田口俊樹

 話題の芥川賞受賞作、市川沙央氏の『ハンチバック』読みました。正直に言うと、ちゃんと理解できなかったところ多々あるんですが――たとえばSNSの世界でのヴォキャブラリーとか――それでもすいすいすらすら読めちゃって、それでいてただストーリーを追うだけじゃない読書の愉しみが久々に味わえました。
 まず主人公の世間への恨みつらみがとても痛快でした。これは皮肉の利いた知的なユーモアの賜物でしょう。
 さらになにより本書のキモ、主人公、釈華の願いに共感しました。堕胎したいがために妊娠したい。これが釈華の願いです。理屈とか頭とか心とか良識とか常識とか、もしかしら倫理とかで考えると、あまり共感できる願いではありません。なのに読みおえたら深く共感していました。
 おまけに共感している自分がなんだか嬉しい。
 作品に共感できて、なんだか自分が嬉しくなるこの読後感。ジュンブンをよく読んでるわけではないけど、最近の芥川賞では『コンビニ人間』以来です。
 ひょっとしたら、本作は読者を選ぶ作品かもしれませんが、ワタシ的には超お薦めです。ワタシなりに理解できた範囲でという但し書きがつくけれど。

〔たぐちとしき:ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬と麻雀〕

 


白石朗

 NHKのBSプレミアムで絶賛再放送中の宮藤官九郎脚本のドラマ『あまちゃん』。リアルタイム放送時には見ておらず、のちにレンタルDVDで見たはずなのに(節目のシーン以外はすっかり)記憶はおぼろなので、毎日「こりゃおもしろい」と初見同然に楽しく見ているうち、いつしか8月が過ぎ去っていました。とほほ。  そんななか、のん(能年玲奈)さんのアルバムに曲を提供している矢野顕子さんがこんなツイートを。

 おお、年末の〈さとがえるコンサート〉のレパートリーにも入るんでしょうか。いやでも期待してしまいます。ぜひぜひ。あとは「仕事を終えたぼくたちは」をもう一度。 

〔しらいしろう:老眼翻訳者。最近の訳書はスティーヴン・キング&オーウェン・キング『眠れる美女たち』。〈ホッジズ三部作〉最終巻『任務の終わり』の文春文庫版につづいて不可能犯罪ものの長篇『アウトサイダー』も刊行。ツイッターアカウントは @R_SRIS

 


東野さやか

 先々月のこのコーナーで、扇風機が首を振らなくなったと書きましたが、あのあと、けっきょく買い替えました。そして先月はステンレスの真空断熱構造ポットを買い替えました。魔法瓶といえば簡単ですが、もうそれも死語のような……。最近、あんまり聞かないですよね。保温ポットでいいのかな(保冷もできるけど)。それはともかく、ちょっと前からパッキンの劣化が気になっていて、パッキンを含めた蓋の部分を買おうしたものの、もう在庫なし。あきらめて本体ごと新しくしました。
 前のポットを買ったのは十二年前の三月。なんでそこまではっきり覚えているかと言えば、福島第一原子力発電所の事故で節電が呼びかけられたのをきっかけに、電気ポットをやめて保温ポットを使うことにしたから。当時は単純に電気の使用量を減らすことが大事だったからそれでよかったけど、実際のところ、ガスで沸かして保温ポットに入れるのと、電気ポットで沸かしてそのまま保温するのとではどちらが環境への負荷が少ないんでしょうか。気になります。
 ところで、今度は携帯電話が壊れました。調子が悪いのをだましだまし使っていたら、突然、うんともすんとも言わなくなりました。お祓いでもしたほうがいいんじゃないかという気分です。

〔ひがしのさやか:最新訳書はブレンダン・スロウカム『バイオリン狂騒曲』(集英社文庫)。その他、クレイヴン『キュレーターの殺人』、チャイルズ『ハイビスカス・ティーと幽霊屋敷』など。ツイッターアカウント@andrea2121

 


加賀山卓朗

 ディケンズの研究者や愛好家が集まるディケンズ・フェロウシップという会に入っていまして(会費を払えば誰でも入れます)、そこにおられる大学教授から、卒論でジョン・ル・カレについて書く学生がふたりいると相談され、いまときどきzoomで彼らと意見交換をしています。英文学部の卒論にル・カレ——そんな時代なんですね。ちなみにそのおふたりが取り上げるのは『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』『ナイロビの蜂』です。
 じつは、ル・カレとディケンズが似ているというのは個人的に気になっているテーマでして、文体レベルでも自由間接話法や歴史的現在の使い方など、掘り下げるときっとおもしろいと思う。牽強付会? かもしれませんが、ル・カレ自身、晩年のインタビューで読書はもっぱらディケンズと言っていたので、それほど強引なこじつけでもないかと。ビデオ会議では、『寒い国』の検問所の霧が『荒涼館』冒頭のあの有名な霧を思わせるといった興味深いご指摘もありました。文体や、そういう個々のイメージだけでなく、小説の構想という点でも、『パーフェクト・スパイ』はル・カレ版『デイヴィッド・コパフィールド』だと思うんですよ(自伝的であることに加え、回想パートで現在形を多用するスタイルも)。おふたりの卒論がどんな内容になるのか、いまからとても楽しみです。

〔かがやまたくろう:ジョン・ル・カレ、デニス・ルヘイン、ロバート・B・パーカー、ディケンズなどを翻訳〕

 


上條ひろみ

 先月はかわら版が休刊だったので、今月は七月と八月の二ヶ月に読んだ本のなかからオススメをご紹介。そうでなくても夏は各社の目玉作品の刊行ラッシュ、二ヶ月分となるとかなりボリューミーですが……ちなみに読んだ順です。
 
暗殺者たちに口紅をディアナ・レイバーン(西谷かおり訳/創元推理文庫)
おばちゃんのふりしていても隠せないスキルの高さと謎の安心感。迫り来る危機をものともしない元暗殺者たちがかっこよすぎる。〈ワニ町〉のハード版?
 
