「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 飼い慣らすことのできない暴力を実にコントロールされた筆致で描く作家。
 J・P・マンシェットに対して、そのような印象を持っています。
 作中で噴出する暴力は、描写も行為そのものも凶暴で、今なおショッキングです。
 ただ、作者がキッチリ手綱を握っている。暴走という単語は彼の作品には当てはまらない。
 マンシェットは以前本連載で紹介したA・D・Gと並んで〈セリ・ノワールの若き狼たち〉といわれた作家ですが、この二人は実作としてはかなり対照的だと思います。
 『病める巨犬たちの夜』(1972)の訳者あとがきで「書くことが冒険だ。私は私の書く人物や、または読者と、おなじ程度の驚きを経験する」という本人の文章が引用されている通り、結末を決めずに書くのがA・D・Gのスタイルです。対し、マンシェットは恐らくラストシーンまでのラインをちゃんと引いて小説を書いている。
 作中人物が到達する地点に向けてキッチリ伏線を敷く。物語としての破綻はない。
 また、A・D・Gの邦訳された二作と比べると、マンシェットの作品は道具立てからしてノワールらしい。
 『危険なささやき』(1976)は失踪人探しという私立探偵小説のテンプレートそのままな粗筋ですし『眠りなき狙撃者』(1981)は、引退したがっている殺し屋というお題を出されたら十人中九人がこのようなストーリーで書くだろうというお話です。『殺戮の天使』(1977)でさえファム・ファタールをテーマにした、いかにもな暗黒小説です(エリオット・チェイズ『天使は黒い翼をもつ』(1953)へのオマージュがあるくらいですから)。
 では、マンシェットは完成度を優先してこじんまりとした、ありふれた小説を書いた男なのか?
 決してそうではない。
 ジャンルのパターンからはみ出た部分に独自性があり、マンシェットはそこに心を砕いている。
 今回紹介する『地下組織ナーダ』(1972)で下敷きにしているのはケイパーものです。
 そして、このジャンルの文法を踏襲した上で、独自の境地に連れていってくれるのです。
 読み終えたあと、この作品を類型的なケイパーものと思う人間は、きっと一人もいない。

   *

 一匹狼の殺し屋エポラールは、その話を最初は断った。
 誘ってきたのは過激派グループに所属するダルシーという男で、やりたいことは駐仏アメリカ大使の誘拐だという。エポラールは彼らとは違って、何らかの思想を持っているわけではない。そんな計画には付き合っていられなかった。
 気が変わったのは、彼らのグループを率いているのがかつての戦友ブエナベントゥーラだと知った時だった。
 思想的な背景がないのも、手伝う積極的理由がないのも、特に変わりはしないのだが、エポラールは自分でも説明しようがない衝動に駆られて彼らのグループ〈ナーダ〉の一員となる。
 これでチームは完成だ。
 〈ナーダ〉は、誘拐作戦へ向けての準備を本格始動した……
 上で読後この作品を類型的なケイパーものと思う人間はいないだろうと書きましたが、そもそも本書がケイパーものとされること自体がそんなにないかもしれません。
 私見では『地下組織ナーダ』は非常にストレートな襲撃小説の構造を持った作品だと感じます。
 目的に向けての仲間集めから始まり、準備の過程を描き、実行し、作戦遂行後の経緯を綴る。構成としてはドートマンダーや悪党パーカーのような有名ケイパー小説シリーズと同一です。
 特に彼らが襲撃のために銃を盗み出す一連の作戦は、その大胆さも、作戦の細かい部分を丁寧に描く手法もドナルド・E・ウェストレイク的な味があります。
 なのに一見してそう思わせないのは、過激派の無政府主義者グループによる犯罪というインパクトが大きいからでしょうか。
 そもそもケイパーものというジャンルは通常、プロフェッショナルの犯罪者集団が強盗や詐欺をするものと定義されます。過激派のテロ作戦といわれると別物のジャンルの雰囲気です。
 また、『地下組織ナーダ』という邦題から読み取れる組織犯罪の小説という印象もそれに拍車をかけます(実のところ〈ナーダ〉の構成員はたったの六人なので、組織と呼ぶのは大袈裟に感じるのですが)。
 このように政治的なテロ組織を主役にしているのがケイパーものというジャンルからはみ出した、本書の真骨頂となる部分なのか?
 そうは思いません。
 少なくとも今現在の視点で読んだ時に本書の長所と感じる箇所ではない。過激派グループによるテロ行為というのは、ケイパーものという枠と同レベルの重みにあるもので、そこを超越したところに読みどころがある。
 それこそが、この作者が何度も書いてきた、飼い慣らせない暴力の描写なのです。

   *

 誘拐作戦が実行された後、〈ナーダ〉を追う者としてゴエモン警部が登板してから物語は雰囲気を変えます。
 それまでケイパーもののパターンを踏まえて進んでいたのが定石を踏み外していくのです。
 ゴエモンは徹底的に過激派グループを攻撃します。
 彼らに対して一ミリの情も持たない。
 既に大使誘拐のための襲撃シーンなどで人を人とも思わぬ殺戮シーンは描かれているのですが、ゴエモンの登場により作中の暴力描写のギアが上がる。
 拷問さえも厭わずに〈ナーダ〉を追う。上からの命令を受けているのだからそれが正しい。むしろそうしないことが間違っていると信じて、彼は手段を問わずに真っ直ぐに進みます。
 そして追い詰めた先で大殺戮を始めるのです。
 相手が降伏の素振りを見せようが構わない。絶対に奴らを殺す。ゴエモンの頭にあるのはそれだけです。作中で最も苛烈に暴力を振るうのは、間違いなく犯罪者たちではなくゴエモンです。
 しかし、だからといって本書は過激派アナキストのイデオロギーが根底にある、官憲を糾弾するだけの小説という感じでもない。
 マンシェットは〈ナーダ〉のメンバーもどこか突き放しています。
 ゴエモンは悪、〈ナーダ〉は正義のヒーローといったような単純な構図では書かないのです。
 上記の大使誘拐のための襲撃場面をはじめ、ブエナベントゥーラらも大量に人を殺しますし、彼らの信念の部分についてはむしろ空虚さや幼さを強調して冷笑しているようです。
 ケイパーものというジャンルの枠と同様に、過激派アナキストの政治小説という枠も過激な暴力によって超越されているのです。
 結局、暴力だけが全ての枠を超えて残っている。
 これがマンシェットの狙いでしょう。
 襲撃のため、あるいは信念のための仕方ない犠牲という口実も消え失せて、ただ、相手を傷つけたいという気持ちだけが膨れ上がる。
 作中人物は終盤、自分の状態を認識しながらも暴力の連鎖から降りられない。
 ここの虚しさが最大の読みどころです。

  *

 各所で指摘されていますが〈ナーダ〉というのはポルトガル語で虚無という意味です。
 それを知った時、なら、ゴエモン警部も〈ナーダ〉の一員ということなのだろうな、とまず思いました。
 単なる手段のはずだった暴力が目的と化してそれだけが残ってしまう虚しさを抱えているのはブエナベントゥーラも、ゴエモンも同じだからです。
 読み終えて内容からタイトルに至るまで振り返ってみた時に、全てに納得がいくあたりに作家としての手腕を感じます。
 作中人物と違って、マンシェット本人は目的を決して見失わないのです。

 

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人五年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby