田口俊樹

  妻に誘われ、先日辻井伸行氏のソロ・ピアノ・コンサートを聞いてきました。われわれ夫婦はお互い趣味が合わないので、そういう機会はあまりないのですが、今回はつきあって大正解でした。月並みな言い方しかできないのが悔しいけど、ほんと、心が洗われました。なんとも言えない幸せな心持ちになりました。気づくと何度か居眠りしてたけど。これも、ま、いい心持ちになった証拠ですね。まわりを見まわすと、老若女女。男はそれこそ赤飯に振りかけたゴマ塩程度で、やっぱり文化は女性に支えられている、なんて改めて思いました。
 アンコールが四曲も五曲もあったんですが、ようやく終わったところで、私の隣りに坐っていた年配の女性がおっしゃいました。「あんなにやらなくてもいいのに」もちろん、非難の口調ではありません。思ったことがついそのまま口を突いて出てしまったんでしょう。それでも、ま、誤解されてもしかたのないことばです。で、言ったあと、ご本人もそれに気がついたみたいで、ちょっとバツの悪そうな顔をなさいました。存外大きな声だったみたいで、隣の席の私だけでなく、まわりの人にも聞こえたのか、見ると、帰り支度をしていた手が一斉に止まっています。その一瞬のちでした。どこかから女性の声がしました。「そうよね、きっとお疲れでしょうに」絶妙なフォローです。それで一気に気まずい空気が消えました。この優れた社交性。文化だけじゃないですね、社会そのものが女性に支えられているんですね! よいしょ!

〔たぐちとしき:ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬と麻雀〕

 


白石朗

 NHKの音楽番組〈SONGS〉にJUJUが出演、近々発売になる松任谷由実作品のカバーアルバム『ユーミンをめぐる物語』について話し、収録曲から3曲をスタジオで披露していた。そのうちの1曲「DESTINY」の歌詞字幕を見ていて思い出したことがある。アルバム『悲しいほどお天気』発売当時、有名な「どうしてなの 今日にかぎって 安いサンダルを はいてた」という一節を勘ちがいしていた黒歴史だ。
 当時大学生だったぼくは、「安いサンダルをはいてた」のは「緑のクウペ」をとめて「磨いた窓をおろして口笛ふく」男性、つまり主人公を捨てた男であり、それを見た主人公が「どうしてなの(なんでそんな安サンダルを)?」と(答えのわかっている)疑問を投げかけている歌だ、と思いこんでしまったのだ。
 そのときわがぼんくら脳裡には、“ちょいとワルな雰囲気があって「昔より 遊んでるみたい」な男が、同棲相手の女性の安い白サンダルをアパートの三和土で無造作につっかけて、タバコかなんか買いにちゃらちゃら出てきたところ、昔の恋人にばったり出くわした”という俗っぽいシーンが鮮明に浮かんで、思いこみをますます強めていたのですね。
 歌詞をちゃんと読んでいればここが直前の二行を受けたものとわかるはずで、「サンダルをはいてた」の主語をとりちがえるはずはない。そこを読み飛ばして誤読したうえ、それに適合する情景までありありと想像してしまって、脳内で完結させていた。おっと、これ、「読み落としと思いこみ」という誤訳の発生メカニズムそのままじゃねーか。はい、おあとがよろしいようで。
*参考:松任谷由実「DESTINY」の歌詞

〔しらいしろう:老眼翻訳者。最近の訳書はスティーヴン・キング&オーウェン・キング『眠れる美女たち』。〈ホッジズ三部作〉最終巻『任務の終わり』の文春文庫版につづいて不可能犯罪ものの長篇『アウトサイダー』も刊行。ツイッターアカウントは @R_SRIS

 


東野さやか

 先日、車の任意保険の更新手続きをしました。ネットの手続きそのものは簡単に済むのですが、毎年ぎりぎりになってしまうのは、積算走行距離計の数字を確認するのを忘れるから。いま乗っている車はエンジンをかけないと積算走行距離計が表示されません。そしてなぜか、エンジンを切った直後に、思い出すんですよね。確認しなくちゃいけなかったことを。とはいえ、そのためだけにエンジンをかけるのももったいなく、次こそ確認するぞと誓うわけですが、やっぱり忘れる、の無限ループ。
 それでもどうにかこうにか走行距離を確認し、無事に手続きを終えたわけですが、この一年で走ったのがわずか四百キロだったのには驚きました。へたしたら、給油一回分? もっと乗ってあげないとかわいそうだと反省してます。まずは糸満にある具志川城跡かな。沖縄本島最南端にある城跡で、三方を海に囲まれた断崖にあって、太平洋を一望できる絶景スポットだそうです。その前に「か」のつく作業を終えなくては。 

