「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 ブライアン・ガーフィールドの小説は、長編も短編も、多かれ少なかれ〈ゲーム〉の小説であると言い切ってしまって良いと思っています。
 代表作の『ホップスコッチ』(1975)が分かりやすいでしょう。
 引退した元スパイが、古巣や敵国に対して挑戦状を叩きつけて、自分を追わせる。
 人は殺さない、ヒントを適時相手に与える、といったルールを自らに課し「これはゲームなんだ」と嘯く。世界に対して「鬼さんこちら」と煽って、そのまま逃げ切ってしまおうとする痛快な小説です。
 味方と相手がいて、ルールに則って、それぞれ勝利条件を満たすように動く……TVゲームやボードゲームといった遊戯そのものを扱うわけではないのですが、ガーフィールド作品はほぼ全ての作品において、このような形で〈ゲーム〉の構造をとっています。
 粗筋だけではその要素が汲み取れない『切迫』(1984)のようなサスペンス小説でさえ、主人公が「これはブラフだ。相手にコールされないようにしなければ」といったように状況をポーカーに喩えたりするのです。
 小説としてそうした構造を備えている、というだけではなく、登場人物自身が「これは〈ゲーム〉だ」と考えているところがポイントでしょう。
 この作者の小説において〈ゲーム〉とは「〈ゲーム〉のような小説になりました」という作者や読者にとっての結果ではなく、作中のキャラクターたちが世界や社会に対抗するために使う手段なのです。知らず知らずのうちに組み込まれてしまっている現実社会のルールを、自分自身で考えたもので塗り替える。それがガーフィールド作品における〈ゲーム〉です。
 だから、どんなに異常で現実離れした〈ゲーム〉が作中で行われても、どこか地に足がついている感じがある。登場人物の感情や熱がちゃんとそこに宿っているから、ただの虚構で終わらないのです。
 今回紹介する『砂漠のサバイバル・ゲーム』(1979)は、そうした〈ゲーム〉作品の最良の例の一つです。

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 あいつらに復讐してやる。
 キャルヴィン・ドゥガイはその思いだけを抱えて、精神病院から脱走した。
 数年前、ドゥガイは口論の末、仕事仲間五人を殺意を持って砂漠に置き去りにしたとして逮捕された。
 それで刑務所にぶち込まれるなら、まだ良かったと彼は言う。だが、四人の精神科医は鑑定の結果、ドゥガイを精神異常と判定し病院行きの憂き目に遭わせた。彼はそれが許せなかった。
 ドゥガイのターゲットは、勿論その精神科医たちだった。
 脱走後、彼はすぐに行動へ移る。
 四人を拉致し、彼らをトラックで砂漠のど真ん中へ運び、置き去りにする。ここまではあの事件と同様だが、それだけでは気が済まない。あの時以上に徹底した。放り出す時、四人から手持ちの道具は勿論、衣服すらも剥ぎ取る。
 真の意味で自分の身一つで、この砂漠で生き延びてみろ。それが、彼が四人に押しつけた〈ゲーム〉のルールだった。
 かくして、ドゥガイをゲームマスターにした、極限のサバイバル・ゲームが始まった!
 『砂漠のサバイバル・ゲーム』という邦題がなくても、即座に〈ゲーム〉的、そうじゃなくても漫画的であると感じる粗筋ではないでしょうか。『クリムゾンの迷宮』(1999)のようなデスゲームものや、漫画『MASTERキートン』の名エピソード「砂漠のカーリマン」を想起する人も多いでしょう。
 とにかく強烈でキャッチーなシチュエーションを用意し、そこに登場人物を放り込むことによって、読者の心を一気に掴む。
 「えっ、この先どうなるの?」と身を乗り出してしまうような導入部です。
 勿論、素晴らしいのは冒頭だけではありません。そうやって身を乗り出した読者の期待にちゃんと応えてもくれます。
 取り残された四人の精神科医が僅かな知識を活かして、極限状況下のサバイバルをしていく様子を、ガーフィールドは丹念に描いていきます。
 太陽が昇れば地表はすぐに灼熱の温度にまで上がる。それまでにしなければならないことは何か?
 当然、水は必要だが、こんな砂漠のど真ん中でどうやって手に入れられる?
 水もそうだが、食料は? 塩分は?
 ……ナバホ族の血が流れる主人公格のサミュエル・マッケンジーを中心に、四人が一つ一つ問題を解決して生き延びていく物語は、それだけでぐんぐん読ませます。
 気を抜けば死に直結してしまう緊張感を最初から最後まで保ちながらストーリーは進行し、読者は知らず知らずのうちに手に汗を握りながら作品世界にのめり込んでしまう。つまりはとてつもないオモシロ本です。
 そして、本書はただ、サバイバルを描いた小説というだけでは終わりません。
 邦題の通りこれは〈ゲーム〉で、ここにこそガーフィールド作品としての神髄があるのです。

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 冒頭で、ガーフィールド作品における〈ゲーム〉とは、作中人物が世界や社会に対抗するために使うものであると書きました。
 ドゥガイが用意したこのサバイバル・ゲームも、やはりそうです。
 かつて納得いかないルールで精神病院へ入れられることになった彼が、社会に復讐するために自分の〈ゲーム〉を始める。
 この〈ゲーム〉を支配するのは、法律でも、精神科医たちの見識でもなく、歪みきったドゥガイの感情です。一思いに殺したりはしない。じわじわとなぶり殺しにするのが主目的でもない。自分を異常だと判定した正常気取りの連中を、狂わせてやる。それだけが目的なのです。
 このドゥガイの理不尽な〈ゲーム〉に、マッケンジーたちは自分たちの〈ゲーム〉で立ち向かいます。
 社会の一員として正常であり続けよう。この思いがこちらの〈ゲーム〉のルールです。
 自分たちが持っているものを総動員して、生き延びる。このルールを守ったまま、ドゥガイを打ち倒す。
 つまり『砂漠のサバイバル・ゲーム』は、二つの〈ゲーム〉がぶつかりあう小説なのです。
 お互いに理解し合えない。相手のルールを受け入れることもできない。
 一貫して〈ゲーム〉の小説を書き続けてきた作者ならではの戦いはクライマックスに向けてどんどん盛り上がっていき、まさに巻を措く能わずの面白さ。
 全てが終わったあとのラストシーンに、満足のため息を吐くこと間違いなしの一冊です。

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 ブライアン・ガーフィールドには『犯罪こそわが人生』(1984)という編著があります。
 MWAの歴代会長に短編を自選させるという趣向のアンソロジーで、ガーフィールド自身は「これまでに書いたすべての短篇のなかでいちばん気に入っている」一編として「スクリムショー」(1979)を選んでいます。
 読んでみて、成る程、と唸りました。
 この短編もやはり社会に立ち向かうため、自分なりの〈ゲーム〉をする人物の話なのですが『砂漠のサバイバル・ゲーム』でいうとマッケンジーではなく、明らかにドゥガイ寄りの〈ゲーム〉で、そこに慄然とさせられました。
 逆恨みや理不尽な感情のもと行われる恐ろしい〈ゲーム〉も、『ホップスコッチ』で描かれたような読んでいる者の胸まですくような痛快な〈ゲーム〉も、どちらも書きこなし、エンターテイメントに仕上げられる。ここがガーフィールドという作家の最大の強みでしょう。
 『砂漠のサバイバル・ゲーム』、この作者らしさが詰まった佳品ではないでしょうか。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人四年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby