日本全国、梅雨があけ、いまや夏真っ盛りですね。先日は、北海道で猛暑日というニュースも流れました。だからというわけではありませんが、今月は1年を通じて最高気温が30℃を超えるという、インドのムンバイを舞台にした小説、ヴァシーム・カーンの “The Perplexing Theft of the Jewel in the Crown”(2016)を紹介します。アメリカ私立探偵作家クラブが選出する、2017年のシェイマス賞ペイパーバック賞を受賞した作品です。

 主人公のアシュウィン・チョプラはムンバイ警察の元警官。天職ともいえる仕事に誠実に取り組んできましたが、心臓の病で倒れたのをきっかけに早期退職し、現在はベイビー・ガネーシュ探偵事務所を設立し、配偶者の浮気調査や使用人の素行調査など、心臓に負担をかけない範囲の仕事を手がけています。
 ある日彼は、妻ポピーとともにプリンス・オブ・ウェールズ博物館に出かけます。コ・イ・ヌールという名の巨大なダイヤモンドをあしらった英国王室の王冠が展示中で、ポピーにぜひにとせがまれたからです。チケット売り場の長蛇の列に並び、厳しい手荷物検査を受けたのち、20人ずつ展示室に入ります。ようやくチョプラたちの番になり、それぞれが思い思いにガラスケースにおさめられた王冠をながめていると、爆発音のような大きな音があがり、つづいて警報ベルが鳴り響きます。何事かと思う間もなく、あたりに白煙が立ちこめ、その場にいた全員が意識を失ってしまうのでした。
 意識を取り戻したチョプラは、ガラスケースが割られ、王冠が奪われたことを知らされます。手際のよさと犯行の大胆さから犯人はプロ、それも犯罪組織の関与が疑われましたが、匿名の情報により現役警察官ガレワルが重要参考人として身柄を拘束され、一刻も早く犯人をあげたい警察から、事情聴取という名の拷問を受けることに。身に覚えのないガレワルは、かつて仕事をした仲間であるチョプラに身の潔白を訴え、真犯人を突きとめてほしいと懇願するのです。
 しかし、その後、ガレワルの自宅から盗まれた王冠の本体のみが見つかり、さらに事件の一時間後、彼の銀行口座に海外から百万ルピーもの大金が送金されているのがわかるなど、状況は圧倒的に彼に不利。チョプラはかつての部下で警察を退職させられていたラングワラの協力を得て、真相解明に乗り出します。

 盗まれたダイヤモンドの謎を軸に物語は進みますが、この本のおもしろさはそれだけではありません。たとえば象のガネーシャ。ええ、象です、あの鼻が長くて、大きな耳をしたあの象。チョプラは、ガネーシャという子どもの象を飼っているのですが、これは退職したときにおじさんから贈られたもの。謎を解決してくれるわけではありませんが、改造したトラックの荷台に子象を乗せて聞きこみに出かけるチョプラの姿を想像するだけで笑えますし、なごめます。それに、人間の言葉がわかっているのではと思わせるガネーシャの仕種がかわいらしくて、動物好きならずとも、魅了されること間違いなしです。
 また、元ストリートチルドレンで、チョプラの助手のようなことをしているイルファンもいい味を出しています。本人は口にはしないものの、煙草を押しつけられてできたとおぼしき火傷の痕などを見れば、悲惨な過去を背負っているのはあきらか。それでも素直で前向きで、最初のうちはストリートチルドレンなんて……と敬遠していた妻のポピーも、わが子同然にかわいがり、クリスマスプレゼントをいそいそと用意するほど溺愛しています。子どものいないチョプラ夫妻とイルファンが今度どんな関係を築いていくのか、とても気になります。
 いまのムンバイを描きたいという著者のヴァシーム・カーンの言葉通り、本書からはムンバイのねっとりした空気と暑さ、香辛料のにおい、渋滞した道路に鳴り響くクラクションのやかましさなどが伝わってきます。また、イギリスの植民地だった時代の建築物の優美さと、そのあいだに点在するスラムの様子も生き生きと伝わってきますし、イルファンの生い立ちに代表されるような、子どもの貧困問題などもさりげなく提起されています。アレグザンダー・マコール・スミスの〈No.1レディース探偵社〉のシリーズを彷彿させると言えば、わかりやすいでしょうか。
 ついでながら、コ・イ・ヌールというダイヤモンドはインド原産で、その後、さまざまな者の手に渡り、1850年にヴィクトリア女王に献上され、以来、イギリス王室が所有しています。
 
 さて、〈ベイビー・ガネーシュ探偵事務所〉シリーズは2015年に “The Unexpected Inheritance of Inspector Chopra” でスタート、今回ご紹介した “The Perplexing Theft of the Jewel in the Crown” は2作めにあたります。シリーズはこのあと、“The Strange Disappearance of a Bollywood Star”(2017)、“Murder at the Grand Raj Palace”(2018)、“Bad Day at the Vulture Club”(2019)とつづいています。
 また、先日発表になったCWA賞でヒストリカル・ダガーを受賞した “Midnight at Malabar House”(2020)は、同じヴァシーム・カーンによる別シリーズの1作めで、舞台は独立して間もない時期のインド。こちらもいつかご紹介したいと思います。

東野さやか(ひがしの さやか)

翻訳業。最新訳書はジョン・ハート『帰らざる故郷』(ハヤカワ・ミステリ)。その他、チャイルズ『ラベンダー・ティーには不利な証拠』(コージーブックス)、クレイヴン『ストーンサークルの殺人』(ハヤカワ文庫)、アダムス『パーキングエリア』(ハヤカワ文庫)など。埼玉読書会および沖縄読書会世話人。ツイッターアカウントは @andrea2121

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