新年明けて一回目の読者賞だよりです。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
今回は、クォン・ヨソン『レモン』(橋本智保訳 河出書房新社)を紹介する。クォン・ヨソンの作品はこれまでに、酒に魅入られた人々の悲喜こもごもを描いた酒類文学の秀作『春の宵』(橋本智保訳 書肆侃侃房)という短編集が刊行されており、私のなかでは完全に「酒作家」という位置付けになっていたのだが、この『レモン』は帯によると「哀悼と報復のサスペンス」だという。ならば読まなければということで手に取ったのであった。
2002年の夏、国じゅうがサッカー日韓ワールドカップに湧いているさなか、ヘオンという名の女子高校生が公園で死んでいるのが発見される。頭部を強く殴打されたその遺体はとても美しかったため、「美貌の女子高生殺人事件」とも称されたこの事件の捜査線上には、被害者の同級生だった男子二人が容疑者として浮かび上がっていた。
事件当日、ハン・マヌはアルバイト中、容疑者の一人であるシン・ジョンジュンが運転するSUVの助手席にヘオンが乗っているのを、配達のスクーターに乗ったまま目撃していた。ハン・マヌは、このときのヘオンの格好を「袖なしに半ズボン」だったと証言。しかし、SUVの助手席に乗った人間の下半身を、スクーターに乗ったままで外から目視できるのかという点を突かれると、供述があいまいになり、第二の容疑者とされてしまう。一方シン・ジョンジュンは、ヘオンを助手席に乗せたことは認めたものの、犯行の時刻には明らかなアリバイがあった。こうして、決定打が得られないまま、事件は容疑者が二人いたにもかかわらず未解決となってしまった。
事件から4年後、被害者ヘオンの同級生であったサンヒは、図書館の階段を降りているとき一人の女子学生とすれ違う。それは高校の文芸部で親交を深めた、ヘオンのふたつ年下の妹ダオンだった。ダオンは事件のあと転校しており、サンヒとは久しぶりの再会だったが、彼女にはダオンがまるで別人に見えた。高校のころは姉と比べて容姿も体型もまるでパッとせず、しかし姉とは正反対の明るさを持つ子だったのに、目の前にいるダオンはすっかり痩せてしまってどこか陰のある、まるでヘオンになってしまったかような佇まいを見せていた。ダオンは自ら、整形を繰り返したことをサンヒに告白する。まるでヘオンになろうとしているかのごとく整形とダイエットを繰り返すその真意がサンヒにはわからないまま、二人の短い再会は終わりを告げる。別れ際、ダオンはサンヒに、ユン・テリムの所在を尋ねる。サンヒにとって同窓会で会う程度の関係でしかないユン・テリムの所在を、なぜダオンが尋ねるのかはわからないままとなってしまった。
ヘオンの死後、ダオンと母はその不在から逃れるために引っ越しをし、生活を変えた。しかし二人の苦しみがそれで消えることはなかった。姉の面影を妹に求める母と、それに応じようと姿かたちを姉のように変えていくダオン。二人は徐々に、自分たちでも気づかないほどゆっくりと堕ちていった。事件から8年。母の求めに応じてヘオンになろうとしたダオンは自分の人生を見失っていた。母から離れ、自分が誰として生きていくのかを決めるために、ダオンは容疑者の一人であったハン・マヌと会うことを決心する。
本作は、殺人事件の真相よりも、事件にかかわった人々の人生にフォーカスされているのが大きな特徴である。殺人事件に絡む人々の喪失感とそこからの再生を三人の女性の視点から描き出すという作りになっているのだが、章ごとに変わる語り手やその配置などたくらみに満ちており、謎解きとは異なる意味でミステリアスな雰囲気をたたえた作品となっている。
ハン・マヌと会ったダオンは、彼が病によって片方の足を切断していたことを知る。有力な容疑者であるにもかかわらず逮捕されることもなく裁かれることもなかったハン・マヌに対して、ダオンはそのことを「天罰」だと思う。しかし彼の「半ズボン」証言の真実を聞いたとき、彼女の心境に変化が表れる。その後もダオンはハン・マヌの元を訪れ、何度も何度も同じ話を聞き、ハン・マヌは何度も同じ内容のことをダオンに話す。五度目の訪問のとき、ダオンは、足を切断するもととなった病名を聞かされた。病気のことや彼ら家族の境遇のことを聞き終えたとき、彼女には自分が何をするべきなのかが明確になった。
複数の視点で進む物語の中心にいるのはダオンだ。彼女の絶望と再生がさまざまな視点から描かれるわけだが、そこから立ち上ってくるのは被害者と加害者、善と悪という対立を超えたところにある救済についての哲学的な問いかけだ。そのことはたとえばもうひとりの語り手、ユン・テリムの章からも伺える。
事件から8年後、テリムは、事件後にアメリカ留学し先ごろ帰国した同級生と結婚し、子供を授かる。この章は、自らを篤実なクリスチャンと称するテリムの、カウンセラーとの対話で構成されており、このなかでは、テリムと事件の関わりや彼女が結婚後に見舞われた不幸が、ある種の狂気を持って描かれる。神を信じ、自分に降りかかる不幸すら神の意図したものだと解し、すべてを受け入れると言いながら、カウンセリングを受けている矛盾にテリムは気づいていない。
一方、ダオンはサンヒに対して、神を信じられないと告げる。ヘオンの死を経て、またハン・マヌの境遇に触れて、ダオンは神を否定する境地に至る。テリムが受け入れようとしている「神の意図するもの」、つまり神の摂理をダオンは神の無知だと喝破する。だとすれば、この世を生きるうえで私たちに与えられるあらゆる苦しみは、いったい何によって救済されるのか、という問いかけが、この作品の大きな幹となっている。
もうひとつ、本作では「詩」が重要なモチーフとなっている。つい先日おこなわれた米国大統領の就任式における、アマンダ・ゴーマンの力強い朗読も記憶に新しいところだが、本作でもダオンが、テリムが、サンヒが、それぞれ詩を生きる縁とする様子が描かれていて、詩の力を信じている著者の姿勢が強く表れている。そういえば、著者あとがきも「詩」である。これはぜひ本作を読み終わったあとに味わっていただきたい。
大木雄一郎(おおき ゆういちろう) |
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福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。 |