見つめていた。泣き腫らした人のように彼の目は赤く、肌はひび割れていた。しかし彼は泣いてはいなかった。
 ソルムダル船長は彼に準備するよう告げ、そして航海中に彼が食事を摂っていた角部屋で待つよう伝えた。ジルは待っていた──彼のものではない黒色の長い外套を着て、黒い川獺の帽子を被り、自分の旅行鞄を近くに置いて、もうすぐ到着する列車をプラットホームで待つような格好で、風邪でハンカチを手にしながら。
 そしていま、ラ・ロシェルの街はまったく姿を見せないなか、トロール船はドックに着いたのだった。ひょっとして舷窓は反対側を向いてしまったのだろうか? 海面では航路を示すのであろう赤と黒の浮標を船が掠めていった。御柳の木々が《フリント号》の船体のすぐ近くを流れてゆき、そして操船が始まった。電信機のベル音、半速、停止、後進、停止、前進……。
 彼はずっとその目で街を探し続けていたが、《フリント号》が係留場のなかで旋回している間、わずかに鉄道の線路や放置されたかのような荷台、それに継ぎ目を錆止め塗料の鉛丹で貼りつけた小船、それに草の禿げた土手や冷凍倉庫しか見つけることができなかった。(瀬名の試訳)

 いやはや参った。シムノンの小説を読むのにこれほど時間がかかったのは初めてのことだ。
 本作Le Voyageur de la Toussaint(万聖節の旅人)』(1941)はシムノンのなかでも長い作品に属する。ご承知のようにシムノンは長篇であってもほとんどは全9章、日本の原稿用紙に換算して300枚程度なのだが、ときおり例外的に長い作品が書かれることがある。これまで読んできたなかでは『遠洋航海』第54回)、『ドナデュの遺書』第58回)がそうで、なかでも『ドナデュの遺書』はシムノン前期の総決算と呼べる勝負作であった。
 長いからいっそう豊かである、とは決してならないのがシムノンのふしぎな特徴だ。読み終わってそう感じたので、実際にどのくらいの長さなのか、オムニビュス社の《ロマン・デュール全集》でページ数を確認してみて驚いた。長い作品とこれまで認識してきた『ドナデュの遺書』は294ページ。通常のシムノン作品は90ページから110ページ、つまり100ページ前後なので、『ドナデュの遺書』は約3倍の分量であり、実際に読んだときの感覚と齟齬はない。『遠洋航海』も254ページと約2.5倍の長さがある。ところが本作『万聖節の旅人』は180ページ、通常の2倍程度の長さであった。実際に読んでみた体感とずいぶん違うので何度も確認したが、間違いではない。作品全体が全3部で構成されているためだろうか、『ドナデュの遺書』と同じくらいの長さがあるのかと感じていたのに、本当はずっと短かったのである。
 これが本作『万聖節の旅人』の奇妙でふしぎな特徴だと思う。全体像がつかみづらい作品なのだ。おそらく原書や英訳版などで過去に本書を読まれた方も、長さは2倍しかないと聞いてびっくりなさったのではなかろうか。本作は非常に細密な文章で書かれており、主人公がその日何時にどこで何をしたかがいちいち克明に記述される。ただし決して文章そのものは難解ではなく、このところ特徴的であったシムノンの曖昧文体もなりを潜め、むしろ珍しいほど機能的で簡明なエンターテインメント的文章で書かれているといってよいにもかかわらず、とにかくひたすら主人公の行動が時系列的に述べられてゆくだけなので、わかりやすいが逆にいえば深みがない、読みやすいがぶっちゃけていえば意外性に乏しい、といった両面性が顕著に浮かび上がってきてしまうのである。
 しかし体感的に非常に長いと感じられるため、その体感的な〝長さ〟が読者のなかで〝文学的充実性〟と過大に(いわば〝盛られて〟)評価されてしまうこともあるらしく、しばしば本作はシムノンの代表作のひとつとして紹介される。また映画化1回、TVドラマ化2回とそれなりに映像化もなされており、未訳ながら名作、傑作と想像されているかもしれない。
 だが本作は先に述べたように、実際には一定の評価を与えるのが非常に難しい作品だと私には思える。読んで良作と思う読者もいるであろうし、何だこれはと消化不良に陥る読者もいるに違いないと想像するためだ。
 もっといえば、大きな決断の前に私たちは立たされることになる──本作はいまなお邦訳して日本の読者に紹介するに足る長篇作品といえるのだろうか? 
 
 本作の主人公はジル・モーヴォワザンという19歳の青年である。彼は生まれたときから両親と流浪の生活をしてきた。ヴァイオリン弾きの父ジェラルドと、ダンスを見せる母エリーズ。父はオーケストラの演奏者を志していたが旅芸人として暮らさざるを得ず、旅先で生まれたひとり息子のジルも町から町へのホテル暮らしを続けてきたのである。だが不幸な事故によって異国の地ノルウェーで両親が亡くなり、ジルはひとり、初めて故郷に帰らざるを得なくなった。しかし金がないためほとんど密航に近いかたちで船に乗り、彼は万聖節の前夜にラ・ロシェルの地へと戻ってきたのである。何かあったらおばのジェラルディーヌを訪ねろと、彼は親からいい聞かされていた。ジェラルディーヌ・エロワは母の姉妹(おそらくは姉?)なのである。
 ジルは父や母がなぜ故郷を離れたのかを知らずに育った。だが故郷に戻って初めてわかったことは、彼のおじ、すなわち彼の父親の兄弟(おそらくは兄?)であるオクターヴ・モーヴォワザンという男が一代でバス会社を興し地元にも多大な貢献をした実業家であり、ほんの4か月年前に亡くなったとき、莫大な遺産を甥のジルに遺したという事実であった。ジルは狐につままれたような気持ちで弁護士や会社の役人たちと会い、オクターヴおじの遺書を見せられ、またおじが遺した奇妙な遺産を受け取ることになる。それは祖父が自室に保管していた金庫の鍵であり、しかしそれを開けるには鍵だけでなく5文字のパスワードが必要だった。その秘密のパスワードは遺産を相続する者なら知っているはずだとおじは考えていたようなのだが、当のジルには見当もつかない。金庫は開かないまま、しかしジルはおじが遺した屋敷に住み着くことになった。遺産目当てで若い彼にすり寄ってくる者も当然ながらいる。だが一方で、ジルは徐々に、おじのオクターヴ・モーヴォワザンが地元の誰からも愛される好人物だったというわけではなく、裏ではさまざまな人間関係のもつれがあり、思惑や憎悪が渦巻いていたようだと理解するようになる。そうした過程でジルはおじの足跡を追い、おじと関係のあった人々と出会って話すことで、なぜおじが死んだのか、その謎を追究しようと考え始める。おじはどうやら毒殺されたらしいのだ……。

 莫大な遺産、開かない金庫、地元に戻った青年の前に立ちはだかる親族や関係者たちの因縁……と、こう書き出せば、まさに後黄金期の本格探偵小説のフォーミュラであり、実際に本作はミステリーとして読み進めることができる。ミステリーだと早々に納得すれば読み心地も軽やかになり、クラシックミステリーが好きな人ならわくわくしながらページをめくってゆけるものと思う。本作はほぼ時系列に従ってジルの見聞きする状況が語られてゆき、またジルの行動によってさまざまな事実が読者の目の前にも提示される構成を採っているので、読者は主人公のジルと一体となって、オーソドックスなミステリーの展開を堪能することができるからである。そこには安心感と安定感がある。シムノンの持ち味は深く掘り下げた心理描写といわれるが、本作においてそうした深い心理の追求はなされないため読みやすい。一般大衆小説、エンターテインメント小説と分類して差し支えのない読み心地なのである。
 技巧を凝らした前作『ベベ・ドンジュの真相』第107回)のような晦渋さや辛気臭さはまったくない。ここまでエンタメに振り切ったシムノン作品は稀有であるといってよいほどであり、その意味で少なくとも筆致に限っていえば、本作は例外的に長い作品であるもののシムノンが第二期(中期)に入ってからときおり手がけてきたミステリー寄りの純粋娯楽作品、すなわち『《テレマック号》の生存者たち』第77回)、『ロニョン刑事とネズミ』第79回)、『反動分子』第85回)などに近い作品と考えてよいかもしれない。シムノン作品でメグレもの以外の人間心理に迫った硬く重々しい単発長編群は〈ロマン・デュール〉と呼ばれるが、本作は決して〝硬く〟ないし〝重く〟もない、意外なことに〈デュール〉ではないのである。
 本作は長いので実にたくさんのことが起こる。関係登場人物も大勢いる。だが物語自体はさほど複雑ではないので怯む必要はない。また本作はシムノンが実際に住んでいたラ・ロシェルやフォントネー゠ル゠コント、さらに近隣のエスナンド、ロワイヤンといったヴァンデ県やシャラント゠マリティーム県が舞台になっており、シムノンがふだん見て馴染んでいたであろう景観が組み込まれているのも特徴のひとつだ。ただし作中の舗道名や河岸名は一部架空のものに置き換えられているようである。
 ラ・ロシェルに着いたジルは、まず港の〈バー・ロレイン〉でラウール・ババンという船乗りの男と知り合い、ひとまずジャジャという老女が経営するカフェ兼ホテルに数日泊まる。翌朝ジルはジャジャに叩き起こされることになる。このジャジャというキャラクターは、出番は多くはないが愛すべき脇役で、もし本作がミュージカルになったら『レ・ミゼラブル』のマダム・テナルディエのように人気が出るだろう。その日は「万聖節」(フランス語でToussaintトゥーサン、英語ではAll Saint’s Day、11月1日、キリスト教ですべての聖人を記念する日)であり、人々は教会のミサや墓地に向かっている。そのなかでジルはレスカル通り:いまでも古い石畳が残り、観光名所となっている〕17番地の雑貨店を探し、窓から覗いてその店を営むおばの姿を認めた。しかし街を行く人々に不審な目で見られているのに気づいてその場を離れ、オクターヴおじの墓を訪れる。
 顔の広いババンや船長らの紹介で、ジルは亡くなったおじを中心とする人間関係を知ることとなる。まずはおじの結婚相手であったコレット・モーヴォワザン未亡人。彼女はまだ30歳の若さであり(亡くなったオクターヴおじとは25歳の差があった)、5、6年前にラ・ロシェルに来ておじと結婚したために、ジルのことは知らない。ジルはおじが残したユルシュリーヌ河岸の邸宅に住み込むこととなった。召使いの名はルイーズ。部屋数が多く、おじの寝室もまだ残っている。部屋にはニュル゠シュル゠メールに暮らしていた祖父母の写真が飾られている。寝室には翌朝、ジルは邸宅で土地の主要人物らと会う。現在の会社経営責任者や市長や弁護士等々。そこで奇妙な遺産相続の中身を知る。街には鐘が鳴り渡り、人々はそれで時刻を知る。汽船がときおり耳に入る。ジルはモーリス・ソヴァジェという医師がジェラルディーヌおばと親しく、愛人関係だと囁かれていることも知った。
 ──このようにして本作第一部はおおむね登場人物の紹介と、奇妙な遺産を受け取ることになったジルの困惑でページが費やされる。おじのバス会社は地元を代表する企業であり、よってそこで要職に就く男たちは地元の名士たちと太い繋がりがあり、彼らは〝シンディキャ(シンジケート)〟という寄り合いをつくって、さまざまな物事を取り計らっているらしい。シムノン作品でしばしば取り上げられる、富裕男性たちのホモソーシャルな連帯社会である。だがジェラルディーヌおばやコレットおばはそうした男社会から外されているようで、また旅芸人の両親のもとで育ったジル自身もそこに入り込むのは気が進まない。よってジルは生前のおじのそばで働いておじの人となりを知っているランケ夫妻らと行動をともにすることが多くなる。しかしジェラルディーヌとコレットの間にも何かの確執がありそうである。さあ、ミステリー小説としての骨格は堂々と整った。あとは殺人が起こるだけだと胸を躍らせて待ち構える読者は多いに違いない。
 続く第二部では、ジルがオクターヴおじの執事であったエスプリ・ルパールの娘、18歳のアリスと結婚式を挙げる前後の状況が描かれる。このアリスは純真無垢だが世間知らずでもあり、無邪気に新参者のジルとデートを重ねるものの、いざ結婚をジルから告げられると戸惑ってしまうような若娘だ。ジルも自分自身でなぜこのアリスと結婚するのかよくわかっていない。ラ・ロシェルの港で最初に見かけた娘だったというに過ぎない。本心では若いコレット未亡人に惹かれているのだ。アリスの行きつけの店は若者が集う〈カフェ・ド・ラ・ペ〉であるから、好みもまだまだ幼いのだと思われる:paixペは平和、安らぎを意味する。「アネットとブロンド貴婦人」第110回)にも登場した店〕。だがジルにとってはこの見知らぬ土地で最も自分の年齢に近い女性の知り合いではある。ふたりはラ・ロシェルから北に10キロ行った瀟洒な村、エスナンドで結婚式を挙げる。この教会にもモデルがあり、捜せばウェブ上で白く美しい建築写真を観ることができるだろう。また第二部ではオクターヴおじが亡くなったときにはラ・ロシェルを離れていたジェラルディーヌおばの息子、ふだんから素行の悪いボブという若者が登場し、何かとジルに因縁をつけてくるようになる。
 そしてソヴァジェ医師の妻が不意に亡くなる。検死の結果、彼女に砒素が盛られていたことがわかり、地元の警視や刑事らがジルの周囲にも出入りするようになった。医師の妻は毎日の食事に少しずつ砒素を盛られ、それで結果的に中毒死へと至ったのではないか。ならば医師のソヴァジェが怪しい。そしてまた未亡人のコレットがソヴァジェ医師と個人的な関係があったらしいことも明るみに出て、にわかにオクターヴおじも実は毒殺されていたのではないかとの疑いが浮上してくる。そして実際に警察が墓を掘り起こしておじの遺体を検査したところ、本当に砒素が検出されたのである。ではおじを殺したのはソヴァジェ医師と共謀したコレットなのか? このようにしてラ・ロシェルの毒殺事件は新聞沙汰となり、ジルは事件の渦中に嵌まり込んでゆくことになる。
 つるつる、するすると読み進めることができる筆致で、わかりやすい展開だ。それなりにミステリーの趣向が盛り込まれて、謎解きの興味で読者を引っ張ってくれているようにも思われる。実際そのように感じて楽しめる読者もおられるだろうが、私にはどうも「ふつうの娯楽小説」のようにしか思えず、つるつるの表面に飽きがきてしまう。主人公のジルはつねに行動で物語を進めてくれるので、過剰な内省に陥ることがなく、その点はありがたいのかもしれないが、話を進めるためにあちこち歩き回っているだけともいえる。脇役にもこれといった個性や特徴が描き込まれるわけではない。いつもならこちらがはっとするほど鮮烈に描かれる舞台背景も、ふしぎとさほど心に迫ってこない。描写は細かいが、作家性と呼ぶべき際立った特色が見られないのである。こういうつるつると読みやすい小説は、いまの私にはいささか〝読みにくい〟。読書に相当な時間がかかってしまった所以である。
 私が「ひょっとしたら本作は面白いかも」と思い始めたのは、ようやく第三部の後半に入ってからであった。ソヴァジェ医師とコレットが殺人容疑で収監されたことによって、ジルは否応なしに事件に関わらざるを得なくなる。彼がまず起こした行動は、オクターヴおじの人生の道筋を遡り、おじは本当に毒殺されるような人物であったのかどうかを突き止めることだった。そうした過程でジルは金庫のパスワードを見出し、金庫を開けることに成功する。そこに入っていた文書を調べるうちに、いままで彼の知らなかったおじの想いや、これまで奥に隠れていた真の人間関係が判明してくる。ジルはコレットの無罪を確信し、彼女を助けるために次の行動を起こす。新たな証拠も自ら探索して提示しようとするだけでなく、地元の司法宮へ赴き告発行為に出る。