「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 新宿御苑へ初めて行った時は、なんだか圧倒されてしまいました。
 新宿駅から歩いて数分、大都会のド真ん中に、だだっ広い緑地がある。芝生の向こうにNTTドコモ代々木ビルの時計塔が見える光景に困惑し、静けさにむしろ興奮してしまったことをよく覚えています。
 この思い出故でしょう。新宿御苑を舞台にしたフィクション作品に出会うと、なんだか嬉しくなってしまい、自分の中での評価がそれだけで上がってしまいます。静謐な空間をぶち壊してやろうとするような、ド派手なアクション作品だと猶更です。きっと、この作者も、あのアンバランスさに刺激を受けた同志に違いないと勝手に思い込んでしまうのです。小説なら大沢在昌『毒猿 新宿鮫Ⅱ』(1991)、映画なら『劇場版シティーハンター 〈新宿プライベート・アイズ〉』(2019)がそれです。
 ニューヨークを舞台にしたミステリを読む時、僕にとっての新宿御苑が、ニューヨーカーにとってはセントラル・パークなのだろうな、と感じます。
 セントラル・パークもやはり、大都会の中心にある異世界であり、フィクション作品では特別な舞台として扱われることが多い場所です。
 ただ、御苑と違うのは、こちらの異世界は、元々なにが出てくるか分からない恐ろしい場所とされる点でしょうか。御苑と同様に計画的に作られた公園なのに”野生”を感じる場所とされることさえあります。
 余りに広い故、目が届かないところが多く、夜中は入らない方が良いとされる犯罪多発地帯で、だからこそ、しばしばクライム・ノヴェルの舞台になる。
 今回紹介するスティーヴン・ピータース『公園はおれのもの』(1981)においても、セントラル・パークは大都会にあるのに周りから切り離されてしまっている恐ろし気なところとして描かれます。
 なにせ、この本ではパークは一切の比喩抜きで戦場と化すのです。

   *

「よく聞いてくれ。市へのメッセージがある。あと五分で二一〇〇時だ。その時点からセントラル・パークはおれのものだ。二一〇〇時以降、公園内へ足を踏み入れた者は生命を危険にさらすことになる」
 ニューヨーク市警へ電話をかけてきた男はそう言った。
 意図が読めず、刑事たちは悪戯だろうとぞんざいに扱ったが、二一時一五分、パークを管轄する二二分署が爆破され、顔色を変える。電話をかけてきた奴は本気だ。
 そして、分かった時には既に遅かった。
 園内には至るところに罠が仕掛けられ、中をまともに散歩することすらできない。それらをかいくぐっても、男の持つ銃火器で狙われる。
 公園は最早、奴のものだ。
 ……なんと、まあ、凄まじい粗筋でしょうか。
 本書の帯には「燃えるセントラル・パーク」という文言が書かれているのですが、読み進めて「本当に燃えてるじゃん!」と思わずツッコミを入れてしまいました。比喩としての燃える、ではなく、実際に炎上するのです。
 とにかく、徹頭徹尾「こういうことをしますよ」と宣言したことをそのままやり通す小説です。
 セントラル・パークを、一人の男が占拠し、トラップだらけの戦場に変える。市警はそれに立ち向かう。
 これをストレートに描いていく小説で、それが読み手としてはワクワクして仕方がない。「凄い状況だ」「どうするんだ、これ」という気持ちだけで最終頁まで読ませていくのです。
 粗筋に書いた、分署が爆破される冒頭部の時点で引き込む力が強いのですが、なんといっても圧巻なのは、市警部隊がパークに侵入し、男を探し出そうとするパートでしょう。
 まだ、普通の犯罪者と同じだろうと相手を侮っている彼らが、自分たちの庭も同然のパークに入る。遊歩道を進んでいくと、普段はない場所に鉄条網が張られている。さして疑問を抱かずに避けて進もうとした瞬間に、罠にかかり、このパークが、見知っているものとは全く違うものに変質してしまったことを思い知る。
 地雷、竹槍の仕掛けられた落とし穴、その他数々のブービートラップ、すぐそこに摩天楼が見えるニューヨークなのに、と思いながら警官たちが始末されていく。
 物語の舞台が一体どこなのか分からなくなってくるような描写の連続で、読んでいて頭がクラクラしてしまいます。
 そして、この、世界の見え方が揺さぶられる感覚が、本書の最大のポイントなのです。
 ニューヨークの真ん中に出現した異世界というのが、そのまま、首謀者の男が見ている世界で、それが登場人物と読み手の世界を呑み込んでいく。本書はそういう小説です。

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 本書の主人公である、セントラル・パークの占拠作戦を仕掛けた男の名は、ハリスといいます。
 彼はベトナム戦争帰りの元兵士です。
 その経験が全てを変えてしまったと彼は言います。
 戦争が終わってから何年も経つというのに、あの時のことが頭から離れない。それは勿論、戦時中のトラウマというやつなのですが、彼の中では恐ろしいとかもう戻りたくはない、というよりも、作中での言い回しを使うなら〈あのはかなく短命な世界〉を求めてしまう気持ちの方が強い。
 作中、作戦を実行してからの彼は活き活きと、楽し気に描かれます。
 セントラル・パークを、まるでベトナムの密林に変えてやったという歪な興奮が一連の描写からは伝わってきます。
 ここまで書けば、あの作品を思い浮かべる人も多いでしょう。
 ベトナム戦争から帰ってきた男が、社会に馴染みきれず、アメリカの国内にトラップだらけの戦場を作り出し、警察を迎え撃つ……本書は映画『ランボー』(1982)によく似ています。
 『ランボー』が公開されたのは1982年ですが、原作であるデイヴィッド・マレル『一人だけの軍隊』は1972年の作品なので、ピータースが影響を受けて書いた可能性は高いように思います。
 しかし、『ランボー』と本書では、ある一点で大きく違います。
 それはハリスの世界に引きずり込まれる側の人間たちにもフォーカスを当てている点です。
 本書ではハリスの他に、二人の主要な視点人物が用意されています。
 一人は市警の刑事担当助役、ディックスです。
 彼もまた、ベトナム戦争の経験者なのですが、現在はまともに日々を送れている側の人間です。彼は、この事件から、戦場の臭いをかぎ取り、事件にのめり込んでいきます。
 もう一人は、ニュース・サービスとして働く若い女性ウィーバーです。
 彼女は、ベトナムのことはよく知りません。ただ、この大都市で起こる事件の映像を撮ることを生業としていて、セントラル・パークの占拠事件もでかいニュースになりそうだと食いついているだけです。
 もう忘れ去られた筈の戦争が、都会の真ん中で甦り、忘れていた人、知らない人がその中に飛び込む。この構図が本書の独自性であり、読みどころではないでしょうか。そして、そのために舞台にするのは都会の中の異世界であるセントラル・パーク以上に相応しいところはないのです。

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 本書では、ハリスの素性は示されるものの、彼がどうしてパークを、このタイミングで占拠し、戦争状態にしようと思ったのかについては最後まで詳細は語られません。
 これは作者が意図的にしたことであるように感じます。
 理由もなく突然に目の前に現れた血なまぐさい光景。それで全てが変わってしまう。
 この部分をただただ、そのまま描いているからこそ、異様な迫力が出ている、そういう本だと思います。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人四年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby