「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 リチャード・ジェサップ『摩天楼の身代金』(1981)は、作中で描かれる犯行計画そのままのような作品だと思います。
 すなわち、完全犯罪のような小説です。
 一から十まで隙がない。それでいて奇想天外で、予測不能。何が起こっているのか理解した時に「なんてとんでもないことを考えるんだ!」と雄叫びをあげたくなる。叫んだあと、それまでに提示されていた情報すべてが、そのとんでもないことを成立させるための布石だったことに気づいて愕然とする。
 はっきり言って破格のミステリです。
 本書表4の粗筋は〈異色でハードな最高の襲撃小説!〉という編集者の興奮が伝わってくるような力強い一文で締められていますが、全くもってその通りとこちらまで同様の力強さで頷いてしまいます。
 とにかく、とびっきりの作品なのです。

   *

 トニオ・ヴェガはニューヨークに住む大学生だ。
 ヴェトナム戦争での負傷により眼帯をつけていることだけは特徴的ではあったが、それ以外の部分については取り立てて目立つところはない。七十丁目から九十丁目の間に幾らでもあるようなビルに住み、出前持ちとしてデリで働き、趣味はノミ屋相手に馬鹿な賭けをして散財すること。この街にはこんな男は、幾らでもいる。
 だが、本当は違った。
 街の風景に埋没して暮らそうとする彼の生活は全て、ある目的のための見せかけだ。……彼は世界で最も安全と宣伝される超高層ビル〈セントシア・タワー〉への襲撃を計画している。そのために、どこにでもいるような男をあえて演じているのだ。
 十月、トニオはついに具体的な行動へと移った。
 まずは置き手紙だ。彼は普通なら侵入不可能なタワー内のコンピューター室へ忍び込み、メッセージ入りの空き缶を届ける。
『貴社の警備体制を突破した。おれには突破が可能であり、これからも突破するつもりであることをここに通告する。これは第一回目だ。――脅迫(スレット)』
 たった一人の大学生が最新の設備を誇る超高層ビルを襲撃しようとする。
 そんな大風呂敷を広げるところから物語はスタートします。
 襲撃もののファンならずとも、これだけで心踊ってしまうような導入部ではないでしょうか。
 まず、この〈セントシア・タワー〉が凄い。
 五番街に建てられた新築の百階建てのホテル兼マンションで、総建築費は二億五千万ドル以上、もはや中が一つの街になっている。三つ星レストランに舞踏室、様々な店が入ったアーケードといった楽しむための施設はもちろん、医療施設やヘリポートまで完備。そして何より、出入り口が全て厳重に警備されていて絶対の安全を誇っている。
 ニューヨークという街の華やかな部分を凝縮したような建物です。
 こんなビルを襲撃する。どうやって?
 ここが本作の眼目です。
 とにかく、この計画が予測つかない。
 作者が必死に隠しているから……というわけではありません。
 むしろ、ジェサップは隠し事を一切していない。
 これが本書の大きな特徴でしょう。
 ジェサップは基本的に時系列に沿って、起こった出来事を何一つ勿体ぶらずにそのままに描いていくのです。
 トニオがどういう人間であるかということもはっきりと語る。トニオの出自には実はそれだけで一つのツイストとして扱えるような捻りがあるのですが、ジェサップはそれすら隠さない。淡々と彼はこのような生まれで、こういった経緯で今ここにいるということを語りきる。
 その後もトニオの行動を順を追って綴っていきます。
 彼がしていることはそれこそ、朝起きてから寝るまで〈セントシア・タワー〉への襲撃計画のための布石ばかりなのですが、それぞれの行動が何のためなのか、読者には全然わからないのです。一つ一つの行動ははっきりしているのに、それが繋がってこない。
 本書はもう一人、主役格としてクリス・マードックという〈セントシア・タワー〉の支配人が登場し、トニオと対決をする構図になっているのですが、読みながら彼と同じ気分になってしまいます。
 脅迫犯が何をしようとしているのか、全くもって分からない! ……こっちはクリスと違って、脅迫犯がどういう人間で、どのようなことを今しているのかまで知っているというのに。
 邦題の通りトニオの最終的な狙いはビル全体を人質にして身代金を分捕ることなのですが、その方法が中盤を過ぎても尚、見当がつかないのです。
 分からないといえばもう一つ、トニオ・ヴェガという男についても分からない。
 こちらについても隠し事はありません。
 先に書いた通り彼の出自を読者は知っているし、行動はそのまま語られている。タワーを襲撃して金を手に入れなければならない理由まで知っている。
 なのに、理解できない。
 余りにも目的に対してストイックすぎる気がする。そのくせ、時々、純粋な気まぐれで人を助けたりする。彼がどういう人間なのか、いまいち言い表せない。
 〈セントシア・タワー〉への襲撃計画はどのようなものなのか。トニオという人間はどのような人間なのか。全て示されているはずなのに答えが見つけられない二つの謎を求心力とし、物語は展開していきます。
 本書はストレートなクライム・ノヴェルですが、同時に、謎解きの物語でもあるといえるでしょう。
 そして、その謎に対する答えの部分が凄い。

   *

 何もかもがこのためだったのか!
 襲撃計画の内容を知った時、読者を襲うのはそんな衝撃です。
 ここまで書かれてきたトニオの行動の意味が全て分かっていき、一つの大きな絵が描かれていく。ジェサップは大袈裟に「どうだ!」と見せるのではなく、やはりここでも淡々と登場人物の行動を描いていくだけなのですが、だからこそ読者としてはゆっくり事態を理解していくことになり、そこで「あれ、これ、パーフェクトな計画じゃないか」と行われていることのとんでもなさに徐々に気づいていく。
 そして、計画の全体像が見え、事件が収束するところでもう一つの謎の答えが見つかる。
 こちらには強い衝撃といえるものはありません。なにせ、トニオがどういう人間であるかなんて、襲撃計画以上に最初から示されているのです。
 ただ、実感として伴っていなかったトニオの人物像が、性格の根幹の部分が、彼が最後にとった……というよりも、とっていたことが分かるとある行動で腑に落ちるのです。
 トニオは冷徹な犯罪マシーンではなく、ちゃんと人間だった。こういう奴なんだよと言えるようになるのです。
 更に、全ての謎が解けたあともう一つ、笑うしかないオチまでついている。
 ただただ唸らされます。
 完璧すぎる。こんなの完全犯罪じゃないか。

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 以前この連載で、クライム・ノヴェルには描かれる犯罪そのもののアイディアや展開の意外性で読ませるものと、その犯罪の中から浮かび上がってくる登場人物の人間性で読ませるものがあると分類しました。
 『摩天楼の身代金』は、この二つを高いレベルで同時に達成している稀有な作品でしょう。
 描かれる犯罪そのものに強烈で意外なアイディアがある。そして、その強烈で意外な犯罪にトニオ・ヴェガという男の人間性が反映されている。
 オールタイムベストによく名が挙がるのも納得の、唯一無二の名品です。

 

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人五年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby