書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

 

吉野仁

『見知らぬ人』エリー・グリフィス/上條ひろみ訳

創元推理文庫

 一作を選ぶのがとても難しかった。悩みに悩んで『見知らぬ人』を挙げることにしたのは、もっとも読みごたえを覚えたからだ。ヴィクトリア朝時代の伝説的作家ホランドが残した怪奇短編「見知らぬ人」が作中作として登場するほか、その作家の書斎が残る館、短編の見立て殺人らしき事件、シェイクスピアの一節、英語教師の日記、捜査するインド系女性部長刑事の語りなど、重層的なつくりによるゴシックミステリである。とくに感心したのは、視点ごとに事件や人物の見方がしっかり書き分けられているところだ。音楽の転調と同じで「はっ」とした気持ちになり、サスペンスが高まり、先を読まずにおれなくなった。もっとも帯に「この犯人は見抜けない」とか高難度の「犯人当て」とかあるが、個人的にはそうした部分の面白さは乏しかったのだけども。そのほか、あいかわらず北欧勢のシリアルキラーものに外れなしで、アルネ・ダール『狩られる者たち』やセーアン・スヴァイストロプ『チェストナットマン』は、そのままでもあざとい趣向をさらにこねくりまわした展開で驚かせ、随所に変態度や外連味にあふれているあたりがとても良い。また、紫金陳『悪童たち』は、描かれている犯罪がやや荒っぽかったり場当たり的だったりするものの、殺人犯と彼を脅迫しようとする子供たちをめぐる一連の展開──駆け引きをしつつ、それぞれに追い込まれ、その果てに迎える結末はなかなかに読ませるものだった。

 

霜月蒼

『狩られる者たち』アルネ・ダール/田口俊樹・矢島真理訳

小学館文庫

 これはヘニング・マンケルの『白い雌ライオン』、あるいはアンデシュ・ルースルンドの『死刑囚』に比肩するスウェーデン産警察ミステリの傑作ではなかろうか。久しぶりに呼吸を忘れかけるミステリを読んだ。

 そもそも前作『時計仕掛けの歪んだ罠』も忘れがたい作品だった。細かなところまでは踏み込まないが、主人公の属する国家が単独で存在するわけではなく、欧州から中東やアフリカといった地政学的な連なりの一角としてあることに自覚的だと言おうか。『時計仕掛け』では、そうした地政学的な犯罪観を骨格にして、さらに主人公自身ののっぴきならぬ事件との関わりを組み込み、マクロとミクロの双方から警察官と事件との死闘を描き切った。同じ問題意識は本書でも健在だ。

『時計仕掛け』は、あまりに衝撃的で恐ろしい場面で幕を下ろした。あのあとを描くのが『狩られる者たち』であり、「狩られる者たち」というのは主人公らを指しており、もはや「警察小説」から逸脱しはじめている。もちろん犯罪を追うプロットは警察小説のそれだし、ミステリとしての造りは北欧らしく堅牢だ。しかし主人公をとりまく事情が、彼を行政機関の一員の地位から括り出してしまう。四面楚歌。疑心暗鬼。この壮絶さに、私はフィンランドのジェイムズ・トンプスンの酷薄な傑作群を思い出した。

 ミステリ/サスペンスとしての完成度に加え、全編にわたって「写像を観る」というモチーフが貫かれているといった小説的な注意も払われているのだが、これも深入りしないでおこう。とにかく今年もっともハラハラさせられた作品が本書である。前作とともに必読と言っておきたい。

 今月は豊作で、他にも『白夜行』をちょっと思わせる倒叙式中国ミステリ『悪童たち』と、デンマーク産『チェスナットマン』が印象に残った。

 

千街晶之

『悪童たち』紫金陳/稲村文吾訳

ハヤカワ・ミステリ文庫

 偶然、殺人の瞬間を撮影してしまった三人の少年少女。しかし、彼らには警察に通報できない事情があった。そこで、彼らは犯人を強請ることにしたのだが……というのが本作の発端だが、その後の展開は、この導入部から多くの読者が予想するであろうものとは完全に異なっている(下巻の表4のあらすじ紹介からは編集部の苦心が察せられる)。こうなったら嫌だなと思う方向にどんどん話が転がってゆくのに一度読みはじめたらページをめくる手が止まらず、何かが起きるたびに読者の心は深く抉られることになる。その容赦のなさは、設定に共通するところがあるピエール・ルメートル『僕が死んだあの森』を遥かに凌駕する。上巻で起こる出来事があまりに陰惨で読むのに苦痛を感じる読者がいるかも知れないし、警察の捜査のいい加減さと手ぬるさに犯罪者側が都合よく助けられがちという弱点は存在するものの、今年度を代表する犯罪小説なのは間違いない。個人的には、一生忘れられないだろう強烈な読書体験のひとつとなった。

 

川出正樹

『評決の代償』グレアム・ムーア/吉野弘人訳

ハヤカワ・ミステリ

 7月、豊作すぎないか? ラグナル・ヨナソンによる逆年代記三部作の掉尾を飾る心凍てつく始まりの書『閉じ込められた女』、前作『時計仕掛けの歪んだ罠』を読了した時から鶴首して待ち続けたアルネ・ダールの『狩られる者たち』、英国人作家のお家芸たる怪異譚とカントリー・ハウス・ミステリを融合し現代の小説として磨き上げたエリー・グリフィス『見知らぬ人』、圧倒的なリーダビリティと複雑精緻なプロットでジョー・ネスボに比肩するセーアン・スヴァイストロプ『チェスナットマン』、さらに良作の訳出が続く伊・仏警察小説にまた一つ楽しみなシリーズが加わったアレクサンドル・ガリアンによる〈パリ警視庁賞〉受賞作『夜の爪痕』。

 そんな月刊ベスト級作品がひしめく中から今月推すのは、グレアム・ムーア『評決の代償』。過去の事件の結末に疑念を抱いた人物が、当時の関係者を集めて新事実に基づき真相を解明しようとする中で殺人が起きるという設定自体は定番だが、本書は、陪審員制度の特徴を巧く活かして構成に斬新な工夫を凝らしている点がなによりも素晴らしく、十年の時を往還して、シンプルかつ魅力的な謎を巡る裁判の顛末を多視点から描き出す。

 多様性と表裏一体の難問に向き合い、クリスティー作品に目配せしつつ、安易な結末に落とし込むことのない、皮肉と希望がない交ぜとなった、今まさに読んで欲しいミステリだ。「答えを求める人間であることに対する罰は、疑問を抱えたまま永遠に生きていくことだ」という主人公の述懐が、深く胸に響く。

 

北上次郎

『天使と嘘』マイケル・ロボサム/越前敏弥訳

ハヤカワ・ミステリ文庫

 先月吉野仁が取り上げているので、1カ月遅れになるが、こんなに面白いとは思わなかった。嘘を見抜ける能力がもう少し生きるプロットであるなら、文句なしに今年度のベスト1だっただろう。それでもベスト3圏内は確実だ。要するに私好みなのだ。早く次作を読みたい。

 

 

酒井貞道

『悪童たち』紫金陳/稲村文吾訳

ハヤカワ・ミステリ文庫

 成績優秀だが母子家庭で貧乏であり、かかるがゆえに学校で偏見を持たれている少年・朱朝陽(ジュー・チャオヤン)が、孤児の施設から抜け出してきた旧友+その妹分と共に歩む、ノワール小説である。

 読者の誘引が呆れるほど上手い。主人公の境遇を鮮烈・強烈に描いて感情移入を誘ったうえで、ストーリーが急激に変化するポイントを複数用意して、揺さぶりをかける。殺人を目撃して、その犯人を脅迫する、というのは、数あるポイントのうちの2か所に過ぎない。「ここでこんなことが起きるのか」「そこでそう行動するのか」という驚きが目白押しである。

