田口俊樹

 この十五年を振り返る、なんて前回の「長屋」に書きましたが、それには自分にプレッシャーをかける意味もあったんですが、まるで思い出せない! それに事実に反することを書いちまってもまずいので、記憶に自信のあるところだけ書きます。それは――いかにしてこの活動は始まったか。
 これを始めるまえ、私は翻訳ミステリー界を盛り上げたいという思いから、『ミステリマガジン』の編集者Мさんに協力を仰ぎ、故北上次郎さんも巻き込んで、書評家さんや書店員さんやミス研の学生さんたちに集まってもらい、『ミスマガ』誌上座談会を一年か二年やっていました。それが終わってしまい、ちょっとロス状態になっていたところ、翻訳者の亀井よし子さんのご夫君のお通夜の帰り、ふと思い立ち、路上で越前敏弥さんに声をかけたのでした。「翻訳ミステリー界を盛り上げることがなんかできないかね?」と。
 その思いは越前さんも同じだったようで、そこからはとんとん拍子でことが進みました。発起人が私と越前さんだけじゃさびしいんで、故小鷹信光さんと深町眞理子さんにお名前を貸していただき、名実ともなう発起人として、白石朗さんにも加わってもらいました。あとは親しい翻訳者、編集者、書評家に声をかけると、みなさん快諾してくださり、正式名は「翻訳ミステリー運営事務局」とものものしいですが、実のところ、かちっとした組織とは真逆のアメーバ的ヴォランティア活動が始まったのでした。
 活動の目玉として賞を設けること、その賞の特色づけとして翻訳者自身が賞を選出すること、このふたつはすんなりと決まったように思います。それと、そう、このサイトの運営ですね。
 主催するイヴェントとしては、やはり大賞を発表する年に一度のコンヴェンションです。ほかにも各種催しがありました。(そう言えば、ミステリー作品に登場する料理を実際につくる料理教室みたいなものもあって、私もエプロンをつけて一度参加したのが懐かしく思い出されます。)
 しかし、一番大きな成果は現在も続いている読書会でしょう。最初は東京でやっていたものが全国に広がりました。これについては、地方在住の主催者のみなさん、それに事務局側としては越前さんの功績大です。みなさんには頭が下がります。

 15年続いた翻訳ミステリー大賞は今年で幕を閉じますが、来年からは日本推理作家協会が協会賞に翻訳部門を設けてくださり、本格的に始動します。日本のミステリーにも面白い作品がいっぱいありますが、なんてったってこっちは世界に在庫があります。英米が多いとはいえ、北欧ミステリーもジャンルとして今や確立しています。また、昨今のアジアン・ミステリーの台頭には眼をみはるものがあります。
 みなさんには、今後も相変わらぬ翻訳ミステリー愛を燃やしつづけていただけますようお願い申し上げます。長いあいだのご支援、ご協力まことにありがとうございました。

〔たぐちとしき:ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬と麻雀〕

 


白石朗

 拙訳のスティーヴン・キング『異能機関』「楽天 Kobo 電子書籍 Award 2024」の「小説(海外編)部門」において大賞を受賞し、5月10日には担当訳者ということで都内でおこなわれた表彰式の末席を汚してきました。

 そういえば……と思いがいたったのは、やはりキング作品の『11/22/63』が第5回翻訳ミステリー大賞に選出されたのが、ちょうど十年前の2014年4月だったことです。もちろん今回の受賞も――履歴書の賞罰欄に堂々と書ける作品がふたつになったぞ、と――喜ばしかったのですが、翻訳ミステリー大賞は翻訳者諸兄姉の投票で選出されたこともあって、うれしさ百倍、ちょっぴりの誇らしさひとしおでした。

 それから十年、大賞は第15回授賞作にク・ビョンモ『破果』(小山内園子訳)を選出してその役割をおえることになりました。
 これまでの大賞や大賞授賞式、あるいはサイト運営などでお力添えをいただきました数多くの方々、コンベンションや読書会などのイベントに参加してくださった熱心な読者の方々に、ここで大賞発起人のひとりとして、事務局の一員として、深甚なる謝意を表したいと思います。本当にどうもありがとうございました。また、どこかでお会いしましょう。

〔しらいしろう:老眼翻訳者。最近の訳書は、凄腕暗殺者の最後の仕事をテーマにしたスティーヴン・キングの超異色作『ビリー・サマーズ』。同じくキングの日本版オリジナル中篇集も準備中。ツイッターアカウントは @R_SRIS

