書評七福神とは翻訳ミステリが好きでたまらない書評家七人のことなんである。

 この連載が本になりました! 『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』(書肆侃侃房)は絶賛発売中です。

 というわけで今月も書評七福神始まります。

(ルール)

  1. この一ヶ月で読んだ中でいちばんおもしろかった/胸に迫った/爆笑した/虚をつかれた/この作者の作品をもっと読みたいと思った作品を事前相談なしに各自が挙げる。
  2. 挙げた作品の重複は気にしない。
  3. 挙げる作品は必ずしもその月のものとは限らず、同年度の刊行であれば、何月に出た作品を挙げても構わない。
  4. 要するに、本の選択に関しては各人のプライドだけで決定すること。
  5. 掲載は原稿の到着順。

 

 

川出正樹

『アリスが語らないことは』ピーター・スワンソン/務台夏子訳

創元推理文庫

 ピーター・スワンソンって、本当に筋金入りのミステリ・マニアだよな。アイリッシュやハイスミスの物語が醸し出す上質なサスペンスの香気と、ジェイムズ・M・ケインやバリンジャーの犯罪小説の底に淀んだ熱情と哀惜。この二つを兼ね備えた上で謎解きに凝り、死角からの一撃で読者を唖然とさせるエンターテインメント作りに徹する姿勢が、実に素晴らしい。

「見知らぬ乗客」を思わせる幕開けから章が変わるたびに異様に変容していく『そしてミランダを殺す』、「裏窓」と某有名作を掛け合わせてゴシック・ロマンスをリニューアルした『ケイトが恐れるすべて』と来て、さて『アリスが語らないことは』だ。

 海沿いの遊歩道から父が転落死したという義母アリスからの電話に、急遽、実家に戻った大学生のハリー。葬儀の翌日、警察から他殺の可能性があると知らされた彼はアリスと話し合おうとするが、なぜか彼女は夫の死について話題にしたがらない。美しく年若い義母に惹かれつつも、かすかに芽生えた疑念を拭い去ることができないハリーは、四年前に父と結婚したアリスについて何も知らないことを再認識する。彼女は父の死に関わっているのか、それとも……。

 父の死と義母の態度に釈然としないハリーの視点から語られる現在パートと、謎に満ちたアリスの人生が少女時代から遡って明かされていく過去パート。交互に語られる静かで不穏な緊張感に満ちた物語から目が離せずページをめくっていくと……いやこれ以上はやめておこう。某テーマの古典をアレンジした名作ミステリをさらに一ひねりして、男女を逆転させたゴシック・スリラーと融合する手際に感服しました。

 今月はもう一冊、ケイトリン・マレン『潮の湿地に消えゆく前に』(国弘喜代美訳/ハヤカワ・ミステリ)もお勧め。黄昏ゆくカジノの街アトランティックシティを舞台に、連続女性殺人事件に関わらざるを得なくなった、人の想いを視ることがてきる少女とニューヨークで傷つき帰郷した女性が、再出発すべく逆境に抗う姿を活写した物語。アイヴィ・ボコーダの骨太な犯罪小説『女たちが死んだ街で』(高山真由美訳/ハヤカワ・ミステリ)と、舞台や被害者、犯人像など通底する処も多く、読み比べてみることをお勧めします。

 

千街晶之

『NSA』アンドレアス・エシュバッハ/赤坂桃子訳

ハヤカワ文庫SF

 本作の舞台は、一九四○年代なのに現代並みにコンピュータや携帯電話といったテクノロジーが発達しているナチス第三帝国である。「ナチス関連の改変歴史小説? そんなの珍しくもないでしょ」と思ったそこの貴方に告ぐ――その種の試みが数多ある中でも、これほど衝撃的な小説は滅多にないのだ。本作にはユダヤ人抹殺にブレーキをかけようとする善人と、ナチスを利用して個人的な意趣晴らしをしようとする悪人という二人の主人公が登場するが、恐ろしいのは、善だの悪だのといった個人的な属性など、国家の暴力的な脅威の前では次第に無意味化してゆく点だ。徹底的な監視国家においては、善人としてどころか悪人として生きる自由すらもないのである。読者によっては強烈な拒否感、嫌悪感を伴うであろう結末の衝撃を、是非受け止めてほしい。

 

北上次郎

『アリスが語らないことは』ピーター・スワンソン/務台夏子訳

創元推理文庫

 相変わらず、ヘンな話だ。

 父親の事故死を知って帰郷した大学生ハリーの現在と、父親の後妻アリスの若き日の回想が交互に描かれる構成だが、このアリスのパートが圧巻。読み応えたっぷりで素晴らしい。

 まだ2月だというのに、こんなことを言うのもなんなのだが、2022年のベスト3圏内は確実、という傑作だ。1位か、2位か、3位になるかは、これから出てくる本で決まる。2022年の、そういう基準となる1冊だ。

 

吉野仁

『塩の湿地に消えゆく前に』ケイトリン・マレン/国弘喜美代訳

ハヤカワ・ミステリ

 

 これは、アトランティックシティのボードウォーク沿いで叔母とともに占いの店で生計をたてていた少女クララとカジノホテルのスパで働く若いリリーというふたりの女性の語りを中心に展開していくサスペンスだ。クララは、あるとき失踪した少女の捜してほしいと依頼された。ところが、彼女は忌まわしいビジョンが見えることに悩まされはじめていった。そこでリリーに助けを求めた。本作は、二〇二一年度エドガー賞最優秀新人賞受賞作。同年の最優秀長篇賞に輝いた『ブート・バザールの少年探偵』 、同賞ノミネートの『女たちが死んだ街で』とどこか共通するのは、主人公らの暮らす街の状況とその生活を詳細に語ることで、地区をおおう犯罪の本質にある部分を浮かび上がらせようとした書きぶりにあるのだろう。またサイキック少女の登場は、キングの少年少女ものを思わせた。派手さはないが、じっくりと読まされる良質な物語だ。そのほか、ピーター・スワンソン『アリスが語らないことは』は、また一段実力を増したと思わせる書きぶりで魅力ある人物が描かれており、その先を読まずにおれない展開を堪能した。ナディーン・マティソン『ジグソー・キラー』は、ロンドンを舞台にしたサイコスリラーと警察小説があわさったもので、すでに捕らえられた凶悪なシリアルキラーの模倣犯を追う話だが、黒人女性刑事が主人公であるなど、設定や展開のさまざまな部分で新味を持たせたており、飽きさせない。ハーラン・コーベン『森から来た少年』は、幼い頃にひとり森で育った過去をもつ謎の男が、行方不明の子供を捜し出すという話が本筋ながら、女性弁護士へスターに孫のマシューなど、個性的な人物の登場とひねりの多い展開のみならず、驚きの趣向もしっかりとほどこされており、さすがコーベンと言いたい出来映えである。

 

霜月蒼

『ブッチャー・ボーイ』パトリック・マッケイブ/矢口誠訳

国書刊行会

 年間ベスト級の作品に2作出会ってしまった。ひとつがアイルランド作家マッケイブの幻の名作たる『ブッチャー・ボーイ』である。とんでもなく痛々しく悲しく愚かしく、何よりイノセントな傑作だ。

 アイルランドの貧しい家の少年が、貧困と差別と、ときおり制御できなくなる反社会的な衝動のために道を外れてゆくさまが一人称で描かれる。と書くとよくある話に見えるかもしれない。犯罪にいたる衝動をある種の病理として饒舌な一人称で書いているから、読み心地にはジム・トンプスンに通じるところがある。だが、本作の主人公は13歳かそこらなのだ。彼の愚かさは幼稚さであり、すなわちイノセンスだ。だから悲しくなる。他人事として読めない。友だちをなくしてこんな思いをしたことがあった、とか、めんどくさいあいつはこんな気持ちだったんじゃないか、とか、読んでいると記憶が触発される。心が何度も破れそうになった。ハゲ薬のネオンをクスクス笑いながら見ている主人公の、底なしの悲しさと孤独。傑作です。グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』と並び称されるべき作品なんじゃないかな、

