そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)
ダグラス・フェアベアン『銃撃!』(1973)について、長い間しっくりこない気持ちを抱えていました。
ちゃんと読みきれていないような気分だったのです。
複雑なストーリーの本ではありません。
〈血塗られた死のゲーム! 無意味に放たれた一弾が男達の殺戮本能を呼びさました! 修羅と流血の”戦争ゲーム”をハードなタッチで描き出す!〉という初版帯の文句だけで、書かれている内容は説明し尽くしてしまっていると言っても良いくらいのシンプルな話です。
一体、何が気にかかるのだろうと思っていたのですが、今回再読をしてみて、ようやく分かりました。
この作品が〈本能〉とか〈狂気〉とかのワードで語られていることにしっくりきていなかったのです。
『銃撃!』って、とてつもなく〈理性的〉で〈正気〉な話じゃないか。
*
鹿撃ちの季節の週末、実業家のレックスは仲間と共に狩りにやってきていた。
鹿どころかアライグマの一匹すら仕留められずに帰ろうとしたところ、川の向かいから突然、一発の銃弾が飛んできた。
撃ってきたのはレックスたちと同年輩の男たちだった。
何かを見間違えての誤射なのか、悪意を持っての発砲だったのか。理由は分からない。
考えている暇もない。こちらも反射的に撃ち返した。
銃撃戦が開始される。
お互いが一通り撃ち終わったところで、どうにかその場は治まった。
こちらの被害は最初の弾が掠った者だけで、命に別状はない。あちらも撃ち返した時の一人だけのはずだ。ただし、そいつが撃たれたのは顔面だったから死んでいるだろうが。
山を下りながら、レックスの心中には既に一つの考えが渦巻いていた。
俺たちはこのことを警察には言わない。あいつらも言わないだろう。
代わりに来週、二チームとも山に再びやってくるはずだ。総力戦で決着をつけるために……というのが本書の粗筋です。
立場と地位のある大人たちが何の意味もない殺戮のゲームを行うという意味でデイヴィッド・イーリイの有名短編を思い出す人も多いでしょう。
退役兵たちによって、なんでもない山中が戦場と化してしまうという意味では映画『ランボー』(1982)も連想されます。実際、作品後半ではベトナムから帰ってきたあと社会に馴染めないままというキャラクターも登場します。
ただし、本書はこれらの作品とは大きく異なる点があります。
ストーリーの大半を占めているのが、戦いや不穏な場面ではなく日常場面なのです。
殺し合いが行われるのは冒頭とラストの計三〇ページ程だけで、あとはアメリカ中西部に住む中年男性の生活にフォーカスが当てられます。
再戦のための準備というのが本筋なので、ただの日常というわけではないのですが、帯の文句やタイトルから想像されるほど暴力だけの話ではない。
物語の大部が戦闘シーンである『ランボー』、主人公が非日常の集まりに入会するイーリイの短編とは読み味が違うのです。
そして、本書を語る時に〈本能〉や〈狂気〉というワードが持ち出されるのも、ここが大きく関わるのでしょう。
一見まともに生活を送れている大人が実はこのような人殺しの欲望を持っていて、それを発散させるために無意味な戦争ごっこを始める。そう捉えれば、確かにここにあるのは〈本能〉であり〈狂気〉です。
だが、本当にそうなのか。
レックスの行動は〈本能〉や〈狂気〉によるものなのか。
*
真っ当な人間の中に押し込められていたものが噴出する物語として見た時、『銃撃!』は必ずしも出来が良いとは言えません。
小鷹信光氏は本書の訳者あとがきで、日常部分の書き込みや作中にある弱弱しい自己批判のようなもののせいで、イーリイの例の短編と比べるとテーマの描き方が中途半端になってしまっていると指摘しています。
確かに、そういう点から見た場合『銃撃!』はレベルは落ちると感じます。
しかし、作者が書きたかったのは、むしろ日常や自己批判の部分だったと考えてみるとガラリと印象が変わります。
かつては絶対的なものと誰もが信じていた規範が守られなくなっていく社会の流れの中、それでも昔通りの役回りを自らに課そうとする男の悲哀の物語。それが『銃撃!』なのではないか。
そう意識してみると本書の主人公レックスの見え方が変わってきます。彼は意外と、タフガイに成り切れていない。
仲間たちには「これは事件にはならない」と断言しながらも、毎日ラジオや新聞をチェックして本当に大丈夫かどうかを確かめようとする。
いかにも男らしい自分を強調しようとしているのに、家庭内でそこまで権力を振りかざせているわけでもない。
何より、自分がリーダーであることを誇っている感じが弱い。他の奴らはリーダー気質ではないから俺がやる、という消極的な姿勢なのです。
役割を全うしようとしている。だが、ところどころ綻びが出てきている。
レックスをそういう人間だと捉えると、彼が行おうとする無意味な戦争も、実は〈本能〉や〈狂気〉故ではないと思えてきます。
縄張りの中の人や土地を守るリーダーとして、昔ながらの男として、戦わなければならないから戦うのです。
ここにあるのは自分の役だからやらなければならないという〈理性〉と〈正気〉ではないでしょうか。
〈正気〉が行き過ぎると〈狂気〉になるという本格ミステリでいうところの〈狂人の論理〉を見ることはできるかもしれませんが、それはイーリイの短編にあるものとは異なります。
『ランボー』とも違います。ランボーの場合は、実社会に居場所がなく戦場にはあるという構造ですが、レックスの場合はどちらも地続きなのです。
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『銃撃!』について、初読の時から気になっている点がありました。
終盤でレックスのある発言がゴシック体で書かれていることです。
本書では、台詞がゴシック体で強調されている箇所が幾つかあるのですが、他のところとレックスの台詞とでは性質が全然違うのです。
他の台詞は、仲間の中の臆病者がこんなことおかしいと戦争に反対するものや、作戦に駆り出された者の一人が敵なんて来るわけないと嘲笑するものです。対して、レックスのこの台詞は開戦の合図です。
どういう意図なのだろうと思っていたのですが、この部分についても役割の話という観点から読み解ける気がします。
ゴシック体にされているのは、その人物が役割を放棄した時の台詞なのではないでしょうか。
実はレックスはこの台詞のあと、ああいう風に開戦するべきではなかった、間違いだったと後悔します。指揮官として立てるべき作戦はこうではなかった、と。
役割を全うせずに感情だけで発してしまったという意味で、戦いに出向こうとしなかったり指揮官に逆らったりした人たちの台詞と同じ。だから、ゴシック体にされている。そういうことではないでしょうか。
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ダグラス・フェアベアンの作品はもう一作、『ストリート8』(1977)という長篇が訳されています。
これは『銃撃!』と対になるような作品で、〈古き良きアメリカ〉の規範や役割が完全に崩壊している中、ロールを全うできなかった男がどうするか、という物語になります。
両作とも、剥き出しの暴力を描きながらもそこだけでは終わらせないという作者の熱量を感じる、今なお読者の心を撃ち抜いてくる作品ではないでしょうか。
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小野家由佳(おのいえ ゆか) |
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ミステリーを読む社会人五年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby。 |