書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 書評七福神の二人、翻訳ミステリーばかり読んでいる翻訳マン1号こと川出正樹と翻訳マン2号・杉江松恋がその月に読んだ中から三冊ずつをお薦めする動画配信「翻訳メ~ン」、ちょっと今はお休み中。再開までしばしお待ちを。最新三月の動画はこちらです。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

 

千街晶之

『噂 殺人者のひそむ町』レスリー・カラ/北野寿美枝訳

集英社文庫

 八月のベストは「信用できない語り手」の四段重ねとも言うべきイーアン・ペアーズの歴史ミステリ『指差す標識の事例』で決まりかと思いきや、続けて読んだ『噂 殺人者のひそむ町』の衝撃がそれを抜き去ってしまった。十歳の頃に殺人を犯したサリー・マクゴワンが、自分たちが暮らしている町に潜んでいるらしい……そんな噂をうっかり流してしまったジョアンナは、その軽率な行為が生み出した思わぬ波紋に苦しめられる。疑心暗鬼に陥り犯人探しに奔走する住人たち、頭文字がサリーと一致するというだけで迫害される女性、ジョアンナの息子に迫る危機……だが、サリーは本当にこの町にいるのか? 衝撃の真相が暴かれても物語はまだ終わらず、残酷な選択を登場人物に突きつけ続ける。デビュー作ながらサンデータイムス紙のベストセラーランキング入りしたのも納得の、最後の一ページに至るまで強烈な印象を読者に刻み込むサスペンス小説だ。

 

川出正樹

『三分間の空隙』アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム/ヘレンハルメ美穂訳

ハヤカワ・ミステリ文庫

〈三分間の空隙〉というタイトルの意味が明かされた瞬間、思わず「それか!」と声を出してしまった。ついで、体の芯から熱いものが湧き上がり、皮膚が昂奮に泡立つ。そう、ルースルンドとヘルストレムが、またまたまたまたやってくれたのだ。謎解きと冒険と、警察小説と犯罪小説と、あらゆる要素を取り込んだミステリ史上に燦然と輝く『三秒間の死角』(角川文庫)を継ぐ『三分間の空隙』で彼らは、自らが建てた金字塔を凌ぐ高みに到達した。

「罪悪感は、強く、鮮烈な、圧倒的な力で人を駆り立てる」と述懐し、絶体絶命の窮地に陥った人物を生き延びさせるために異国に赴くエーヴェルト・グレーンス警部のなんとかっこ良いことか。コロンビアの密林を舞台に、映画「ミッション・インポッシブル」さながらの壮大なスケールとヒリつく緊迫感が漂う中、狩る者と狩られる者とが腹を探り合い、凄絶なる頭脳と肉体の戦いが繰り広げるため、一瞬たりとも気が抜けない。そして、意表を突く〈空隙〉。練りに練られたプロットと先の読めないストーリーテリングに夢中になって上下900ページを一気に読み終え、ふぅと息をつく。2020年、『三分間の空隙』を読むことができた。それで十分だ。

 

北上次郎

『苦悩する男』ヘニング・マンケル/柳沢由実子訳

創元推理文庫

 クルト・ヴァランダーの最終篇である。訳者あとがきを読むともう1冊出るらしいが、実質的にはこれが最後。第1作の『殺人者の顔』が翻訳されたのが2001年だから、もう19年がたったことになる。そうか、19年か。北欧ミステリーがこれほどブームになるとは思ってもいなかった頃のことだ。なにしろ、「ミレニアム」の前だから、遥か昔のことである。内容的にはこれまでのベストとは言い難いものの、まったく気にならない。長すぎるとも思わないし、60歳になったクルト・ヴァランダーの捜査の日々をゆっくり味合うように読みふけるのだ。

 

霜月蒼

『葬られた勲章』リー・チャイルド/青木創訳

講談社文庫

 すごい勢いで年間ベスト級の作品が投じられた8月。アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレムの傑作『三分間の空隙』も最高でしたしまし、いま読んでる『指差す標識の事例』も最高です!(豊作すぎて〆切に間に合わなかった)

 そして本書も最高なのです。毎度「巻き込まれ型スリラー」として見事な導入をみせる本シリーズだが、今回は「深夜の地下鉄で見かけた女性が自爆テロ犯の兆候を見せていたので近づくと、バッグから拳銃を取り出して眼前で自殺してしまう」というもの。この女性は政府機関と関連しており、彼女の秘密をめぐる暗闘に主人公リーチャーは巻き込まれる。舞台はニューヨーク。碁盤の目状の街路、地下鉄、駅、公園などを駆使した「都市戦闘小説」の傑作に仕上がっている。

 このシリーズは主人公が一人称で語ったり三人称で語られたりするが、本作は一人称。つまりリーチャーの内心が詳細に綴られる。それが戦闘場面のスリルを増幅するのと同時に、リーチャーが要所要所で脳内に展開するロジカルな名推理を仔細にトレースする。本書はグレイマン・シリーズに負けない熾烈なアクション・スリラーでありつつ、「敵のアジト」「自殺した女性の足取りの謎」などを論理で解明するミステリでもあるのだ。舞台を箱庭のような都市ニューヨークに設定したことは、推理の範囲とアクションの場を限定する要素として見事に功を奏している。  リー・チャイルドは(大のミステリ・ファンだからか)律儀な推理要素を毎度ぶちこむ作家だったが、本作での「ミステリ作家としての律儀さ」はいつも以上の密度。陰謀劇の核心にもミステリ的な驚きがちゃんとある。チャイルドのミステリ作家としての腕は、ディーヴァーやコナリーと同格の注目を受けていいと思う。(ただし下巻の帯は事前に読まないほうがいいです)

 リーチャーはまるでエラリイ・クイーンの頭脳をもつグレイマン。シリーズ中でも『アウトロー』などを超える傑作だと思う。どうですか北上次郎兄貴、これでもリー・チャイルドに不満ですか。

 

酒井貞道

『指差す標識の事例』イーアン・ペアーズ/池央耿・東江一紀・宮脇孝雄・日暮雅通訳

創元推理文庫

 物量上の大物だけ拾っても『三分間の空隙』『死亡通知書暗黒者』も出て、その上でヘニング・マンケルまで登場した8月は、「こんなもん絞れるわけないだろ!」状態でしたが、ここでは一作だけしか挙げられないので、私はこれを推します。こういう荘重な雰囲気の歴史ものは大好物な上に、手記の書き手が四人もいて全員が「信用できない語り手」で、刺さる人にはこれ以上ないぐらい刺さります。しかも、手記を手分けして訳出するために、翻訳者を四人も採用しています。また名訳者が揃っていて、それぞれ雰囲気たっぷりに訳してくれていて、贅沢極まりないんですよね。この作品の訳出は恐らく「プロジェクト」と言っていいぐらい手間がかかったはずで、そこにかけられた労苦を思うとちょっと感慨に耽ってしまいます。いや勝手な推測なんですが。そして肝心の内容も、ミステリとして上質で、文句ありません。「信用できない語り手」を上手に書けた時点でミステリとしての成功はある程度は約束されるものだと思いますが、明らかにそれに留まっていないのが素晴らしい。というわけで私は『指差す標識の事例』を推しますが、ストレートに物語の奔流に呑まれたい場合は、『三分間の空隙』かなあ……。『噂 殺人者のひそむ町』も、これらに比べると小粒ではありますが、なかなか良かったと思います。いやホント止めて、一か月に固め打ちするの。

 

吉野仁

『指差す標識の事例』イーアン・ペアーズ/池央耿・東江一紀・宮脇孝雄・日暮雅通訳

創元推理文庫

 

 十七世紀イングランド、オックスフォード大学で起きた毒殺事件について書かれた四つの手記が織りなす四部構成の歴史ミステリ。なのだが、まずは医学を学ぶヴェネツィア人コーラによる最初の手記にひきこまれた。医学や科学をはじめ、さまざまな「近代」の萌芽が見られる時代ならではの思考と発見の興奮が感じられる。一種のビルディング・ロマンスか。しかしがらっと変わって予想もつかない転調を見せる第二第三の手記はなかなか手強い。それでもラスト第四で驚かされた。すべてを知ったうえでまた最初に戻って確認したくなる面白さ。「魔女」めいた女性サラと彼女をめぐる浅はかな男たちのゆくえをたどる展開の妙、単に語り手が変わるだけでなく、それぞれ世界や他人を見たいように見ようとしている思考の偏りを明らかにする記述のいやらしさなど読みどころが多すぎる。イーアン・ペアーズの他の作品もぜひぜひ読みたい。そのほかヘニング・マンケル『苦悩する男』は、刑事ヴァランダーにとっての最後の事件を扱った作品だ。あらためて作者の小説世界を堪能しただけでなく、この男の物語、すなわち押し寄せる試練にヴァランダーがどんな思いを抱き、どう向き合うのかという話をもっともっと読んでいたい。残る『手』の翻訳を待つばかり。

 

杉江松恋

『笑う死体』ジョセフ・ノックス/池田真紀子訳

新潮文庫

 大河シリーズの実質的な最終作とか、超話題作の続篇とか業界の人間なら誰もがあれはどうなった、と気にしていた作品だとか、そういうものがどんどこどこどこ出てくるのがこの時期で、今年は「このミステリーがすごい!」の投票時期が早くなった(のです)せいもあって、すでに読まなければならない本の在庫一掃モードにみんな入っているわけである。そんな中で割を食っちゃうかもしれないのがこれ。自分が解説を書いているということで気が引けるのだが、やっぱり書いておこう。何べんも書いてきて気が引けるが、マンチェスター市警エイダン・ウェイツ・シリーズは、探偵の知り得たことを読者にいかにフェアな形で伝えるかという謎解き小説としての試みと、主人公が自分自身と対話しながら抱えている心の負債に立ち向かっていくという一人称犯罪小説の様式とが理想的な形で結合した実に先端的な小説なのである。アイルランド出身作家のエイドリアン・マッキンティがやっていることを、さらにもう少し闇深くしたような文学的主題にノックスは取り組んでいて、今の英国作家ではこの二人に注目しないと駄目なのではないかと思う。突如登場したこの若き才人が、以降どういう方向に進んでいくのかとても気になる。『笑う死体』はフーダニットの謎解き小説要素と悲劇の匂いしかしない犯罪小説の要素とが並行しながら進んでいく構成の小説で、途中にそれが「げっ」と驚く形で交錯する。「あっと驚く」じゃなくて「げっ」なのは、そういう展開にした後に何が起きるかは読者にも薄々わかるからで、事後従犯にでもなったような気分で小説の後半を読み終えることになったのであった。なんというか、この巻き込まれる感じは他の作品にはないものだと思う。読むと気になって仕方なくなるのだよね。

この他忘れてはいけないのは小森収編『短編ミステリの二百年3』が出ていることで、ついに「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」のコンテストへの言及が行われた。この巻の記述を見ると、次の『4』で小森の考える短篇ミステリーの理想形が示されるのではないかという予感がする。とんでもなく価値のある評論を含むアンソロジーなので、ぜひ多くの人に読んでもらいたい。ミステリーではないがミン・ジン・リー『パチンコ』は移民小説として抜群におもしろいのでこれまたお薦め。

おそらくはこの中から年間ベストが出るのだろうな、という話題作揃いの八月でした。ニッパチとか関係なくどんどん出ますね。おそらくこのままの勢いで九月も推移すると思います。足りなくなる睡眠時間にも気を付けつつ、読みまくらねば。ではまた来月お会いしましょう。(杉)

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