〔ひがしのさやか:最新訳書はM・W・クレイヴン『ブラックサマーの殺人』(ハヤカワ文庫)。ハート『帰らざる故郷』、チャイルズ『スパイシーな夜食には早すぎる』、クレイヴン『ストーンサークルの殺人』、アダムス『パーキングエリア』など。ツイッターアカウント@andrea2121

 


加賀山卓朗

 昔、何かのインタビューで、デニス・ルヘインが、白人男性を主人公にした物語にはあまり共感できなくなったという趣旨の発言をしていた(たしかembraceという動詞を使っていた)。それがずっと気になっている。ボルティモアの黒人社会を描いたドラマ、THE WIRE/ザ・ワイヤーの脚本を書いたり(このドラマの脚本はジョージ・ペレケーノスもけっこう書いている。ただ、いちばんおもしろかったのは白人港湾労働者が主人公のシーズン2でしたが)、小説『あなたを愛してから』の主人公が女性だったりしたのは、そういう思いがあるからなのかなあと。
 で、また宣伝になりますが、このたび訳したS・A・コスビーという黒人作家の犯罪小説『黒き荒野の果て』をルヘインがすごく褒めているのは、やはり同じ流れなのだろうか。裏家業から引退していた黒人の主人公が金欠でまた悪い仕事に手を出してしまうという、まあ、どこかで聞いたような話ではあるのですが、カーチェイスは痛快だし、登場人物も魅力的。ところどころルヘイン節もあったりして。なるほど絶賛したくなる気持ちもわかります。ご興味があったらお手に取ってみてください。(でもルヘインさん、今後キング御大みたいに絶賛を乱発しないでね……)

〔かがやまたくろう:ジョン・ル・カレ、デニス・ルヘイン、ロバート・B・パーカー、ディケンズなどを翻訳。最近の訳書はスウェーデン発の異色作で意欲作、ピエテル・モリーン&ピエテル・ニィストレーム『死ぬまでにしたい3つのこと』〕

 


上條ひろみ

  タイトルを見て「これ絶対おもしろいやつ!」と確信した。帯(背)を見ると、「このタイトルが気になる方へ。面白さは保証します。」クイーム・マクドネル『平凡すぎて殺される』(青木悦子訳/創元推理文庫)のことです。さすが、保証するだけあって面白さ爆発。オフビートな感じと豪快な巻き込まれっぷりがウィリアム・ボイルの『わたしたちに手を出すな』っぽくて、めっちゃ好きなタイプ。絶賛「世をすねてます」中の主人公ポール、ミステリ大好きな看護師ブリジットなどのメインキャラはもちろん、端役にいたるまで、登場人物全員がハイアセンなみにキャラ立ちまくりで最高です。わたしのお気に入りはなんといっても、兵隊なみに汚い言葉を使いながら「礼儀を失わないように子音をmにしている」ドロシーです(このおもしろさはぜひ読んで体感してほしい)。
 もう一冊、今月ののけぞった本は、リサ・ガードナーの『棺の女』(満園真木訳/小学館文庫)。五年まえに刊行された本でなんとなく読みそびれていたけど、心を揺さぶるプロットと巧みな構成、痛々しい監禁ものなのに奇跡のように爽快なラストシーンに、完全にノックダウンされました。シリーズ続編の『完璧な家族』は♪akiraさんの二月のイチオシ本なのでぜひ読まなければ。

〔かみじょうひろみ:英米文学翻訳者。おもな訳書はジョアン・フルークの〈お菓子探偵ハンナ〉シリーズ、ジュリア・バックレイ『そのお鍋、押収します』、カレン・マキナニー『ママ、探偵はじめます』、エリー・グリフィス『見知らぬ人』など。最新訳書はフルーク『チョコレートクリーム・パイが知っている』〕

 


