書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 書評七福神の二人、翻訳ミステリーばかり読んでいる翻訳マン1号こと川出正樹と翻訳マン2号・杉江松恋がその月に読んだ中から三冊ずつをお薦めする動画配信「翻訳メ~ン」、ちょっと今はお休み中。再開までしばしお待ちを。最新三月の動画はこちらです。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

 

川出正樹

『時計仕掛けの歪んだ罠』アルネ・ダール/田口俊樹訳

小学館文庫

 祝アルネ・ダール再上陸! 北欧ミステリ翻訳ラッシュの中、『靄の旋律 国家刑事警察 特別捜査班』(ヘレンハルメ美穂訳/集英社文庫)が訳されたきり不遇にも埋もれてしまった大物作家アルネ・ダールが、八年ぶりに新たなシリーズとともに還ってきた。ストックホルム市警犯罪捜査課の警部と公安警察の潜入捜査官が、精密時計のごとく複雑精緻に仕組まれた少女連続誘拐事件の謎を追う『時計仕掛けの歪んだ罠』は、外連と計略に富んだ緊迫感漂う一気読み必至の犯罪小説だ。

 主役の二人が徐々にターゲットに迫っていく第一部に漂う不穏な高揚感も凄いのだけれど、これはまだまだ序の口。ともに獲物を捕らえた警部と潜入捜査官による尋問シーンが、全体の約20%にあたる100ページ以上を費やして延々と展開される第二部の緊迫感たるや、ちょっと類例が思い浮かばない。リンカーン・ライムによる《キャサリン・ダンス》シリーズのキネシクスを駆使した知的決闘シーンとも一味違う、閉塞空間で繰りひろげられる強者同士の一対一の攻防戦に固唾を呑み、逆転につぐ逆転劇に何度も息を呑む。しかも本当の意味での物語の幕が上がるのは、ここからなのだ。この構成の妙に思わず唸ってしまった。

 果たして少女たちはどこに消えたのか? 現場に密かに遺されていた歯車は何を意図しているのか? 随所に挿入される幻想感漂うボートハウスのシーンの意味するものは? 精緻に張り巡らした伏線を回収して、徐々に謎を解明していく過程で、冒頭から入念に措かれた布石が効果を発揮していく。絶妙なカードさばきで500ページを超える大部を飽きさせることなく一気に読ませる筆力に目を見張る。絶対の自信をもってお薦めします。それにしてもアルネ・ダール、化けたな。

 

北上次郎

『どっちが殺す?』M・J・アーリッジ/佐田千織訳

竹書房文庫

 背が高くて筋肉質で逞しい体をしている警部補ヘレンは、革ジャンにヘルメットでバイクに跨る颯爽としたヒロインだ。同時に、鞭で叩く男を雇い、「もう一度!」と要求するヒロインでもある。セックスは求めない。求めるのは痛みだけ。

 妙だなあと思ったのは、 SM生活は描くのに、それ以外の私生活があまり描かれないこと。

 何か隠している風情があるのだ。それがラスト近くに噴出する。

 こんなに激しい物語でいいんだろうか。シリーズが続くんだろうか。

 そんなことを心配したくなる。これはそういう小説だ。

 

千街晶之

『死んだレモン』フィン・ベル/安達眞弓訳

創元推理文庫

 何を選ぶか、ここまで迷ったのは二○一八年十二月の書評七福神以来である。ブレグジットとトランプとプーチンに引っかき回された世界をジョン・ル・カレ八十八歳が見据える『スパイはいまも謀略の地に』、アサドの凄絶な過去がついに判明するユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q―アサドの祈り―』あたりは、ここまで力作揃いの月でなければベストに選んでいた可能性が高い。最後まで迷ったのは、アルネ・ダール『時計仕掛けの歪んだ罠』とフィン・ベル『死んだレモン』のどちらにするかだったが、本邦初紹介作家の小説である後者を選ぶことにした(前者も傑作なのでお薦め)。いきなり主人公が車椅子のまま断崖で宙ぶらりんになっているという、高所恐怖症の読者なら悲鳴を上げそうな冒頭。そこから、主人公がどうしてそんな目に遭ったのか、そしてその状態からいかにして脱するかという、強烈なサスペンスに溢れる物語が展開されるのだ。しかもこの小説は、そのサスペンス自体をミスリードにした極上の本格ミステリでもある。今年度のベストを選ぶ際に忘れてはいけない一冊だ。

 

霜月蒼

『時計仕掛けの歪んだ罠』アルネ・ダール/田口俊樹訳

小学館文庫

 7月は豊作だった。ル・カレの新作もあれば、ちりばめられた不吉なイメージが見事な怪作『もう終わりにしよう。』も一読の価値がある。ロベルト・ボラーニョが『2666』で扱ったメキシコの工場町での連続女性殺人事件を正面からとりあげたティム・ベイカーの『神と罌粟』の殺伐とした風景も忘れがたい(マンガ『ブラック・ラグーン』や『ワイルダネス』などのファンに訴えるところもありそう)。

 ベストに推すのはスウェーデンの警察小説であるこちら。何やら隠し事をしながら執念の捜査をつづける主人公が中盤で「ある特異な状況」に追い込まれ、そこからの展開があまりに異様。主人公と行動をともにすることになる人物の抱えるものも過剰で、いわゆるノワールでない警察小説でこういう歪みを抱えたプロットはめずらしいのではという気がする。主人公たちの行動が過剰さを増すにつれ、事件の様相とスケールも異様な変容と膨張をみせて、すべてが底なしの闇に吸い込まれるような居心地の悪さを読者に残す。

 北欧警察小説の重たく保守的でスクエアな印象を裏切るグロテスクな作品なので、「北欧ミステリ」にやや食傷気味の人に強くすすめたい。ラストシーンがまたアレなんですよこれ。早く続編を出していただきたいです。

 

酒井貞道

『死んだレモン』フィン・ベル/安達眞弓訳

創元推理文庫

 今月は傑作が目白押しで最後まで迷いましたが、結局『死んだレモン』を選びました。読者の興味をつかみ引き続ける構成力が素晴らしい。車椅子の主人公は冒頭で宙吊りになりつつも、敵を一人射殺する。しかしながら後続の敵が現れるのは確実であり、先行きは暗い。このように大ピンチな《現在》のパートと、そこに至るまでを語る過去のパート(スリーピング・マーダーの探究
&不気味な隣人との対決)とがうまい具合に交錯し、読者を飽きさせません。主人公自身の物語としてもなかなか読ませます。彼は、尾羽打ち枯らしニュージーランド南端の田舎町に流れ着き、そこでマオリ族を含む住民と交流する中で元気を取り戻していきます。さすがにこの《再生譚》だけで小説にするのはきつそうですが、ニュージーランドの田舎の空気が如実に感じ取れる、いい
モチーフだと思います。そして最後に明かされる真相は、《内容》《見せ方》《伏線》の三拍子が揃っていて、本当に見事。しかも読みやすい。良いミステリが読みたい方は是非。

 

吉野仁

『チェス盤の少女』サム・ロイド/大友香奈子訳

角川文庫

 ここでは、その月の刊行でいちばん娯楽性に富んでいたと思う作品を紹介するようにしてきた。ページターナー(巻を措く能わず)の小説である。その意味で7月はフィン・ベル『死んだレモン』なのだが、巻末解説を書かせていただいた手前、あえて外し、この『チェス盤の少女』を挙げたい。チェス大会の会場で誘拐された少女、森で遊ぶ少年、事件を捜査する女性警視という三つの視点で語られていく物語。ならばバリバリの少女監禁サイコものかと思いきや、「ヘンゼルとグレーテル」が物語に登場するなど、どこかファンタジックな世界を感じさせたり、後半どんどん予想外にアクション展開していったりするなど、こちらもページターナーのサスペンスだったのだ。今月は『神と罌粟』も『時計仕掛けの歪んだ罠』も予想や期待とはすこし違った内容で、良い意味で裏切られたが、なかでも『もう終わりにしよう。』は、読み終えたらまた最初から読み返さなきゃという変態ぶりの結末で、娯楽性よりも、これまで読んだことのない奇妙な小説を求める人にお薦めしたい。ウィンズロウ中編集も大満足で御達者ル・カレも読ませるが、詳しくは略だ。

 

杉江松恋

『時計仕掛けの歪んだ罠』アルネ・ダール/田口俊樹訳

小学館文庫

 アルネ・ダールはスウェーデン大使館で会ったからなあ、というのは嘘で、いちばんびっくりした小説だったからこれを押したい。びっくり三重奏みたいな小説なのだが、突如舞台上の役者が二人しかいない密室劇みたいな展開になったり、あれ、これってミネット・ウォルターズの小説なの、みたいな人間不信になりそうな展開になったり、あれあれジェフリー・ディーヴァーはスウェーデン人だったんでしたっけ、と思うような派手な犯人との闘争が始まったりして、とにかく間断とするところがないのである。あと、使われているモチーフがいちいち印象的で、画像が記憶に残る。特にあれだな、黒い靴下だな。黒い靴下。黒い靴下があんなことにねえ、とずっと覚えているに違いない。

 基本的にスウェーデンを舞台にした警察小説だという知識だけ手元に置いて読み始めたほうがいいので、本を買ったらまず帯を外してしまいましょう。前から思っていたけど小学館文庫の海外小説はあらすじ紹介や帯でちょっと踏み込んだことを書く癖があるね。攻めてるね。ネタばらしとは言わないけど、まあ、見ないほうが楽しめます。この小説を読んだときの驚きに近いことを瀬戸川猛資さんが『夜明けの睡魔』で某作に関する箇所で書いているのだが、唖然とする感覚を味わいたかったら今月はこの本を読むべきだと思う。『死んだレモン』もいいのだけど、あっちはまだ「きちんとやろうよ」とクラスメイトに忠告する委員長みたいな感じがあるから。つまりそこがきちんと段取りを踏んだ謎解き小説でいいのだけど、『時計仕掛けの歪んだ罠』は遅刻しそうだからといって空からパラシュートで振ってくる転校生みたいな調子っぱずれなところがある。アルネ・ダールは舞い下りた。前に紹介された『靄の旋律』だって悪かなかったんだけど、これは桁違いにいい。第二作の翻訳も決まっているそうで慶賀至極。

スウェーデンとニュージーランドの作品に票が集まりました。その他の作品も初顔ばかりで新鮮な印象です。御大ル・カレをはじめ、ベテラン勢も控えており、なかなか気が抜けない一月でした。次回はどうなりますことか。(杉)

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