そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)
他人事ではない。
ヒラリー・ウォーの小説を読む時、いつもそう感じます。
書かれてからもう何十年も経つ、それも海を越えた土地での話だというのに、迫ってくる現実感がある。
彼の作品のリアリティはどこから来るのだろう。
この疑問に答えを見つけたのは二〇一七年に訳出されたチャールズ・ボズウェル『彼女たちはみな、若くして死んだ』(1949)を読んだ時でした。ウォーが多大な影響を受けたと語ったことで知られる犯罪実話集です。
成る程、読み心地がとても似ている。
その犯罪が起こったのはどういう人たちが住むどのような場所なのかをまず語り、その後、主に市井の人の眼を通して事件の経緯を綴っていく。
スキャンダラスに書きたてはしません。
「ここに事件があるぞ」と言うだけです。
その淡々とした語り口がむしろ迫力を生んでいる。
どこででも起こり得ると誰もが分かっているけれど、同時に、でも起こるのは自分の身の周りではないだろうと誰もが思っているような事件を「君の傍で起こるよ、ほら」と突きつけてくる。
読み終えて、確かにこれはウォーの源流だと感銘を受けました。
ボズウェルの書きっぷりは、そのままウォーのミステリへ繋がっています。
ウォーがボズウェルの文にショックを受けたように、僕らはウォーの作品にショックを受ける。これは、自分に起こりかねない、というより、起こる話だぞ、と国も時代も超えて胸を射抜いてくる。
特に今回紹介する『この町の誰かが』(1988)なんて、今の時代の我々にこそ響く一冊です。
僕の話であり、あなたの話です。他人事ではなく。
*
クロックフォードは、平和で平凡な町だ。
ちょっとした悪さをする者はいても、悪党なんて一人もいない。進歩的な住人が多くて差別らしい差別はない。大きな事件なんて一度も起こったことがなかった。
その日、サリー・アンダーズが死体で見つかるまでは。
十六歳で、嫌う人なんて誰一人いないような女子高校生だった。そんな彼女が殺された。暴行されて、頭をハンマーで叩き潰されたのだ。
町の誰もが思った。こんな酷いことをやれる人間がこの町にいるわけがない。……よそ者の仕業だ。
いかにもウォーらしい冒頭だ、と彼の作品を読んだことがある方なら思うのではないでしょうか。郊外の町で起こった少女の死あるいは失踪というのはこの作者が好んで扱ったテーマです。
ただ本書はウォーの他の作品と大きく異なる点があります。
警察小説ではないのです。
刑事や警官は登場しますし、彼らは事件の捜査も行いますが、フェローズ署長やダナハー警部とマロイといった、ウォー作品の大半の主人公たちのように出ずっぱりではありません。
本作はドキュメンタリー・タッチの小説で、インタビュアーが事件の関係者に聞き込んだことを綴っていくという形式をとっているのですが、刑事も警官も、あくまでインタビューを受ける関係者の一人として描かれます。
更に言えば、このインタビュアーが謎を解く主人公というわけでもありません。自分の意見や感想を述べることすらほとんどないのです。
この本の主役は、事件に揺れる町そのものです。
平和で平凡だったクロックフォードでの生活が、一人の少女の死によって段々と歪んでいく様子を描く小説なのです。
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本書は謎解き小説の構造をとっています。
少女を殺した人は誰かを捜していくのがメインの筋です。
けれど、上に書いた通り、この作品は警察小説ではないしインタビュアーが謎を解く話でもない。
犯人捜しに挑むのは、正義感に燃える善良な町の住人たちです。
彼らの推理は、とてもじゃありませんが論理的なものとは言えません。
町の噂レベルの「あいつがああしているところを見た」といった証言や「あいつが怪しい」といった憶測が、伝言ゲーム式に膨れ上がり、いつの間にか「あいつが犯人に違いない」という断定へ変わってしまっているといった具合です。
最初は一致団結していて、この町の意志が一つの方向、即ち幹線道路を通ってやってきたよそ者が犯人に違いないとまとまっているのですが、中盤で彼らは方向転換を余儀なくされます。よそ者ではなくこの町の誰かが犯人らしいと知り、疑いを向ける先が内側へ変わる。
ウォーの作品といえば、仮説を立てては崩し、聞き込みをしては空振り、というトライアル・アンド・エラーがお馴染みです。
本書もその例に漏れません。
ただし、この作品では特権的な地位にいる探偵役の捜査ではなく、町の人々それぞれが暴走していくという形でトライアル・アンド・エラーが繰り返されます。
あいつが怪しい。何故ならよそ者だからだ。あいつは信用ならない。何故なら女だからだ。あいつが犯人だ。何故なら黒人だからだ……住人たちは、町の中にいるはずれ者をあてずっぽうに疑っていきます。
差別も偏見もなかったはずの町で、紛れもない差別や偏見があちらこちらで発露する。
限界まで達した疑心暗鬼が生む異様な緊張感を、作者は見事な手つきで描き切ります。
ウォーの作品の中でも最も後期に当たる一作ということもあり、まさしく熟練の筆さばきで綴られるストーリーには緩むところが一切ありません。
初読の時、夢中になって一気に読み通し「平和で善良に見える町の裏にこんな問題が隠れていたなんて」と満足のため息を吐いたことをよく覚えています。
それからすぐにハッとしたことも。
ちょっと待て。今、心の中で「差別をするような彼らは僕とは違うタイプの人間だ」と線を引いてしまわなかったか? それで関係ない話だと胸をなでおろしていないか?
自分とは違う属性の人間が犯人だと決めつけて安心を得ようとしていた、この本の登場人物たちのように。
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本作で最もゾクリとさせられるのは、町の住人たちがそれでもやはり、進歩的で善良な人であることです。
彼らは言います。「確かに俺はあの黒人が怪しいと言っているが、それは彼の人種のせいじゃない」「私があの男を追い出すことを提案しているのは彼が怪しいと思っているからじゃない」
勿論、これらは言い訳ですが、同時に彼らが「差別や偏見はいけない」という意識がちゃんとある人間であることを示しています。
読みながら感じます。もし、サラがあんな形で殺されなかったら、こんなこと絶対に言わなかっただろう。心の奥底で抱えていたものを噴出させず、平和に仲良く暮らし続けていただろう。
……僕には、彼らを糾弾することはできません。
確かに、少なくとも今は、僕はそういうことはしない。思わない。
でもそれは平和だから、そういられるだけじゃないか? そんな気がしてしまうのです。
他人事ではない。
ウォーの小説を読む時いつも覚えるこの感触が、本書はひときわ強い。
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『失踪当時の服装は』(1952)をはじめとしてウォーの小説の邦題は印象的なものが多いですが、中でも『この町の誰かが』は最も秀逸なものの一つだと思います(原題はA Death in a Town)。
住人たちの中での疑心暗鬼を示すと同時に「自分ではない〈誰か〉のせいで……」という他人事のニュアンスもある。
このタイトルを見るたびに、頭の中で警鐘が鳴ります。
誰かが、じゃないんだぞ。これはお前自身の話だぞ、と。
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小野家由佳(おのいえ ゆか) |
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ミステリーを読む社会人四年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby。 |