 


東野さやか

 先月、長年愛用していたオンライン書店が本の通販を取りやめた話を書きましたが、今度はつい先日、市内のデパートにあった〈リブロ〉が閉店しました。海外ミステリの取り扱いが少ないのが残念でしたが、それでも、近くまで出かけたときには店内をぶらぶらしたものです。この〈リブロ〉は書店のない離島での出張販売もしていましたが、あの取り組みは今度どうなるのでしょう。気になります。
 そして、『翻訳ミステリー長屋・新かわら版』はとうとうこれが最終回。ツイッター(現X)のツイートと同様、どうでもいい話しか書けませんでしたが、なにもないところからなにかをひねり出すという作業をふだんほとんどしないので、いろいろと刺激になりました。
 長屋の連載は終了しますが、ほかの連載はまだしばらくつづきます。これからも変わらず、のぞきに来てくださいませ。

〔ひがしのさやか:最新訳書はシェルビー・ヴァン・ペルト『親愛なる八本脚の友だち 』。その他、クレイヴン『グレイラットの殺人』、スロウカム『バイオリン狂騒曲』、チャイルズ『クリスマス・ティーと最後の貴婦人』。ツイッターアカウント@andrea2121

 


加賀山卓朗

 最後に宣伝というのも品がないかもしれませんが、このたび、早川書房から出ていなかったジョン・ル・カレ作品のいくつかを早川さんが順次復刊することになりまして、『ナイロビの蜂』のゲラを読んでいます。もうほとんど内容を忘れているので新作を読んでいる気分ですけど、これちょっと笑えるほどの傑作。冷戦が終わったあともル・カレはほかの題材で書けたから生き延びた、その転機は『ナイロビの蜂』だった、とよく言われますが、これ以降の作品はほぼスパイものに戻っているので、むしろナイロビが異例だったのでしょう。手を入れるべきところも多々ありますが、ル・カレの翻訳で修行を積んだ(!)いまだからこその発見もあって、なんだかウキウキする作業に。たとえば、狂言回しウッドロウの造形の見事さ。夏ごろ出るはずです。初ル・カレのかたにもぴったり。未読のかたはぜひお手に取ってみてください。
 しかし15年ですか。本郷の鳳明館でサークル合宿のような授賞式をしたのが昨日のことのように思い出されます。が、15年後に自分が翻訳を続けているかどうかもわからなかったし、中国発のSFや冒険小説で大興奮するとか、韓国ドラマを観まくるとか、神田伯山の追っかけをするとか、当時は夢にも思いませんでした。世の中の変化は言うに及ばず。15年もたてば、いろんなことがあるものですね。長屋はとりあえず終わりますが、皆さんの読書ライフが永遠に(eternal(ly)はル・カレの口癖)愉しからんことを!

〔かがやまたくろう:ジョン・ル・カレ、デニス・ルヘイン、ロバート・B・パーカー、ディケンズなどを翻訳〕

 


上條ひろみ

 このたび翻訳ミステリー長屋が(老朽化のため?)取り壊されることになり、新かわら版は今回が最終回となりました。シンジケート事務局の翻訳者のみなさまと作ってきた「かわら版」と「新かわら版」、そのあいだの何年かわたしひとりで書かせていただいていた「お気楽読書日記」を読んでくださったみなさま、長いあいだほんとうにありがとうございました。翻訳ミステリー大賞が第十五回の今年で役目を終えたので、かわら版の終了も仕方ないとはいえ、やっぱり淋しいですね。コロナ前までやっていたコンベンションも、いろいろたいへんだったけど楽しかったなあ。翻訳ミステリー大賞が、そして「かわら版」が、少しでも翻訳ミステリーの発展に貢献できていたのならうれしいのですが。
 みなさんが近況を報告されるなか、毎月愚直にお勧め本を紹介してきたわたし。5月に読んだ本でお薦めしたいのは、まずイアン・ファーガソン&ウィル・ファーガソン『ミステリーしか読みません』(吉嶺英美訳/ハーパーBOOKS)。テレビドラマの元人気女優ミランダが小さな町を引っ掻き回す、はちゃめちゃ度高めのコージーミステリで、落ち目なのに大女優気分が抜けない(でも憎めない)ミランダのキャラが最高。ステファニー・プラムやワニ町シリーズが好きな人なら絶対好きなはず。
 S・A・コスビーの『すべての罪は血を流す』(加賀山卓朗訳/ハーパーBOOKS)は、人種対立の残る南部の町で、元FBI捜査官の黒人保安官タイタスが孤軍奮闘するハードな警察小説。捜査するのは目を覆いたくなるようなおぞましい事件だが、『頬に哀しみを刻め』同様、家族の絆に救われる。
 最後に図々しく宣伝! 2月に東京創元社のラインナップ説明会で紹介していただいた拙訳本、クリスティン・ペリンの『白薔薇殺人事件』が7月10日ぐらいに発売になります。すごいざっくりした説明だけど、クリスティを思わせる謎解きミステリです。ぜひ手に取ってみてくださいね!
 本好きな翻訳者として、またどこかでみなさまにお目にかかれる日を愉しみにしています。
 ありがとうございました。