高山真由美

『The Best American Mystery And Suspense 2021』という年刊アンソロジーの短篇を一篇ずつ読んでいく小さな読書会をはじめました。このアンソロジーは1997年から毎年刊行されているシリーズの最新刊で、長らくオットー・ペンズラーがチーフを務めていましたが、この21年版からはステフ・チャにバトンタッチ。新しいチーフのステフ・チャが、ゲストのアラフェア・バークと一緒に選んだ短篇20篇が収録されています。
 ツイッターのスペース機能を使い、「会のトリセツ」と称した予行演習で恥ずかしい失敗をしたあと(自分のマイクミュートのまま、気づかず一人で15分くらいしゃべってしまいましたよ、ははは…)、3/4には無事、第1回を実施することができました。第2回以降も4のつく日の22:00から毎回30分くらい、ゆるい感じでやっていく予定です。興味あるかたは覗いてみてくださいませ。ちなみに次回、3/14に取りあげる短篇は “SWAJ” by Christopher Bollen です。タイトルの意味は辞書を引いてもわかりませんが、読みはじめるとわかります。アミティという町の名前にピンとくる人ならより楽しく読めるはず。

【転居届】このたび長屋を出ることになりました。このコーナーがはじまってから一年とちょっと、お付き合いくださったみなさま、ありがとうございました。またどこかでお会いしましょう。

〔たかやままゆみ:最近の訳書はポコーダ『女たちが死んだ街で』、ヒル『怪奇疾走』(共訳)、サマーズ『ローンガール・ハードボイルド』、ブラウン『シカゴ・ブルース(新訳版)』、ベンツ『おれの眼を撃った男は死んだ』など。ツイッターアカウントは@mayu_tak

 


武藤陽生

 来月から小学生になる息子の勉強になるものをと思い、本屋に行き、小学校低学年向けの算数ドリルをめくってみました。帯分数……仮分数……ってなに??? まさか小学生がこんなに難しいことを勉強しているとは思いもしませんでした。私もこんなことを勉強してきたんでしょうか? まったく覚えていません。日々、いろいろなジャンルの翻訳をしていると、表層的な知識が入ってくるため、多少はものを知っているように錯覚してしまうことなきにしもあらずですが、こうして本屋に並ぶ参考書を適当にめくってみると、書いてあることが何ひとつわかりません。仕事なんかしてても馬鹿になるだけなんですね。それでも確定申告はできるぞ! と、息巻いてみたところで、会計ソフトがなければ貸方と借方のちがいもわからない始末。がっくりへこみましたが、そうこうしているうちに確定申告の入力が終わりました。よし、ゲーム買うぞ! 

〔むとうようせい:エイドリアン・マッキンティの刑事ショーン・ダフィ・シリーズを手がける。出版、ゲーム翻訳者。最近また格闘ゲームを遊んでいます。ストリートファイター5のランクは上位1%(2%からさらに上達しました。まあ、大したことないんですが…)で、最も格ゲーがうまい翻訳者を自負しております〕

 


鈴木 恵

 児童文学の名作として名高い『シャーロットのおくりもの』(E・B・ホワイト作/さくまゆみこ訳/あすなろ書房)を、必要に迫られて読みました。主人公は農場に暮らすウィルバーという子豚と、その友達のシャーロットという蜘蛛。冬が来たら自分はハムにされてしまうのだと知って泣きわめくウィルバーを救うため、シャーロットが一計を案じるという物語です。死を恐れながらもけっこう幸せに毎日を暮らすウィルバーと、冬になれば自分も死ぬことを承知のうえでウィルバーのために全力を尽くすシャーロットの対比が、この物語のポイントといえるでしょうか。子供の頃に読んでいたら、そこにきっと切なさのようなものを感じたと思います。
 この本を読んだのと同じ日、奇しくもこれまた豚が主役の、《グンダ》という映画を見ました(監督ヴィクトル・コサコフスキー/アメリカ・ノルウェー合作/2020年)。母豚のグンダに十数匹の子豚が生まれるところから、彼らがグンダから引き離されて出荷されるところまでを、ナレーションも音楽もなしに淡々と、美しい白黒の映像で綴ったドキュメンタリーです。この子豚たちには一匹のシャーロットもいなかったわけですが、では彼らは不幸だったのかといえば、決してそんなことはないのではないか、短いあいだではあれ、天真爛漫に、豚として幸せに生きたのではないか、そう思わせてくれる作品でした。
〔すずきめぐみ:この長屋の万年月番。映画好きの涙腺ゆるめ翻訳者。最新訳書はライリー・セイガー『すべてのドアを鎖せ』ツイッターアカウントは @FukigenM