デビュー作「氷の家」で英国推理作家協会(CWA)最優秀新人賞を受賞、続く第二作「女彫刻家」で「このミステリーがすごい!」「週刊文春ミステリーベスト10二冠を達成、その後も寡作ながら評価の高い作品を発表し続け、近年では日本語翻訳版の最新刊「悪魔の羽根」が各種ミステリランキングを騒がせたのも記憶に新しい英国ミステリの女王、ミネット・ウォルターズ。今回ご紹介するのは二〇一五年に出版されたウォルターズの現時点での最新作、 “The Cellar” 「地下室」です。
“Muna’s fortunes changed for the better on the day that Mr and Mrs Songoli’s younger son failed to come home from school.”
「ソンゴリ夫妻の下の息子が学校から帰らなかったその日、ムーナの運命はいい方へと変わった。」
“The Cellar”はこのどこか不穏な一文で幕を開けます。物語の主人公は十四歳の少女、ムーナ。彼女は八歳の時に孤児院から連れて来られ、以来ソンゴリ家の地下室(=Cellar)で寝起きし、彼女がそれぞれ“旦那様”“お妃様”と呼ぶ夫のエブカと妻のイェトゥンデ、その息子のオルバヨとアビオラからなるソンゴリ一家にひどい仕打ちを受けながら、学校にも行けず、読み書きすら習えずにこき使われています(そんなムーナの境遇から、ウォルターズのインスピレーションの源は年若い女性が連れ去られ監禁されたエリザベス・スマート誘拐事件やクリーブランド監禁事件にあるのではないかと論じるレビューもあります)。ムーナは教育の機会を奪われているために読み書きこそできないものの、高い知能を持ち、復讐の機会を窺っています。チャンスはアビオラ失踪事件が発生した時やってきます。捜査のため警察がソンゴリ家にやって来ると、自分たちがムーナを不当に扱っていることを知られたくないソンゴリ一家は、彼女が夫妻の娘で、脳に障害があるため家にこもっているということにするのです。こうしてまともな服、部屋、ベッドを手に入れたムーナ。ですが、彼女の望みはこんなものではありません。復讐はまだ始まったばかりです。
この本のすごいところはなんと言っても主人公ムーナにあります。彼女の台詞で一番印象深いのがこちら。
“I am what you made me, Princess. All I know is what you’ve taught me.”
「私を作ったのはあなたたちです、お妃様。私の知っていることはみんなあなたたちに教わったことです」
境遇だけ見れば「かわいそう」という形容詞がぴったりきそうなものですが、ムーナは決して「かわいそう」ではありません。たとえばムーナが愛情あふれる家族の元からさらわれてきた普通の少女だったら、家族恋しさに泣き、必ず戻ると誓い、懸命に頭を働かせて、誰か信頼できそうな人間に助けを求めるという、もっと穏当なやり方で脱出を図っていたかもしれません。でもムーナは違います。元々孤児院にいて、特定の誰かに愛情を注がれていたわけではないムーナはまともに感情を育てる間もなくソンゴリ一家による身体的、精神的な暴力に晒され、上の台詞のとおり、彼らによって教えられたことしか知らない生き物、つまり暴力しか知らない怪物へと作り変えられたのです。そう、この物語は哀れな少女が恐ろしい怪物たちをこらしめる物語ではありません。痩せっぽちの体からは想像できないほどの冷たさと恐ろしいほどの頭のよさを備え持ったムーナと非道なソンゴリ一家という怪物対怪物の物語なのです。
ムーナの怪物ぶりはその考え方にはっきりと現れています。作中、ムーナのことを気にかけてくれる数少ない登場人物が親切な隣人のヒューズ夫妻です。十四歳にしては体が小さいのではないか、寒い思いをしているのではないかとムーナを思いやり、何かと助けようとしてくれるふたり。よくある筋書きならここで外の世界には優しい人もいるんだと気づき、氷のような心も溶けて暴力に疑問を抱くようになったり、夫妻に恩義を感じたり愛情を覚えたりするところですが、ムーナにかぎってそんなことはありません。ムーナの関心はただただ彼らが何かに勘付くのではないか、自分の邪魔になるのではないかという点に限られています。やがてムーナに愛着を抱くようになっていくソンゴリ一家の一員に対してもそう。今まで散々な目に遭わされてきたことを思えば当然かもしれませんが、その人物の涙を見ながらムーナが感情を動かされることはなく、弱くて馬鹿なやつだと思うばかり。作中、徹底して彼女が自分以外の誰かを気遣うことはありません。誰もが復讐の対象か、さもなくばただの背景に過ぎないのです。その思考はまさにサイコパスのそれ。犯罪学や行動科学に関心があるというウォルターズだからこその描き方かもしれません。
ムーナが次々と復讐を遂げていく様を見守りながら読者が覚えるのは、だからカタルシスではありません。ひたすらに恐怖です(作中、ある登場人物がたどった運命が明かされる場面の阿鼻叫喚と言ったら!)。特に後半、ムーナが復讐のために何をしてきたのかが明らかになってくると、その怪物ぶりの前では相当にひどいことをしているはずのソンゴリ一家が小物に見えてくるほど。“I go to sleep each night wanting to hear you beg. My dreams are happy ones – full of blood – and I feel better when I wake”「毎晩あなたたちが懇願する声を聞きたいと思いながら眠るんです。そして幸せな――血にまみれた夢を見ると、目が覚めたときには気分がよくなっているのです」なんて台詞は、少なくともソンゴリ一家程度では思いつきもしないでしょう。更に終盤、 “humour and laughter were as alien to her as smiling and speaking”「ユーモアも声を上げて笑うことも、ほほ笑みやしゃべることと同じで、彼女には縁がなかった」と描写されるほど、滅多に笑顔を見せることがないムーナが笑いながら××で××を××する場面などは叫びたくなるインパクトです。
この本でムーナの、そしてソンゴリ一家の悪夢の舞台となるのがタイトルにもなっている地下室なのですが、ガーディアン紙のインタビューで、ウォルターズは自宅の地下室に通じる扉を開け、本に出てくるのとほぼ同じだと語っています。自宅の地下室であんなことやこんなことが起きる話を書けるウォルターズ、やっぱりすごいです。
子どもの失踪事件という幕開けから、賛否両論必至、最後に笑うのは××なの? ええええっ!?となるラスト(米国版・カナダ版は英国版と違うバージョンだとか)まで、ハードカバー版で二四六ページというコンパクトさも手伝って読みやすく、先を読むのが怖い、でも読まずにいられない、悲鳴と衝撃に満ちた物語、“The Cellar”。日本語訳はまだまだ先(今作より早く書かれた長編が一作、中編が一編未訳のまま)のはずの今作、待ちきれない方はぜひ英語版でお読みください。
●”The Cellar” by Minette Walters
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河出真美(かわで まみ) |
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好きな海外作家の本をもっと読みたい一心で、作家の母語であるスペイン語を学ぶことに決め、大阪へ。新聞広告で偶然蔦屋書店の求人を知り、3日後には代官山蔦屋書店を視察、その後なぜか面接に通って梅田 蔦屋書店の一員に。本に運命を左右されています。おすすめ本やイベント情報をつぶやくツイッターアカウントは @umetsuta_yosho。2017年暫定ベストは “A Monster Calls”。https://store.shopping.yahoo.co.jp/umd-tsutayabooks/bung9781406339345w.html |