〔かみじょうひろみ:英米文学翻訳者。おもな訳書はジョアン・フルークの〈お菓子探偵ハンナ〉シリーズ、ジュリア・バックレイ『そのお鍋、押収します』、カレン・マキナニー『ママ、探偵はじめます』、エリー・グリフィス『見知らぬ人』、『窓辺の愛書家』など。最新訳書はフルーク『トリプルチョコレート・チーズケーキが噂する』〕

 


武藤陽生

「新かわら版」も今回で最終回ということで、さびしいようなほっとするような……いつの間にか長屋のメンバーに含められていた名も実もない私は、さて何を書けばいいものやらと毎回頭を悩ませていました。
 今、翻訳ミステリーにとどまらず、翻訳業界そのものが岐路に立たされているように感じています。近年で一番の驚きといえば、ChatGPTの登場でしょう。ChatGPTの英語読解力はまじではんぱなく、翻訳業界もこれまでのままではいられないだろう、そんな日がいつか来るとは思っていたけれど、思っていたより早かったなという印象です。
 私はこれまでもグーグルなどのテクノロジーの力のおかげで、なんとか翻訳の真似事をして食べてこられたわけで、最後は「グーグルよ、今まで魚をありがとう」と言い残して別の惑星に引っ越す覚悟はしていました。
 とはいえですよ? とはいえ、AIがAyeを「あい」と訳すでしょうか。ショーン・ダフィの「あい」だけで翻訳ミステリー大賞を獲ってやろうと画策していた私、そううまくはいきませんでしたが、ショーン・ダフィ・シリーズだけは生きているうちに自分の手で全部訳したいと思っています。翻訳ミステリー業界ともども、今後とも応援のほどよろしくお願いいたします。

〔むとうようせい:エイドリアン・マッキンティの刑事ショーン・ダフィ・シリーズを手がける。出版、ゲーム翻訳者。最近また格闘ゲームを遊んでいます。ストリートファイター5のランクは上位1%(2%からさらに上達しました。まあ、大したことないんですが……)で、最も格ゲーがうまい翻訳者を自負しております〕

 


鈴木 恵

 翻訳ミステリー大賞が15年の歴史に幕を閉じました。改めて全15回の最終候補作を見てみると、5作品 × 15年ですから、75作品もあるんですよね。すごい数です。大賞受賞作を除いても60作あり、眺めているといろいろ感慨深いのですが、そのなかから1作だけ推すとしたらどれかな、と考えてみました(そういうの、楽しいですよね)。要するに、大賞こそ逃したものの、こっちもすごかったぞ、という本を1冊だけ選んでみたわけです。
 そしたら、それはもうわたしの中では断トツで、カリル・フェレ『マプチェの女』(加藤かおり、川口明百美・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫/2016年)でした。
 これは第8回の候補作のひとつで、本選ではもちろんわたしも一票を投じたのですが、惜しくもジョー・ネスボ『その雪と血を』に敗れました。でも、こちらも本当にすごい作品で、怒りが行間から噴き出してくるような強烈な印象が残っています。それなのに一般にはあまり注目されなかったようで、なんとももったいないので、この長屋の万年月番のわたくしがここで勝手に、賞を差しあげちゃいます(迷惑でなければいいんですが)。名付けて、翻訳ミステリー長屋新かわら版・万年月番賞! トロフィーも賞品もありませんが、おめでとうございます。

 というわけで、この「新かわら版」も今回が最終回。長らくのご愛読、ありがとうございました。またどこかでお目にかかりましょう。

〔すずきめぐみ:この長屋の万年月番。映画好き。最近面白かった映画は《インフィニティ・プール》《システム・クラッシャー》