そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)
トマス・ウォルシュについては、『危険な乗客』(1959)以前と以後で分けて論じなければならないのではないか。
今回ウォルシュについて書こうと決めて、彼の長編六作を発表順に通読してみたのですが、読みながら、ふと、そう感じました。
処女長編である『マンハッタンの悪夢』(1950)から何度も書こうとしてきたものについて完成形となる『危険な乗客』を上梓し、そのあとは幅を広げて違う形式の話を書くようになった。第七長編以降は訳されていないので何とも言えないのですが、少なくとも『脱獄と誘拐と』(1962)までの六作を統括すると、このような結論になります。
あえて乱暴な言い方をするのですが『マンハッタンの悪夢』から『危険な乗客』までの四作は、ほぼ、同じ話です。
自分の職業上の責務から、或いは巻き込まれた状況から事件について責任を持って関わらざるを得なくなった熱血漢と、その場その場の判断で動くせせこましい小悪党の二人の追いかけっこを三人称複数視点で多面的に描いていく。駅やホテルなど、作品によって異なるがニューヨークの街中にある大きな建物の中だけでほぼ舞台が完結する。その他、登場人物の関係性や役回りなどもほぼ同様です。
これが悪い、と言っているわけではありません。
同じモチーフや構造の話を何度も書いて完成度を高めていくというのは、ジャンルを問わず多くのクリエイターがやっていることです。ウォルシュの場合、第一作の『マンハッタンの悪夢』の時点で今なお読ませる佳品なのに、そこから一作追うごとに更に洗練の度合いが上がっているわけで、むしろ賞賛に値するというべきところでしょう。
そして『危険な乗客』は実際に、上記の初期ウォルシュ流の集大成と言える作品に仕上がっているのです。
まず、事件の犯人を含む複数視点で描くことにより、彼ら彼女らの認識の食い違いや勘違いを読者にだけ知らせてサスペンスを生む手法が冴えに冴えている。それまでの作品だとイマイチ弱かったヒロインのキャラクターや心理描写もしっかりしています。何よりも小悪党の哀れさを拾い上げるラストシーンが前三作にはなかった味を生んでいて良い。
この形式で書けるだけのことは書き切ってやる、というウォルシュの気合を感じるような力作です。
作風の転換それ自体は、ウォルシュの小説と影響を相互に与えあっていたフィルム・ノワールの時代が過ぎ去り、求められる作品が変わっていったという理由があるのではとも思いますが、一方で同じパーツを使ってこれ以上のものはもう書けないだろうと思わせるほど『危険な乗客』の完成度が高いのも確かです。
この後の二長編はそれまでの作品にみられた構造や要素をほぼ排して組み上げられていますが、そこには別の道でないと『危険な乗客』は越えられないという自負もあったのではないでしょうか。
特に第五長編『針の孔』(1961)は『危険な乗客』的な形式では絶対に書けなかった世界を描く一作です。
この作品こそがウォルシュの最高作だと思います。
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エディ・マクドナルド神父は、その夜、兄夫婦の家へ向かっていた。
夫婦喧嘩の仲裁……離婚をしようとしている兄フランクを説得することが目的だったが、彼の足取りは重かった。二十七歳という若さのせいか、そもそもの性格のせいか、エディには、浮気をしていると堂々と言う兄の態度が理解できなかったし、ヒステリックな義姉キティの相手をしなければならないのも考えるだけで憂鬱になる。
家の近くまで来たところでエディの横を二台の車が走り抜けていった。二台目の方は、兄の車だ。
どうも様子がおかしいと、早歩きで兄の家に到着したエディを出迎えたのは、キティの死体だった。
エディはその場に崩れ落ちる。違う! そんなわけない! フランクが彼女を殺したなんて!
『危険な乗客』までのウォルシュ作品を念頭に置いて読み始めると、まず目を惹くのはストーリーを語る視点がエディ一人に固定されていることでしょう。
舞台となるのも兄夫婦の住む一軒家と異色です。地下鉄駅から歩いていける住宅地ですから、ニューヨーク州であることには変わりはないでしょうが、駅やホテルといった、色々な立場の人が出入りする巨大建造物とは趣が大きく異なります。
登場人物の関係性や役回りも全くもって違います。エディは熱血漢ではありませんし、彼をサポートするヒロインも、わかりやすい小悪党も出てきません。
まさに前作までとは何もかも変わった作品といえるのではないでしょうか。
このように物語の要素を一新した理由は明白です。エディという、たった一人の人物の心理の揺れ動きを深く、深く掘り下げていくためです。
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『針の孔』は、エディがフランクを殺人犯だと告発するべきかどうかをひたすらに悩む。それだけの小説です。
こう書いてしまうとちょっと退屈そうに聞こえてしまうかもしれませんが、読んでみると全くもってそんなことはありません。
そもそもウォルシュは自分自身の良心と向き合う人間を描くのが非常に上手い。たとえば本書以前の作品『暗い窓』(1956)で最も感動したのは詐欺のために偽僧正を演じることになったが、本当にこれで良いのかを逡巡する飲んだくれの男のパートでした。
複数視点の内の一パート分の枚数で読者の心に残る心理描写を書けた作家が長編一冊分の分量でそれを描くのですから、つまらなくなるわけがありません。
本書は序盤から終盤まで、気を緩めるところが一切ないほどスリリングに読ませます。
とにかく、エディをジレンマに陥らせるのが上手い。
そもそもが兄が妻を殺してしまったらしいという時点で、一人の人間として、神父という職務として、どうするか悩まざるを得ない状況です。
そこで、敵役としてブレスナハンという嫌味な刑事が登場し、エディを責め立てる。
この刑事が駆使する口を割らせるための的確な作戦、また本当のことを白状しないと無実の少年が捕まってしまうというシチュエーション、その上で彼に助けを求めてくるフランク……作者は、あの手この手でエディの心を抉っていきます。
ポイントとなるのは、繰り返すようですが、この小説がエディの視点だけで描かれていることでしょう。
本当にフランクが犯人なのか、そして、そのことにブレスナハンは勘づいているのか、他の関係者はフランクやエディのことをどう思っているのか。これらについて読者にも一切確信が持てない。故に、エディと同様に不安になってしまうのです。
最後の最後、エディが下した決断とその結果が明かされた時、ため息がこぼれました。
ネタバラしになってしまうので書けませんが、『危険な乗客』までのあの複数視点を書き切ったこの作者でしか書けない、鮮やかな決着が待っているのです。
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最初に書いた通りウォルシュの長編の邦訳は次の『脱獄と誘拐と』で止まってしまっているのですが、この後も六十年代に何作か長編を発表しているようです。ここまでの流れを踏まえると、七作目以降も挑戦的な意欲作を書いていたのではないか……と思えてなりません。MWAの短編賞を受賞した「最後のチャンス」だって、一九七七年とだいぶ後年の作品です。
トマス・ウォルシュ、一作ごとに自分が書くもの、書けるものにしっかりと向き合った誠実な小説家ではないでしょうか。
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小野家由佳(おのいえ ゆか) |
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ミステリーを読む社会人四年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby。 |