冷房のない司法宮の一室で汗を噴き出しながらジルが裁判官や判事らと対峙する場面など、ようやくシムノンならではの臨場感溢れる筆致が現れて惹きつけられる。ジルはある人物こそが真犯人であると考えていた。警察も動き、じわじわと傍証を固めてゆく。砒素はどこに隠されていたのか、どこからどのようにして犯人の手に渡ったのか。裁判小説としての面白さが起ち現れてくる。事件に主体的に介入することで、ようやく主人公のジルも命を宿して動き始めるのだ。若いジルの味方につくのは運転士のプランテル氏やランケ夫妻である。事件究明の手は地元を支配する〝シンジケート〟にまで及ぶのだろうか? ミステリーとしての盛り上がりに期待が高まる。
 こういう展開であるならば、つるつるの娯楽小説であってもよいではないか。エンターテインメントとして充分に合格点といえるのではないか。読み進めながら私は星取り表の点数のことを考えていた。仮に邦訳できるならば帯にはどんな惹句がよいかとさえ思いを馳せていた。新しいシムノン読者の心をつかみ、本を手に取ってもらうためにはどうやってこの作品の魅力を伝えればよいだろう。本当は私だってこの長い小説を楽しく満足して読み終えたい気持ちに変わりはない。最初の疑念は思い過ごしで、やはり本作は傑作だったとこの連載でも読者の皆さまに紹介したい。そう思いながら、徐々に少なくなってゆくページの厚みに鼓舞されながら、私は最後の数章へと読み進んでいった。本作は第三部の後にエピローグも設けられている。ここで鮮やかなフィニッシュを決めてくれたらシムノンの勝利、物語の勝利だ。私は何度もシムノンの鮮烈な勝利の瞬間を経験している。さあ、本作はどのようにして決着をつけてくれる、と私は本当に期待を膨らませて読んだのだ。

 この世界には、どんなタイプの小説であっても「ミステリー小説だと思って読まないと読めない」人が存在する。そのようなことを発言するミステリー評論家を私は知っているし、その人がミステリー分野で長年にわたって優れた業績を挙げていることも知っている。だがその人は私が書く小説もすべてミステリーと思って読まなければ読めない。ミステリーだと思って読んだがミステリーではなかった場合、その人にとっては残念ながら私の小説は楽しめなかったことになる。
 私は小説の特定ジャンルに愛着、こだわりを持つ人や、ある特定の言語で書かれた小説を好んで読む人がこの世に存在することを知っているし、またそうした読み方があることも一定の理解はしているつもりだ。そうした読み方を否定しようとも思わない。ただ、ある瞬間にふっと、「いや、自分はそうした人たちの気持ちをまるで理解できていないのではないか」と思うこともある。実はそうした人たちと私の間にはどうしようもないほどの溝、すなわち分断があって、一生かけてもわかり合えることはないのではないかと恐ろしくなることもある。
 あなたの好きな小説はどのような小説だろうか。ミステリーが好き、SFが好き、ホラーが好き、とジャンルで答える人は、ミステリーなら何でも好きなのだろうか。そうなのかもしれない。つまらないミステリーさえも愛せるから「ミステリーが好き」といえるのかもしれない。日本ではおおむね文芸評論家にはジャンル枠があり、ミステリー評論家にはミステリー小説の書評の依頼が来るし、また言語ごとにも枠があって、フランス文学者にはフランス文学の書評依頼が来ることも知っている。
