「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?
そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)
ペンネームを複数持ち、名義ごとに作風を変えているという作家は古今東西多いようです。
ミステリーの世界ではエヴァン・ハンター=エド・マクベイン、ドナルド・E・ウェストレイク=リチャード・スタークあたりが有名でしょうか。
この二例はどちらのペンネームも並行して使用していた作家ですが、あるタイミングで改名して、以降は新しい名前と作品で活動をしていくという場合もあります。
今回紹介するウィット・マスタースンがそうです。
マスタースンは、ボブ・ウェイドとビル・ミラーという二人の男の共作用ペンネームなのですが、彼らが1946年のデビュー当時使っていた筆名はウェイド・ミラーというものでした。1955年にウィット・マスタースンに改名し、その後はこちらの名前を使いつづけたようです。他に、デイル・ウィルマーという名前でも作品を発表しています。
ミラー名義はハードボイルド、マスタースン名義は警察小説と、よく言われています。
たとえばミラー時代の『罪ある傍観者』(1947)は私立探偵小説です。妻に逃げられ、酒に溺れる負け犬のような探偵マックス・サーズデイを主人公にした作品で、発表後、人気を博してシリーズとして第六作まで続いたとのことです。
対し、マスタースン名義の代表作『非常線』(1955)『ハンマーを持つ人狼』(1960)は、犯罪者に対し、警察が組織としてどう立ち向かっていくかという小説で、いずれも警察小説の古典として名高い逸品です。
成る程、ジャンルを転向した作家なのだな、と納得してしまうのですが……そうなった時、引っかかることがあります。
『黒い罠』(1956)という作品の存在です。
年代から分かる通り、マスタースン名義での作品なのですが、この作品、警察小説ではないのです。
組織には属しているものの、たった一人で捜査に挑む孤独な男の物語で、粗筋だけならミラー名義のハードボイルドと言われた方がしっくりくる。そんな一作です。
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ミッチェル・ホルトは将来有望と目される地方検事補だ。
暗黒街のボスの検挙に成功し名を挙げた彼が、上長である地方検事に次に依頼されたのは、木材鉄器会社の社長リネカーの爆殺事件の調査だった。
といっても、既に事件の捜査には幾つもの難事件を解決してきた名刑事マッコイとその相棒クインランという有名人が出馬しており、ホルトはあくまで街の名士の爆殺事件に検察も力を入れているということを見せるためのお飾りのようなもの。
現に、ホルトが何かをする前に、マッコイとクインランは独力で容疑者を挙げてしまった。
これで一件落着だと思われたが……しかし、ホルトは事件をそこで終わらせることに納得がいかなかった。マッコイたちが捕まえた容疑者が犯人だとはどうにも思えない。
ホルトは一人で調査を始めたが、その先には幾つもの危険が待ち受けており……というのが本書の導入部となります。
要所要所で意外な展開を盛り込んでいるタイプの物語ですので、これ以上先の詳しい筋を紹介することはできないのですが、重要なのは、ホルトが上長である検事とも、チームメンバーであるマッコイとクインランとも対立する立場となり、たった一人で事件に挑むことになるという点でしょう。
この構図は、『非常線』『ハンマーを持つ人狼』とは明確に違います。
これらの作品にも、登場人物が単独プレーで捜査を行うシーンはありましたが、いずれも警察という組織としての捜査というところに重きを置いており、ローンウルフの奮闘だけで一編仕上げている本書とは趣がガラリと異なります。
これはミステリのサブジャンルとしては、いかにもハードボイルド的な構造です。上で書いた通り、ミラー名義で書いていたものに近いストーリーであると感じます。
ミラーからマスタースンに変わった第一作ならともかく、『非常線』など何作か発表した後の作品だというのに、先祖返りをしてしまったのでしょうか?
結論から言うと、そういうわけではありません。
本書はいかにもミラー的な粗筋の物語を、マスタースン的に書いている作品なのです。
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ミラー的、マスタースン的という言葉を先に使ってしまったのですが、両名義の作風で具体的に何が違うのでしょうか。
実は、ハードボイルドか警察小説かといった形式的な区分とは別のところにその差があるように思います。
二つの名義で決定的に異なるのは、悪を裁くのは誰か、という部分です。
ミラー名義の主人公は時に、私刑を肯定します。
『殺人鬼を追え』(1951)が分かりやすいでしょう。
アフリカ在住の主人公ファーロウが旧友の息子の敵討ちを依頼されるという物語で、ストレートな筋でグイグイ読ませるクライム・ノヴェルの佳品です。
この作品は久保書店から訳出された際、訳者である三条美穂(片岡義男の別名)が結末を大幅に改変していることでも知られていますが、三条によるものでも、原書通りでも、主人公は最終的な決断を公的な機関に任せません。自分自身のルールで裁くのです。
『罪ある傍観者』のサーズデイも、ファーロウほどはっきりとはしていないものの、「裁くのは俺だ」という精神を感じます。彼も、目的を果たすためにはダーティな手を使うのを厭いません。
許す、許さない。裁く、裁かない。
こういったルールを自分の中に置いているのがミラー作品の主人公であり、それに沿っていれば自分自身の手を汚そうが、何をしようが構いません。
対し、マスタースン名義の作品では、そのラインが主人公たちの外に置かれています。線引きに使われているのは、法律という誰にでも平等のルールです。
『ハンマーを持つ人狼』では、警察官たちは仲間殺しの義憤に燃えるものの、犯人を私刑しようとは決してしません。
ここがミラーとマスタースンの最大の違いではないでしょうか。
そして、『黒い罠』の主人公ホルトは、いくら単独行動をしていても、守ろうとしているのはあくまで法律なのです。
その意味で、彼はまさしくマスタースン的な主人公といえるでしょう。
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『黒い罠』はホルトと対立する相手であるマッコイとクインランのベテラン刑事コンビのキャラクターがひときわ強烈な印象を残す一作なのですが、その理由も、実はこのミラーとマスタースンの違いの部分にあるように思います。
マッコイとクインランの二人は、実は、非常にミラー的なキャラクターなのです。 捜査の手順や法律といった、自分の外にあるものではなく、勘や経験という自分の中にあるものを優先させる。そこから導き出した結論のために、ルールを逸脱することも構わない……ファーロウやサーズデイと似た造形である、と言ってしまって良いでしょう。
つまり、『黒い罠』はミラー名義とマスタースン名義、それぞれの作品世界の主人公の対立、そして対決の物語なのです。
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以前、この連載で異色作と呼ばれる作品をいざ読んだ時、むしろ、いかにもその作家の特色が出た作品じゃないかと思うことが多々あると書いたことがあります。
『黒い罠』もそうした異色作の一つでした。
この名義としては異色で、一見ミラー作品のように思えるけれど核となっている部分は非常にマスタースン的。そんな作品ではないでしょうか。
この作家を語る上で欠かすことのできない一作だと感じます。
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小野家由佳(おのいえ ゆか) |
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ミステリーを読む社会人四年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby。 |