盗作小説ジーン・ハンフ・コレリッツ(鈴木恵訳/ハヤカワ・ミステリ)
ミステリにありがちな展開と思うなかれ。多くの読者を引きつけ、映画化され、オプラの番組に取り上げられ、あらゆるブッククラブやブログが話題にしそうなプロットに興味津々。落ちの見事さもふくめ、翻弄されまくりでした。
 
卒業生には向かない真実ホリー・ジャクソン(服部京子訳/創元推理文庫)
衝撃的すぎる完結編。あのピップがどうして……!と思うことばかりで序盤から読むのがつらかったし、途中何度も心臓が止まりそうに。リアリティに富んだ描写はとてもYA作品とは思えず、読む者の心に刺さって忘れることのできない痛みを残す。
 
暗殺コンサルイム・ソンスン(カン・バンファ訳/ハーパーBOOKS)
リストラと称して殺しのシナリオを書く暗殺コンサル。彼を操る会社とそのシステムの設定がなんとも見事でクイクイ読めてしまうスリラー。組織に適応するしかない人間の悲哀がずっしりくるけど、とにかくストーリーがおもしろい。
 
アオサギの娘ヴァージニア・ハートマン(国弘喜美代訳/ハヤカワ・ミステリ)
登場人物の多くが意外な一面を持っていて、それが次々に明らかになっていくのはちょっとしたどんでん返しのよう。つらいことばかりのように思えても、そんな日々のなかで優しさの種が育っていくようなこの物語の世界観がすごく好き。
 
処刑台広場の女マーティン・エドワーズ(加賀山卓朗訳/ハヤカワ・ミステリ文庫HM)
期待感MAXで読んだにもかかわらず、期待を裏切られるどころかのけぞるほどのおもしろさ。残り五十ページぐらいになってからジェフリー・ディーヴァーも真っ青のどんでん返しの波状攻撃で、最後までサービス満点。
 
生存者アレックス・シュルマン(坂本あおい訳/早川書房)
読み終えたあと立ち上がれないくらいの衝撃。時系列に進む過去と逆行する現在という構成がめちゃめちゃきいてます。
 
木曜殺人クラブ 逸れた銃弾リチャード・オスマン(羽田詩津子訳/ハヤカワ・ミステリ)
元諜報員のエリザベスだけでなく、老人たち全員が個性を発揮しながらそれぞれにいい働きをしているのがミソ。認知症のスティーヴンの意外な活躍は胸熱だし、ジョイスの尽きることのない好奇心と無限の可能性に力をもらえます。

〔かみじょうひろみ:英米文学翻訳者。おもな訳書はジョアン・フルークの〈お菓子探偵ハンナ〉シリーズ、ジュリア・バックレイ『そのお鍋、押収します』、カレン・マキナニー『ママ、探偵はじめます』、エリー・グリフィス『見知らぬ人』など。最新訳書はフルーク『ココナッツ・レイヤーケーキはまどろむ』〕

 


武藤陽生

 最近血尿が出ました。40歳後半になってから体にいろいろ問題が生じているようです。検査の結果、とくに大きな病気は見つからなかったのですが、毎晩ビールを飲んでいるのがよくないと思い、すっぱりとノンアルビールにしてみました。これがなかなかどうして満足度が高く、朝からノンアルビールをキメて多少の背徳感を味わいつつ仕事をするのもよいものです。

〔むとうようせい:エイドリアン・マッキンティの刑事ショーン・ダフィ・シリーズを手がける。出版、ゲーム翻訳者。最近また格闘ゲームを遊んでいます。ストリートファイター5のランクは上位1%(2%からさらに上達しました。まあ、大したことないんですが…)で、最も格ゲーがうまい翻訳者を自負しております〕

 


鈴木 恵

 いま訳している本の必読文献として『ボヴァリー夫人』を読みはじめたのが、この春のこと。もう秋風が立つというのに、いまだ読みおえていない。ボヴァリー夫妻が引越しをして、いよいよ話が面白くなってくる(んじゃないか)というところで止まったまま。ほかの本に浮気をつづけているうちに、だんだん気持ちが冷めてしまい、この頃はなんだか顔を見るのも疎ましい。それでますます浮気をしてしまう。『異能機関』『処刑台広場の女』『8つの完璧な殺人』。あしたこそ心を入れ替えてきみを読むからさ、と、今日はライリー・セイガーの新作に逃げている。破滅の日(締切ともいう)は近い。
〔すずきめぐみ:この長屋の万年月番。映画好きの涙腺ゆるめ翻訳者。最近面白かった映画は《リバー、流れないでよ》〕