旅行気分を思いだしたくて、20年近く眠っていた本を書棚から発掘。旅先のチャリング・クロス・ロードに〈マーダー・ワン〉の実店舗がまだあった頃、購入したハードカバー “Bloodless Shadow”(2003)、探偵ものです。表紙にSigned by the Authorのシールが貼られたサイン本であることにつられて手に取ったのだと思う、たしか。

 サム・ファルコナーはロンドンで失踪人捜索専門の〈ジェントル・ウェイ探偵事務所〉を経営する探偵。事務所名が匂わせているとおり、柔道の女子48キロ級の元世界チャンピオン。パートタイムで助手を務める元警官や、タバコの密輸で小遣い稼ぎをしている年金暮らしの隣人、ぽっちゃりした飼い猫といった愉快な面々にかこまれて、現在はそれなりに快適。ただ、先日、行方不明だった4歳の少女を悲しいことに変わり果てた姿で発見することになり、その記憶はかなりあとを引いています。

 サムと仲のよい兄の紹介で、オックスフォードから新規クライアントのオコナーが訪ねてきます。失踪した妻を探してほしいと。彼女は1泊のロンドン出張の帰りに子供たちを学校に迎えにくるはずが姿を見せず、行方知れずとなっていました。オックスフォードでの調査が必須になるため、実家のある街にあまり帰りたくないサムは気乗りしないけれど、兄の紹介では断れない。ロンドンでの失踪人の関係者への聞き込みと、3年ぶりの帰省でオックスフォードでの調査を始めますが、夫妻共に評判がよくて失踪の原因らしきものはなかなか見えてこない。実家は避け、カレッジ住まいの教授である兄の元で世話になるサムだけれど、もうひとつの帰省したくなかった理由には会うしかありません。しょーもない理由で別れた元恋人が今度の失踪事件の担当刑事だから。厄介なのは、絶対に許せないと激怒したはずのに、彼を嫌いになりきれない自分がいること。

 恋人との一件もそうですが、サムは理不尽なことに対してずっと戦ってきました。4歳のときに軍人だった父が殉死して、母とあたらしい義父に押しつけられた息の詰まるような生活で、やっと自分の居場所を見つけたのが柔道。母たちは一度も応援に来たことがありませんし、一度も父の墓参りに行ったことがありません。父のように戦うことが自分の生きかただと考えて、父の形見の認識票をいまでもお守りにしています。そんなサムの元に、自分のことを許してほしいと父を名乗る者から手紙が舞いこみます。

 本書は主人公サムと同じように、オックスフォードのカレッジで育った著者ヴィクトリア・ブレイクのデビュー作で、サムを始めとして人物造形と舞台の設定が抜群にいいのです。サムの主張にうなずきたくなる人は大勢いそうだし、ロンドンとオックスフォードの描写も本で旅している気分になれます。事件の謎解きの部分より、サムの人となりや私生活のほうにやや重点が置かれているかなという感想はある。現在のところシリーズ4作目まで刊行されているので、2作目も読んでみるかなと思ったんですが、著者のノンシリーズ作品の紹介に「捕虜収容所で出会ったイギリス軍士官ふたりが、1冊のノートに交互に文章を綴ることにする。ひとりは帰国することがなかった。時を経て、ふたりの子孫は戦時中、なにが起こったのか真相を突きとめようとする」という本があって、これ、めっちゃおもしろそうじゃないですか? というわけで、今回は広義のミステリ “Far Away”(2015)と二本立てにしますね。

 1942年、北アフリカ戦線で捕虜となったイギリス軍士官のハリーとマイケルは、移送先のイタリアの収容所で出会います。ハリーは労働者階級出身で苦労して教師になった人物。書くことが生きがいであり、戦前に念願の作家デビューを果たしミステリを刊行したところで、子供むけの本も待機中、人とあまり打ち解けない性格。一方、マイケルは恵まれた環境で育ち、オックスフォードで法律を学んでいた若者で人なつこい性格。ノートを手放さずいつも熱心に創作を続けるハリーに興味を抱いたマイケルは、もっと彼を理解したいと考え、話の流れで、同じノートの左右を使ってそれぞれ自分の好きな話を交互に書く、と取り決めてしまいます。

 マイケルが書いたのは、戦争が始まってからの故郷でのエピソードや海外にやってきてからの自分の体験談。歴史家の父に文章の手ほどきを受けた彼は、事実を躍動感のある筆致で描くことができており、彼のことを坊ちゃんで浅いと思っていたハリーは見直します。
 ハリーが書いたのは、森で母に産み落とされてカラスの群れに育てられた少女ペルジャーを主役にしたファンタジー。この第一話を読んだマイケルは、架空の話であるというのに、ハリーの物語はハリーの孤独感などハリーの訴えたいことが伝わってくる、自分には書けない文章だと感銘を受けます。

 衛生状態が悪く食料も不足と厳しい環境で、ふたりの友好は深まります。家族から届いた手紙を見せ合い、相手の家族のことを自分の家族のことのように知るようになります。イタリア国内で一度、別の収容所に移されたのち、今度はドイツに移送されるらしいと噂が広まると、収容所生活に耐えきれなくなっていたハリーとマイケルは同じ宿舎の仲間たちと脱走の計画を立てるのです。

 予感どおり、めっちゃおもしろい1冊でした。1942年から1944年にかけての収容所での物語に、ハリーのファンタジーとマイケルの手記が挿入され、後半には現代のパートも入るという構成。アフリカの砂漠の美しさと過酷さ、イタリアの田園風景、捕虜たちの生活の細部も読み応えがあるし、前半でご紹介した “Bloodless Shadow” に小さじ1杯だけ幻想的な要素があるのですが、そこがこちらの作品のカラスに育てられた少女の物語に豊かに実っている。
 書くことに制限はなく、書くことで自由になると語る捕虜ハリーにはモデルがいます。ダン・ビラニー、“The Opera House Murders”(1940、米版タイトルは “It Takes a Thief”)など数冊の著作を残している作家です。ヴィクトリア・ブレイクはまず父親から聞いた話を書こうと考えたのが本書の着想だったそうです。父親というのはイタリアの収容所から脱走し、レジスタンスたちの助けもあって無事に帰国できた人で、著者はリサーチ中にダン・ビラニーのことを知り、同じミステリ作家として共感を覚えた彼の話を織りこんでオリジナルの物語に仕立てたとのこと。次はダン・ビラニーを読んでみようかな。

三角和代(みすみ かずよ)
訳書にカー『死者はよみがえる』(近刊)、パウエル『ウォーシップ・ガール』、トルーヘン『七人の暗殺者』、リングランド『赤の大地と失われた花』、タートン『イヴリン嬢は七回殺される』他。ツイッター・アカウントは@kzyfizzy

●AmazonJPで三角和代さんの訳書をさがす●
【原書レビュー】え、こんな作品が未訳なの!? バックナンバー一覧