 この動的なストーリーラインにおいて、登場人物の描写は常に精度が高く、心理の綾が鮮やかに描出されていく。この描写精度の威力は抜群であり、納得できない言動をする人はほぼ皆無であり、内面描写がなされる主要登場人物の全員が「そう、そうだよな、わかるよその気持ち」と言いたくなる行動しかしないのである。もちろん客観的には、それは違法だったり人道に外れていたりすることもあるのだが、自分が同じ立場なら、彼/彼女と同じ行動をとってもおかしくない。そのような説得力を備えている。しかもこれは、前述の「そこでそう行動するのか」という驚きとは矛盾しないのである。

 劇的な展開と、鮮やかな人物描写が合わさった作品であり、描写も端的で無駄がない。華文ミステリはこれまで多数紹介されてきましたが、正直一番気に入ったかもしれない。

 なお、これは些末事ですが、日本社会ではなかなか見かけない場面――衆人環視の状態で愁嘆場を演じ、周りの人がわらわら寄って来て、当事者にあれこれ意見を言ってくる――があるのも嬉しいところだ。舞台が日本ではなく海外であることを、良い意味で実感させてくれます。

 

杉江松恋

『骸骨』ジェローム・K・ジェローム/中野善夫訳

国書刊行会

 もうさ、みんな認めたほうがいいと思うのだ。ジェローム・K・ジェロームが好きだって。遺伝子情報にそう書きこまれているって。『ボートの三人男』を何度も何度も読み返しているって。

 いきなりで申し訳ないのだが、ジェローム・K・ジェロームが訳された、しかもゴースト・ストーリーを中心とした幻想怪奇小説集だと聞いたら私としては一位にせざるを得ないわけである。これがまたおもしろいんだ。巻頭の「食後の夜話」はいかにも英国随筆風という筆致で始まる。それが酒飲みたちのぐだぐだ話に変わって、ああ、酔っ払いたちの雰囲気をうまく書くよなあと思っていたら典型的な幽霊出現譚に切り替わり、思いがけなくペーソスを漂わせて終わるという。なんだこれ、山田洋次監督で映画化してくれよ、というような完璧な一篇なのである。ミステリーファン向けにお薦めなのはドライなユーモアがかえって戦慄を誘う「ダンスのお相手」で、山の怪談風に綴られる「牧場小屋の女」もいい。どこにも超常現象要素はないのになぜか幽霊のお話になってしまう「チャールズとミヴァンウェイの話」もいいんだな、これが。「二本杉の館」は油断して読んでいたらちょっとほろりと来てしまった。ジェローム版『ゲイルズバーグの春を愛す』なんじゃないの、これ。というわけで、各篇いろとりどりで二つとして同じような風合いの作品はなく、大満足の短篇集なのでした。ちょっとお高いけどミステリーファンなら一家に一冊。

 今月訳された長篇では『狩られる者たち』をお薦めしたいところなのだが、あいにく解説を書いてしまった。これ、ちょっと聞いてくださいよ、奥様。前作の『時計仕掛けの歪んだ罠』がまったくあらすじを明かせない曲者小説だったわけである。当然本作も前作の展開については触れられないので、よし、あらすじを書かないで内容を紹介するプランで行こうと思ったら編集者から「翻訳者の田口俊樹さんが、二作目で前作の情報がないと読者が不安になるだろうから、ちょっと触れてもらえませんか、とおっしゃってます」というメールが入ってしまい、ネタばらし必至なのにどうやったらいいの、とパニックに陥ったのだけど、よし、ここが腕の見せどころ、と出していい情報と駄目なやつを選り分けてパッチワーク的に書いたのがあの解説なのである。つまり、二作目もやっぱりそういう曲者小説なので、手の込んだ奇妙な作品を読みたい人はぜひ。宣伝でした、ごめん。

 中国産犯罪小説から懐かしや19世紀小説まで、またもや大収穫の一月でした。あまりに豊作すぎて、七福神もどたばたしております。この調子でいくとどんな大傑作が出てくるやら。来月もお楽しみに。(杉)

 

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