 私は、といえば、面白い小説が好きだ。しかし面白い小説というジャンルや区分はどうやら世のなかに存在しないらしい、ということが、作家をやって30年の間でわかってきたことである。私はSF作家やホラー作家などと紹介されることが多いが、SFプロパーの人たちは私がSF作家と呼ばれることを苦々しく思っていることだろう。SFコミュニティの人間ではないからである。となると私をSF作家と呼んだ人、たとえば講演会の主宰者や出版社の編集者は、「SFのことがわかっていない素人」であると一部の世間様から断定されることになる。興味深いことにこうした状況はCOVID-19パンデミック時に科学コミュニティでも露わになった。『専門知を再考する』を書いたハリー・コリンズとロバート・エヴァンスは、ある特定の人物が専門家であるかどうかは、専門家のコミュニティに入っている人たちだけが正しく判断できる、と述べた。極めて妥当な定義だが、これは何もいっていないのと同じであろう。日本感染症学会に入っている科学者らにとって、テレビのワイドショーで新型コロナウイルスの解説をしていたあの人は専門家ではなく、また日本ウイルス学会に入っている人たちにとって、ダイヤモンド・プリンセス号にいきなり乗り込んできたあの人は呼吸器系ウイルス感染症の専門家とは見なせないのだ。もちろんあるグループの人たちにとっては、毎日のように分科会での議論内容を国民に向けて説明していたあの老研究者も、決してウイルス学の専門家ではない、だからワクチンのことなど何もわかっていないと断罪されることになる。
 専門家はつねに他者にマウンティングを取ることでおのれのプライドを維持しようとする。自分の方がよく知っている、それをさりげなく(自分でも無自覚に)周囲に誇示することがすべてに勝る生きがいとなる。だからどこの馬の骨とも知れない人間がぽっと出てきて自分の領域のことを語り出すのを非常に嫌がる。最初はマウンティング行為でその人を嘲笑し、やがて相手がそれなりに研究を積み上げていると感じると今度はその業績を無視するようになる。
 ジョルジュ・シムノンはちょうどそんな業界マウンティングのタネとして、エアポケットに嵌まり込んでしまった作家である。私が今《星ナビ》という雑誌で書いている野尻抱影という星の文人もそうした作家のひとりだ。彼らのように業界マウンティングのタネとして使い捨てられる作家は私の知る限りでもこの世にもっといる。
 強力な支援があって直木賞などの権威ある賞でも獲れば一国一城の主、すなわちその作家イコールひとつのジャンルとして認められるかもしれないが、不幸にして適切な時期に受賞の機会を逃してしまった作家は、後年に名誉賞はもらえるかもしれないが、確実に作家生命を喪失してゆく。山田風太郎のような例外中の例外を除いて、多大な研究費用を投入してでも本当にその人の真価を探究し広めてゆこうとする人がいなくなるためだ。最近の私はそうした作家たちに本当の面白い小説、本当の面白い随筆の姿を見るようになった。
 そして逆に、なぜジャンル指向型の他の多くの読者たちが、彼らの本当の面白さに気づかないのかをふしぎに思う。いや、これも本当はそうではなくて、ある程度の理由はわかっている。だが商売として特定のジャンルや特定の言語文化に興味を抱く人の顔をこちらに振り向かせないと本が売れないことは身に沁みてわかっているので、これはミステリーとして面白いですよ、フランス文学として秀逸ですよ、ということも大切だと会得しているのだ。だがもっと本当のことをいえば私には面白いかどうか、読みたいかどうかだけが重要なのであって、それがミステリーなのかどうか、フランス語で書かれているかどうかは実のところどうでもよい。だから本作『万聖節の旅人』をどう評価するのがよいか、いまも実は迷っている。
 ミステリーファンの方々は、本作にある程度の高評価を与えるだろうと想像する。だがその評価はラストの終章とエピローグに至る前までの総合評価だ。莫大な遺産を巡る人間模様、パスワードの謎、リアリティに富んだ裁判劇、明らかにされる故人の意外な過去、といった諸要素には、ミステリーとして読むに足る外観、すなわち「自分たちの仲間であると歓迎して差し支えない」おもねりが充分に認められるからである。そのこと自体を私は否定しない。
 だがそうしたミステリーファンの方々は、おそらく最後の数十ページの展開、とりわけラストのエピローグに、もやもやとした想いを抱くことになるはずだ。これまでも私は指摘してきたが、シムノンという作家は(メグレものにおいてさえ)しばしば割り切れない結末で物語を終えることがある。ときには犯人が誰なのか曖昧なまま本のページが終わってしまうことさえある。重大なネタバレに繋がりかねないので詳細を書くことはできないが、本作はそうしたシムノンの一種の〝悪癖〟が終盤で炸裂する。さすがにミステリーファンでなくても、そう、この私でさえ、「何なのだこれは」と意表を衝かれることになる。だがこれは本当に作家の〝悪癖〟なのだろうか。シムノンはこの結末を最初から考えて本作を書いたのか。もしそうだとしたらもっとうまく、もっと効果的にこの結果へと至るべきではないのか。
 だがもっと重大なのは最後に添えられたエピローグだ。やはりこれまで述べてきたように、しばしばシムノン作品では最終章になっていきなり時間が飛んで、思いもしなかった因縁が描き出されることがある。本作のエピローグはなるほど読めば私たちにある一定の驚きをもたらすのだが、シムノン作品全体を俯瞰してみれば、いつものシムノンの繰り返しに過ぎないのであり、その意味では何の意外性もない後日譚だ。そして私たち読者はこの後日譚を心から納得できるかというと、これまで何度か見事に嵌まったシムノン作品の実例に比較すれば、決してそうとはいえない燻った感情が取り残されるだけなのである。この結末にするならここまで長い話を読んでくる必要はなかったのではないか──そうした徒労感さえ読者の心には浮かんでくるだろう。だが、もしあなたが他にシムノンの作品を読んだことがなく、これが初めてのシムノン体験であったとしたら、一定の衝撃を受けるかもしれない。何しろ本書は読みやすくてわかりやすいのだ。シムノン初心者にお勧めの一冊だといえてしまうではないか。そのようにして売れば実際に本書は売れるかもしれない。何を出しても、どんなに工夫を凝らしても増刷できなかったシムノンのロマン・デュール長篇のうち、本作は初めて日本で易々とベストセラーの実績を勝ち取る素質を持っている。
「ミステリー小説だと思って読まないと読めない」人も、本書なら必ず購入して読んでくださるだろう。各誌紙のミステリーの書評欄でもきっと取り上げていただけるだろう。だが──それで本当に〝よい〟のだろうか。
 いまが好景気の時代なら、「〝よい〟も〝悪い〟もない、とにかく邦訳を出してくれ、よいか悪いか、良作かそうでないかは読者が決めればよいことだ」という主張も成り立つ。だが「コミュニティの仲間内感覚に訴えかけなければ売れない」ときに、シムノンを読もう、シムノンを買い支えようとする人は本当にごくわずかである。海外小説の文庫本や単行本は、もはや一般人が小遣いで気軽に買える値段でなくなって久しい。本来ならシムノンの本などまさに1000円以下で購入できるような社会であるべきなのに、現実の日本はそうではない。
 そうした時代に本作を率先して日本の読者に提供するのが本当に〝よい〟ことなのか、私にはまだ判断がつかないのである。
 私の星取り表では、本作は星4つはつけられない。もしかして邦訳がなされる日のために、せめて星3つ半で曖昧に評価しておく──それは充分に可能だが、それでシムノンを本当に評したことになるのか、本作と向き合ったことになるのか、私にはわからない。いまの私は本作を星3つと評価しておく。「いまでも日本語に翻訳して紹介するに足る作品」として自ら指標に掲げた星3つ半より星半分だけ欠けている、ということだ。それで〝とっておく〟ことにしよう。

 本作は戦時中に映画化された。初めて知って驚いたのだが、この映画の脚本を担当したのは『壁抜け男』などで有名な作家マルセル・エイメだ。彼は劇作家でもあったので映画脚本もいくつか手がけており、そのひとつがたまたまシムノン原作の作品であったということらしい。
 では江戸川乱歩が〝奇妙な味〟と呼んだような、短篇「壁抜け男」に代表される軽妙なタッチがこの映画に盛り込まれているかというとそんなことはなくて、手堅く原作を映画向けに纏め上げていることにまず賞賛の気持ちが湧き上がる。映画版では人物関係をある程度整理し、ジルとアリスを結婚までには至らせず恋人同士の仲で留めて時間短縮を図り、また後半を大きく変えて、観客が物語の決着に納得できるよう、ある意味で常識的な筋書きに直している。だがそれゆえにいっそう全体の物語は類型的となり、監督の技量の限界もあってか、他の有象無象の映画と大差ない一作に終わってしまったように思える。
 これ以降も本作は二度、TVドラマ化されており、そのひとつはBBCで放映されたシムノン原作のシリーズ《Thirteen Against Fate宿命に抗う13人》の一作として、またもうひとつは2007年にベテラン女優のダニエル・ルブランを迎えた単発ドラマとして放映された。後者はDVD化の予定があったらしく、ウェブで調べるとそのDVDジャケット画像さえ見つかるが、どうやら実際には発売されなかったようで、私は未見である。
 
▼他の映像化作品(瀬名は未見)
・TVドラマ「Trapped」 《Thirteen Against Fate宿命に抗う13人》シリーズ、ハーバート・ワイズHerbertWise監督、ケネス・J・ウォーレンKenneth J. Warren、Hywell Benett出演、1966[英] ※Les romans durs 1941-1944 t.5, 2012に記載なし
・TV映画 同題 Philippe Laïk監督、Renard Cestre、ダニエル・ルブランDanièle Lebrun出演、2007[仏]

【ジョルジュ・シムノン情報】
・英国で製作されたマイケル・ガンボン版TVドラマシリーズ『メグレ警視』のDVD-BOXが発売された。日本語字幕つきでDVDが世に出るのは今回が初めて。またNHKで二か国語放送された際のタイトルは『メグレ警部』だったが、今回は『メグレ警視』に改められ、各エピソードの邦題も既存の邦訳書籍に揃えられた。次のページで字幕翻訳者へのインタビュー映像などを観ることができる。
https://sub.kinematranslationclub.com/p/WBdw72J9uzSj

・ブリジット・バルドーとジャン・ギャバン主演の映画『可愛い悪魔』のBlu-RayとDVDが日本で発売された。

・東宣出版から〈シムノン ロマン・デュール選集〉の第2弾、『袋小路』(第56回)が発売された。監修と解説は私・瀬名が務めている。第3弾の発売も近日中に発表されるはずなので、ぜひシリーズを通してご購入いただき、シムノンの豊かな世界をご自宅の書棚に揃えてもらえると嬉しい。本叢書では翻訳のよさだけでなく書籍そのものの美しさも大いにご堪能いただけるだろう。


・拙作『パラサイト・イヴ』が、中国で『寄生杀意』の題名で新訳刊行された(「杀」は「殺」の簡体字)。しかし中国の書籍を日本で購入する方法が、私にはわからない……。
瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。
《月刊星ナビ》で2025年3月号より「オリオンと猫 野尻抱影と大佛次郎物語」を連載中。
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