「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 先日、映画『ウェスト・サイド物語』を観ました。
 一九六一年公開のバージョンです。
 恥ずかしながらミュージカル含めて『ウェスト・サイド物語』に触れるのはこれが初めてだったのですが、流石は名画だと唸ってしまう鑑賞体験でした。
 映像や音楽が素晴らしいのは勿論ですが、なんといってもニューヨークの不良少年少女へのスポットの当て方が良かったのです。有名な冒頭のシークエンスからしてゾクゾクきましたし、「America」「Gee Officer Krupke!」など、ポップな曲に合わせて彼らが置かれている切実な状況とそれを見て見ぬ振りする社会の歪みをコミカルに歌い、踊ってしまうのがクールです。
 続けて読んだアーヴィング・シュルマンのノベライズ版も素晴らしかった。
 映像だと伝えにくい登場人物の心理を丹念に描いているのが特徴で、映画だといまいち出番がなかったけれど印象的だった脇役についてまで筆を割いてくれているのが嬉しい。特に、取り巻きの女としてではなく喧嘩に参加するメンバーとしてグループに入れてほしいと不良たちに絡む少女エニイボディズとグループに入ったばかりのヒヨッ子ベビイ・ジョンの二名の書きっぷりが良い。ハズレ者の集まりの中でも更にハズレてしまう人間が、それでもグループにすがるしかない心理がきっちり語られるのです。
 こうした登場人物の掘り下げと当時のニューヨークの街の描写が冴えていて、とにかく一つの非行少年犯罪小説として完成度が高い。
 それも当然なのかもしれません。
 アーヴィング・シュルマンは『理由なき反抗』の脚本などで映画人として有名ですが、一方で犯罪小説の書き手として知られた人でもあるのです。
 非行少年犯罪小説はJD物(Juvenile Delinquent)と呼ばれ、五〇年代のアメリカで流行したジャンルです。
 小鷹信光氏は日本版『マンハント』誌上の連載で、このジャンルの書き手の代表として躊躇いなく挙げる三人のうちの一人としてシュルマンを選んでいます。他の二人はエヴァン・ハンターと、ハル・エルスン。
 自らの足で本物の不良少年たちを取材し、それをリアリスティックな手法で、実際に使われているチンピラ俗語を交えて小説に仕上げていることを小鷹氏はこの三人の特徴としています。こうした部分から窺える作家としての信念や信条が彼らの作品がキワモノと一線を画しているところで、社会を動かす切っ掛けにもなった理由だと。
 確かにノベライズ版『ウェスト・サイド物語』は、そうした小説の書き方をする人ならではの出来栄えですし、ここに見える不良少年少女の描き方はハンターにもエルスンにも通じます。
 特にエルスンはハズレ者の集まりの中でも更にハズレてしまった少年少女のことばかりを書いた作家です。
 今回紹介する『アメリカ版 十代の性典』(1950)なんて、『ウェスト・サイド物語』のエニイボディズをそのまま主役に据えたような作品です。

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 『アメリカ版 十代の性典』というとティーンエイジャーの性文化を扱った実録本のような響きで、あとがきを読むと実際にそういう類の本として訳出されたようなのですが、内容としてはフィクション作品です。
 原題はTomboyで、これは本書の主人公の名前でもあります。
 トムボーイはマンハッタンのギャンググループ“ハープ団“に所属している少女です。トムボーイというのはあだ名で、本名はケリー。
 “ハープ団“が行うことは、シンプルです。
 つるんで遊んで、物を盗んで、他のギャングと縄張り争いをする。
 本書は、その様子を語るだけの小説です。
 というより、エルスンの非行少年犯罪小説は大体がそうなのです。
 『ウェスト・サイド物語』のようなロミオとジュリエット張りの熱いロマンスもなければエヴァン・ハンター『ジャングル・キッド』(1956)収録作のような強烈なアイディアもない。
 ノンフィクションのような訳出のされ方にも納得してしまうところがあります。
 エルスンの小説は、現実をそのまま書いているだけのような感触が確かにある。
 ただ、気をつけなければならないのは、この現実というのは、あくまでエルスンが見た現実だということです。
 エルスンはソーシャルワーカー出身の作家です。
 実際に不良少年少女と触れ合い、助けようとしてきた人です。
 彼の小説がフィクションらしい脚色が薄いのは、だからこそではないかと思います。
 不良少年グループ同士が和解してめでたしめでたしという話も、悪者を倒して少年少女が更生して万々歳みたいな話も彼は書きません。
 そんな簡単に解決する問題でもなければ、救われる人たちでもないことを身に沁みて知っているから。
 エルスンの短編のほとんどを訳している田中小実昌氏は『警察にはしゃべるな』(1956)の訳者あとがきで、彼の小説は善悪とかモラルとか、下手な感動を盛り込まないところが良いと書いています。僕もその通りだと思います。
 現実が分かっているから、下手なことはせずに真正面から彼ら彼女らに向き合う。エルスンがするのは、それだけなのです。

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 上でエニイボディズを主役に据えたような、という書き方をしましたが、ギャングたちに相手にしてもらえない彼女と違って、トムボーイはちゃんと団の中で、少なくとも表向きは男と同じ一人前として扱われます。
 危険な仕事でも前に出るし、暴力も振るう、振るわれる。
 それでも男たちは特別扱いしようとします。トムボーイ……おてんば娘という意味のあだ名で呼ばれているのは、グループの中での彼女の立ち位置を端的に表しています。anybodysと比べると多少はマシですが、男ではなく娘だぞという差別的な目線がある。
 そして、彼女は懸命にそれを跳ね除けようとし続けるのです。
 トムボーイの奥底にあるのは、愛情や信頼という概念そのものへの不信感です。
 かつては優しくて、誰よりも頼れる存在だった父親が、いまやすっかり飲んだくれになってしまっている。義母は彼を詰り、貶す。二人ともトムボーイのことは見向きさえしない。
 結婚とか、愛とか、そうしたものを考えたくもない。自分を性的に見てくる男たちも気持ち悪い。
 それでも信じられる人を求めてはいる。いわゆる愛とは別の形で。
 一方で、“普通の少女”らしく誰かに惹かれたり嫉妬したりという気持ちもある。トムボーイの心情は割り切れない複雑さを常に抱えていて、エルスンはやはり、そのままに書くのです。
 作者は成長だとか、解決だとか、そうした単純な大人の好む解決でまとめることを許しません。
 ここに、トムボーイという一人の人間がいる。
 エルスンはそのことだけを読者に突きつけるのです。

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 エルスンは不良少年少女の話だけを書いたというわけではなく、日本でもこのジャンル以外の小説が何編か訳されています。
 中でも有名なのは『山口雅也の本格ミステリ・アンソロジー』(2007)にも収録された「最後の答」(1962)でしょう。
 どう答えれば正解になるのかわからない設問がラストに待ち受ける、リドル・ストーリーです。
 ここにもエルスンの姿勢が窺えると書くのは、少し強弁しすぎでしょうか。
 単純な答えなどないことについて、どう向き合えばいいか。エルスンの書く小説を読むとき、僕はそんなことを考えてしまいます。

※『アメリカ版 十代の性典』は1954年、高文社刊。高橋豊訳。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人五年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby