久しぶりのマイケル・イネスだ。
40冊を超えるミステリを残した英国ミステリの大家ながら、一般の知名度はいまひとつ。
翻訳のまずさから「難解」「晦渋」あるいは「高踏的」といった形容詞が作品にまとわりついた時期もある。
傑作『ある詩人への挽歌』の邦訳を皮切りに、ファンタスティックな作風や本格ミステリとしてのユニークネスが徐々に我が国でも支持を集め、愛読者の広がりを実感していただけに、9年前の『霧と雪』を最後に長編の翻訳が途切れてしまったのは口惜しかった。
イネス流の空想の翼を広げるミステリに魅かれる読者にとっては、『ソニア・ウェイワードの帰還』(1960) は、その渇をいやすものだ。
イネスの多くの作品で探偵を務めるのは、ジョン・アプルビイ警部(後に警視総監まで昇進) だが、本作はノンシリーズ作品。本書の前評判は高く、その確かな鑑賞眼と批評性で我が国の翻訳にも大きな影響を与えたH.R.F.キーティング『海外ミステリ名作100選』にも選出されている(ちなみに、同書では、アプルビイ警部物『アプルビイズ・エンド』も選出) 世界探偵小説全集の月報に寄せた若島正氏のイネスに関する一文でも、シリーズ物以外の推奨作としてこの『ソニア〜』が挙げられていたし、森英俊編著『世界ミステリ作家事典【本格派編】』でも、中期の代表作とされていた。
初期には、絶海の孤島に流れついた男女が殺人事件に遭遇し、果ては国際的な陰謀に巻き込まれていくという破天荒な設定で、アプルビイ警部が主役を務める作品『アララテのアプルビイ』もあったが、40年代半ば以降、シリーズ物ではできない趣向をノンシリーズで手がけるようになったとおぼしい。
本業は英文学の教授であるがゆえに、イネスの特徴の一つとして、文学的教養に富んだ文章が挙げられ、一方で、一般の読者を遠ざけていた面が否めない。本書にも、作家名や文学的な蘊蓄は頻出するが、それらを適度な彩りとして割り切れば、初期作より、はるかに読みやすい。
『ソニア〜』の冒頭の章は、こんな感じ。
本書の主人公、退役した陸軍軍医であるペティケート大佐は、茫然と妻ソニアを見下ろしていた。ヨットでの小旅行中の妻の突然死。おそらくは、循環器系の障害によるものだ。二人きりの旅行中での妻の死に不安に駆られた大佐は、死体に水着を着せ、海に投棄する。妻は、著名な小説家ソニア・ウェイワードで、大佐は彼女の収入に依存していた。大佐は、妻の書きかけの小説が船室のタイプライターに挟まっているのを見つけ、試しに小説に一文を追加してみる。これでいい。死んだ妻も「通常営業」を望んでいるはずだ。
リアリズムを基調としながらも、やはりノーマルな小説を逸脱した導入部というしかない。病死の妻の死体を遺棄してしまうのは首をかしげるし、その直後に、文学的素養で上回ると自負しているとはいえ、妻の書きかけの小説を書き継ぐ決意をするというのもどうかしている。イネス流の奔放な設定というしかないが、この冒頭の一章から、軽はずみの決断により「妻殺しを疑われかねない夫」「女流小説家にすり替わった男性」という二つの困難を背負った男の悲喜劇が読者には予測されるわけで、以降の展開に期待を高める見事な導入でもある。同時に、内面描写により、大佐の階級意識、俗物性、自尊心、小心さ、身勝手さが浮き彫りにされているから、読者も安心しつつ、大佐に押し寄せる災難に微苦笑することができる。
続く第二章は、ソニアの小説の出版者と大佐の対話。ソニアの死を隠し大佐が書き継いだ小説の初めの三万語は「素晴らしくみずみずしい」と評価され、大佐はその場ででっちあげた続きのプロットを出版者に語る。これが、ソニアが書いてきたロマンス小説のパロディのようになっていて、莫迦莫迦しくもおかしい。
その後の展開も意外事の連続。
特に、列車の中で、死んだはずの妻ソニアと出逢ってしまうくだりは圧巻で、後半の展開の重要な伏線にもなっていく。
この後も、要所要所で、心地よく読者の予想を上回る爆弾が投下される。大佐は、ソニアは外国旅行中とごまかしを続けるが、警察官や使用人、隣人たちの介入により、大佐の陥った窮地はますます深いものになる。その一方で、大佐は、創作の喜びに目覚め、あろうことか、『若さの欲するもの』と題されたその小説は、世界最大の文学賞「ゴールデン・ナイチンゲール賞」の授与が決まってしまう……。
本書は、アプルビイ物の多くを占める本格ミステリではないし、(犯罪計画は後にでてくるものの) 普通の意味での倒叙物でもない。ファース、ブラックコメディ、あるいはデイヴィッド・ロッジのいうコミックノベルに近いのかもしれない。出来心から窮地に陥った男の運命を意地悪な眼で楽しむエンターテイメント性豊かな物語。出版者や使用人、近隣の人たちの性格や言動は笑いを増幅させる。英国流ユーモアがお好きな方なら存分に楽しめる秀作だ。
と、まとめてもいいのだが、蛇足めいたことを少々。
本書には、妻になり替わって書いた小説が現実化していくという趣向も盛り込まれている。例えば、小説中の登場人物と同じ名前の主が実際のパーティ場面に登場したり、突然、小説と同様の姿で現れたり。
イネスファンは、作家が執筆中の通俗ミステリのストーリーが次々と現実化していく『ストップ・プレス』や、小説家の構想がやはり現実化していく『アプルビイズ・エンド』を思い出すだろう。(これらにはもちろん「解決」がある)
あるいは、デビュー作『学長の死』や『ハムレット復讐せよ』で、匿名で探偵小説を発表しているジャイルズ・ゴッドという学者が重要な役割を果たしていたことや、アプルビイ警部の息子ボビーが前衛小説家になることを思い起こすかもしれない。
どうやら、イネスのファンタスティックな世界は、フィクションの自走性、あるいはフィクションのつくり手としての小説家という存在と切っても切れないようなのだ。
さらに、本書では、後半、映画『マイ・フェア・レディ』(あるいは、その基となったバーナード・ショー『ピグマリオン』)的モチーフが立ち上がってくる。
「『マイ・フェア・レディ』も『フランケンシュタイン』も同じ話」という台詞が、同じくヘップバーン主演の映画『パリで一緒に』にあるそうだ。
「ドブネズミからレディをつくる」(『マイ・フェア・レディ』の台詞)のも、無生物から人間をつくる(『フランケンシュタイン』)のも同じといえば同じ、いずれも創造者には相応の罰が待っている。
ならば、フィクションの創造者は?
『ストップ・プレス』第一部には、人間によく似たものをつくり、それに生命を吹き込んだ『フランケンシュタイン』談義がされる場面がある。明らかに、イネスの中では、怪物を創造したフランケンシュタイン博士と、架空の物語をつくり登場人物に命を吹き込む小説家の行為は、同じものなのである。
ペティケート大佐は、「フィクションをつくる」「怪物をつくる」、あるいは「フィクションという怪物をつくる」という二重の「罪」を犯し、その報いを受けることになる。してみれば、自らのフィクションで栄光と悲惨を体験する大佐の姿は、小説家イネスのコミカルでほろ苦い自画像でもあるはずなのだ。
ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた) |
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ミステリ読者。北海道在住。 ツイッターアカウントは @stranglenarita 。 |