そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)
A・D・G『おれは暗黒小説だ』(1974)は、どうにも妙な感触のする作品です。
ロマン・ノワール作家が、まるで自分が書いている小説に出てくるような事件に巻き込まれてしまうというストーリーなのですが、タイトルとこの粗筋から想起されるような虚実が入り混じるメタ的な雰囲気というものが一切ありません。
この手の作品は通常、現実世界から始まったはずの物語が虚構に呑み込まれていくといったような、作品世界がガラリと変わる瞬間が読みどころになると思うのですが、この小説は最初から最後までそれがない。
物語が始まる前から終わった後に至るまで、世界が一切揺るぎません。ずっと、暗黒小説世界のままなのです。
何から何までが自然体。主人公が行う犯罪も、身内から湧き上がる暴力衝動も、全て彼が元から持っていたもので、とってつけたようなところはどこにもない。
読み終えたあと『おれは暗黒小説だ』というタイトルに納得します。
この作品はアメリカのハードボイルドや犯罪小説をフランスへ紹介したことで知られる〈セリ・ノワール叢書〉から刊行されたものですが、A・D・Gはきっと、そうしたジャンルありきで書いたわけではない。作中でフィリップ・マーロウやカーター・ブラウンといった名前もお遊び程度に出てきますが、模倣したという感じは全くありません。
主人公の行動や考えをただ綴るだけでこのジャンルの小説になってしまった。書きたいもの、書くべきものをそのまま書いただけ。そんな小説なのです。
恐らくは『おれは暗黒小説だ』に限らず、A・D・Gという作家の書く作品の全てがそうなのではないかと思います。
今回紹介する、彼のもう一つの邦訳長編『病める巨犬たちの夜』(1972)も同様にどこまでも自然体な小説です。
いかにもノワールといえるような道具立てはどこにもない。
都会の闇もなければ、狂人もギャングもいない。舞台は田舎町で、登場人物はそこに住んでいる一般人だけ。
なのに組みあがったものはノワールとしか言いようがないものになっている。誰しもが持つ暗い衝動がここに鮮烈な形で描かれている。
*
〈おれたち〉の村にあのヒッピーたちがやってきたのが具体的にいつだったのかは誰も知らない。
気がついた時には彼らは村の休閑地にキャンプを張っていて〈おれたち〉は当然それを快くは思わなかった。
酒場に集まった村の男たちみんなで抗議をしに行ったのだが、会ってみると、リーダー格の男をはじめとして、大人しい気の良い奴らで〈おれたち〉はすっかり牙を抜かれ、打ち解けてしまった。
穏やかに別れ、彼らを受け入れてやろうという気分になったのだが、事はそう簡単には終わらなかった。
翌朝、村のオールドミスが殺されているのが見つかったのだ。しかも、ドアから窓までキッチリ戸締りされた家の中で……
粗筋だけ抜き出してみると、本格ミステリちっくな雰囲気です。
ミス・マープルのような村に住む名探偵、あるいはドーヴァー警部のような外部からやってくる迷探偵が現れそうな感じがあります。フランスミステリから例を出すならシャルル・エクスブライヤの『死体をどうぞ』(1961)が近いでしょうか。
けれど、『おれは暗黒小説だ』と同様に、読んでみると印象が覆る。
謎解きミステリとしての構造を持っていることは間違いないのですが、その観点だけだとこの作品が持つものを取りこぼしてしまう。
色々なものがおかしい。
たとえば、語り口が変です。
本書、〈おれたち〉という一人称複数形で地の文が綴られているのです。
視点人物が起こす行動、更に言えばその心理も、全て〈おれたち〉のしたこと、考えていることとして語られる。
ちゃんと〈おれ〉がいて、そいつが〈おれたち〉を代表しているだけのはずなのですが、まるで〈村の住人〉という概念がそのまま視点人物になっているような描かれ方で、ギョッとさせられます。
そんな〈おれたち〉がすること自体も、一筋縄ではいかない。
村で起こった殺人事件や、ヒッピーたちやいけすかない金持ちとの土地トラブルなど、〈おれたち〉は様々な問題を抱えていて、それらに対してどう行動するかというのがメインストーリーなのですが、彼ら、素直に行動しないのです。
まさに〈おれたち〉という集合意識ゆえ、でしょうか。
メンツの中で主導権を握るのが誰かによって目的がフラフラとブレる。
殺人事件について調べたり、事件を聞いて街に集まってきた連中をからかったり、村のお城へ侵入したり、とその場その場でやることが変わる。動きっぱなしというわけでもなく、気を抜けばとりあえず酒場に集まってダラダラ話し始めてしまう。
自然体という表現がこれほどまでに似合う作品はありません。
そして、これが楽しいのです。
全編を通して妙な可笑しみに満ちていて、どんどん読ませていく。気がつけば読んでいる自分まで〈おれたち〉の一員であるかのような気持ちになる。
成る程、これはこういう小説か。
そう分かったつもりになったところで、本書の最大の読みどころがやってきます。
突如、暗黒小説としての要素が噴出するのです。
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こうくるのか。
物語が中盤を過ぎて、とうとうそれが始まった時、思わず唸りました。
これまで殺人事件やトラブルは起こりながらも、直接的には描かれてはいなかった暴力が表面に現れる。
『病める巨犬たちの夜』という意味深なタイトルの意味も分かり、物語の速度が一気に上がる。銃声が響き、人が死に、血が飛び散る。
なのに、牧歌的な雰囲気が崩れない。
状況相応に〈おれたち〉は慌てますし、感情も迸らせますが、豹変したという感じがないのです。
あくまで彼らが彼らのまま暴力を振るう。振るわれる。
人間の心の底にある暗黒を覗き込むとか、狂気が物語を包むとか、ノワール作品を評する際に定型句として使われるようなものはここにはありません。
〈おれたち〉はいつも通り、たとえば冒頭にヒッピー達に会いに行った時と同じ気持ちで人を殺す。
そこまで描かれてきたものと一切矛盾はなく、だからこそ驚かされる。ゾクゾクさせられる。
〈おれたち〉という一人称もここで効いてきます。
感情移入とは別のラインで、読者は村人たちに気持ちを同化させる。自分の中にも確かにある暗闇が暴れ回っている気持ちにさせられる。
さながら、『おれたちは暗黒小説だ』といったところでしょうか。
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本書の訳者あとがきで、日影丈吉がA・D・G本人が語った創作術を引用しています。
抜粋します。「書くことが冒険だ。私は私のかく人物や、または読者とおなじ程度のおどろきを経験する」「私は絶対に自発的な方法で、一気のほとばしりで書く」……確かにそのように書いたのだろう、と納得するしかない言葉です。
本作では強烈なサプライズが最後に用意されているのですが、正直、最初から計算づくだったとは思えません。本人の言葉通りA・D・G自身、書き上げたあと「こんな真相だったのか」とびっくりしてしまったのではないでしょうか。
けれど、それが瑕疵にはなっていない。
この結末はハマりすぎているくらいに本書にハマっています。〈おれたち〉の物語として完璧な出来栄えといっていい。
誰の模倣でもなく、誰も真似できない、ここにしかない小説だと思います。
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小野家由佳(おのいえ ゆか) |
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ミステリーを読む社会人五年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby。 |