そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)
今、この瞬間。
ウィリアム・アイリッシュ=コーネル・ウールリッチの小説にあるのはそれだけだ、とつくづく感じます。
過去や未来から切り離された現在という瞬間に常にフォーカスを合わせている。物語を振り返ってみて「結局、この話の根幹は過去の呪縛なんだよな」とか「テーマとして彼らの未来が見えてくるようだ」となることがほとんどない。
アイリッシュが書くのはいつも登場人物たちにとっての〈今〉だけです。
『暁の死線』(1944)だったらバスが発車してしまうまでに事件を解決しなければならないという形で〈今〉がスリリングに語られます。『喪服のランデヴー』(1948)では恋人を失った瞬間が〈今〉であり続けてしまい、そこから前に進めない青年が主人公です。とあるホテルの一室の各年代ごとの様子を綴った連作形式の『聖アンセルム923号室』(1958)は差し詰め年代ごとの〈今〉を切り取った小説といったところでしょうか。
作品によって描き方は変えていますが、いずれの作品も中心にあるのはその場その場あるいはその人その人にとっての現在で、そこはブレていない。
今回紹介する『暗闇へのワルツ』(1947)も〈今〉を積み重ねていく一作という意味で、やはりその系譜に連なる作品だと感じます。
目の前にいる恋人のことだけを考える主人公が、どんどん深みへはまっていく。気がつけば取返しのつかないところに来てしまっているが、それでも止まれない。
そんな小説です。
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一八八〇年五月二〇日。
今日は、ルイス・デュランドの人生にとって最高の日々の始まりになるはずだった。船に乗って、彼の花嫁がやってくるのだ!
花嫁の名前はジュリア・ラッセルという。
通信交際で知り合った相手で、実際に会うのは今日が初めてだが、写真を送り合っているので顔は知っている。何度も何度も手紙をやり取りしたから、どのような性格なのかも承知していた。
お互いに若くはないし、それぞれニューオリンズ一の美男、セントルイス一の美女というわけでもないが、そんなことはどうでもよかった。遂に自分も、家族を手に入れるのだ。一緒の家に住み、愛し合う人を見つけたのだ。
だが、船を出迎えた彼の前に写真の彼女は現れなかった。代わりに出てきて、自分がジュリアだと名乗ったのは写真とは似ても似つかぬ、うら若き美女だった。
変だと思いつつも、相手の話を信じてルイスは予定通り彼女と結婚したが……
いかにもウィリアム・アイリッシュお得意の、グッと引き込まれてしまう冒頭部ではないでしょうか。
起こるはずだったことが起こらない。
できるはずだったことができない。
チクッと胸に刺さってくるような出来事を最初に起こし、それが段々と主人公と読者の心の中で強い不安へ変わっていく。アイリッシュはこうした底知れない不安を描く手際が抜群に巧い。
夢のような新婚生活を送りながらも、どこか違和感が拭えない。
手紙に書いていたあの話を彼女は知らないじゃないか。淑女らしくない行動をするじゃないか。幸せに水を差すような出来事が頻発して、暗い疑念がどんどん大きくなる。やがて、とある手紙がルイスのもとに届くことによって崩壊の時がやってくる。
これぞサスペンスと唸りたくなる、見事なストーリーテリングです。
序盤、結婚式の夜に音楽に導かれるままルイスとジュリアが終わらない、止まらないワルツを踊るというシーンがあるのですが、この本自体もそんなワルツのようで、崩壊するその時まで一気呵成に読み進められます。
アイリッシュの筆力を考えると、ここまでで一つの物語として幕を閉じさせることもできたでしょう。
しかし、本書の本領発揮はこれからです。
崩壊しても尚、止まらない。
完全なる暗闇に到達するまで、ルイスも、読者もワルツを踊り続けるのです。
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『暗闇へのワルツ』はハヤカワ・ミステリ文庫の旧版で約五〇〇ページです。
この作者としてはかなり長い小説ですが、上で述べたような不穏な冒頭から意外な真相の暴露という、いかにもアイリッシュ風のサスペンスらしい物語は最初の二〇〇ページ足らずで一旦完結してしまいます。
誤解を恐れず言うのなら、そこからの三〇〇ページには予想外の展開はありません。
『幻の女』(1942)のようなサプライズ・エンディングも『黒衣の花嫁』(1940)のような「次のパートだとどうなるんだ?」となる派手な切れ場もないのです。
ここで描かれるのはいずれも「そうなるだろう」という展開だけです。
だからこそ恐ろしい。
ルイスも読者も、これから先どうなるかなんとなくは分かっている。けれど、止められない。
アイリッシュが常に〈今〉を描く作家であることが存分に活かされています。
どんなことが起こってきたか。この先ではどんなことが起こるのか。
いずれも簡単に振り返れるし、予想ができることです。
けれど、ルイスはそれをしない。今のことだけしか頭が回らない。
故に堕ちていく。どんどん状況が悪くなっていく。
本書の冒頭部はいかにもアイリッシュらしいと書きましたが、中盤以降はそうしたアイリッシュらしさの逆を往くようです。
起こるはずのことが起こるべくして起こる。
できないはずのことができない。
前半部を支配しているのが底知れぬ不安なら、後半部にあるのは底の抜けた不安です。
予想外の展開に翻弄される物語から、予想できてしまうからこそハラハラしてしまう物語へ。
正反対の方向へ切り替わるわけですが、通底しているのは読者の心を掴んで離さないストーリーテリングです。
どうなるか分かっていても、縋りたい。
今作でアイリッシュが描き出す〈今〉はそんな刹那的な魅力に満ちています。
ルイスが愛し抜くジュリアというキャラクターが魅力的なのは勿論なのですが、彼女自体というよりも、その先にあるものが余りにも魅惑的なのです。
それはルイスの夢です。
ルイスは十数年前に愛した人を失った過去を持つ男です。一度、幸せというものが何もかも手からすり抜けてしまったのです。
もう二度と、この幸せを失いたくない。
ジュリアを、今ここにあるものを、手放さない。
たとえこの先にあるのは破滅だけでも、今自分の持っているものが見せかけに過ぎないと分かっていても。
ルイスの想いは読んでいるこちらの胸まで苦しくなってしまうほどに切実です。
初読の時、彼のワルツの行く末を見届けてやりたいという思いだけで夢中で読んでしまったことをよく覚えています。
どこに行くのかは、彼も、読者である僕も、知っているのに。
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アイリッシュ作品で描かれているのは都会人の孤独であるとよく言われます。
都会では〈今〉だけが問題になるからでしょう。
都心の集合住宅あるいはホテルに住んでいる人間は、過去からも未来からも切り離されています。かつて住んでいた実家からは遠く離れていて、かといって、この部屋にいつまでも住み続けるつもりもない。とりあえず、という〈今〉だけがここにあり、抜け出したいと願っている。
だから彼の作品には安住の地を探す話が多い。
『暗闇へのワルツ』もそうです。
たとえその先が暗闇でも良いから、孤独を癒してくれる目の前にいる人や物を失いたくない。
読者の今この瞬間に響き続ける一作だと思います。
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小野家由佳(おのいえ ゆか) |
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ミステリーを読む社会人五年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby。 |