 もう一冊は12月刊行だったので次点とするが、ヴェトナム系アメリカ作家ヴィエト・タン・ウェンの『革命と献身 シンパサイザーII』。前作『シンパサイザー』も傑作だったが、今回はヴェトナム戦争時に陰謀の担い手として暗躍した主人公らがボートピープルとして亡命したパリでの物語。植民地主義と叛乱、西洋と東洋、虚像と実像、サロンでの知的議論と移民犯罪者の殺し合い、といった無数の対立を、スカトロジーまでも内包する饒舌すぎる皮肉な語りがかき混ぜて、異様なグルーヴうねる政治ノワールができあがっている。一筋縄でいかないナラティヴで一筋縄でいかない世界に挑んでいるところはジョン・ル・カレのようだし、エルロイの〈アンダーワールドUSA3部作〉がお好きな人にも薦められます。

 

酒井貞道

『アリスが語らないことは』ピーター・スワンソン/務台夏子訳

創元推理文庫

 衝撃的な展開、意外な真相、それを支えるに十分な伏線やヒントの配置。本書はもちろんそれらを完備している。『そしてミランダを殺す』『ケイトが恐れるすべて』の作者なだけあって、今回もミステリとしての完成度はとても高い。だが今回は、それ以上に、物語の静謐で孤独な雰囲気に呑まれた。

 現代のパートでは、書店経営者である父ビルの急死に、大学生の一人息子ハリーが疑いを抱く。一方、過去のパートでは、ビルの後妻であるアリスの過去が、意味ありげに語られる。現代と過去のエピソードを交錯させて、その中に巧みに真相を隠し、伏線を配置する。その手並みはすでに練達の域にある。上手い。これだけで買い。だがそれ以上に印象的だったのは、語り手の孤独感や寂しさから来る《静けさ》である。語り手を務める人間は全員、心象風景が荒涼寂寞としており、全篇にしみじみとした寂寥感が染みわたっている。《犯人》と呼べる人物が自分の視点から《犯行》を告白する場面ですら例外ではない。視点人物は全員、他人に興味がないわけではない。一人がいいわけでもない。だが様々なものが掛け違って、どうしようもなく孤独なのだ。こういった《心のスキマ》を、作者は丁寧に掬い取っている。創元推理文庫の前二作でもこの傾向はあったが、今回は明らかにその度を増していて、惹き込まれる。素晴らしいミステリであると同時に、視点人物の人生と運命を描く、見事な小説にもなっている。それは幕切れにも如実に表れていて……おっとこれは書かない方がいいな。ともあれ、オススメです。

 

杉江松恋

『アリスが語らないことは』ピーター・スワンソン/務台夏子訳

創元推理文庫

 ミステリーとして、犯罪小説としておもしろいものは他にも多数あるのだが、小説としてはこれが一番なので選ばざるをえない。本を開いたら百ページまではあっという間に読めてしまう。裏表紙に書いてあるあらすじはだいたいその百ページくらいまでのことなのだが、犯罪小説として決定的な要素は九十ページめぐらいに出てくる。それまでは何が書かれているかというと、父が亡くなった後、十五歳しか離れていない継母のアリスに性的な魅力を感じてしまっている息子ハリーの葛藤なのである。現在パートと過去パートが並行する小説で、過去のほうは高校生のアリスが視点人物となる。アルコール依存症気味の母親にうんざりしている彼女のキャラクターが魅力的で、目の前に本人が現れるような存在感がある。アリスは何事に対してもそっけない態度を崩さないのだが、後にハリーの継母となったときの彼女とはちょっとキャラクターのずれがある。そこに感じる違和が、たぶん小説を読み進めさせる原動力になっているのである。アリスとはどんな女性かを知りたくて、みんなページをめくるのだ。小説としての作りは実にうまくて、過去パートでは予兆の技巧が効果的に使われている。登場人物よりも先に読者が気づいていて、そうなるだろうな、と思っていることは必ずそうなるのだ。逆に現在パートではハリーの視野が制限されているため、何が起きるかわからないという宙吊り感覚が楽しめる。この二つの語りが交互に出てきて、読め、先を読め、と迫るのだ。そりゃ読むだろうよ。あっという間に読み終えてしまうぞ、すごいぞ。

 

 期待の作家が今月は強かったですね。それ以外にも個性がばらばらな作品が集まりました。さあ、どれから読みましょうか。来月のこの欄もお楽しみに。(杉)

 

書評七福神の今月の一冊・バックナンバー一覧