田口俊樹

「ありゃ子供だましだね」なんて酷評していたおっさんがひとり身近にいましたが、ワタシ的にはなかなか面白かったです。
 いや、何、今年の本屋大賞を獲った『成瀬は天下を取りにいく』の話。まあ、確かに登場する中年のおっさんたちは、みんなただのいい人すぎる感なきにしもあらずでしたが、なんと言っても主人公の成瀬、いいですねえ。きみなら二百歳も夢じゃない、と応援したくなります。
 それでも一番印象に残ったのは、成瀬について語る今のフツーの女子中高生のたぶん今のフツーの実態っぽいところ。成瀬の強烈な異化作用のせいでしょうか、多くの女子が生きにくいとまではいかなくても、面倒くさいヒエラルキーを生きてるんだなあ、窮屈そうだなあ、なんてね、ちょっと心配しました。まあ、今どきの年寄りの心配はだいたいあたりませんが。
 さて、いよいよこの『長屋』も来月が最終回。長くも短くもあったこの十五年をちょこっとだけ思い起こしてみようと思ってます。

〔たぐちとしき:ローレンス・ブロックのマット・スカダー・シリーズ、バーニイ・ローデンバー・シリーズを手がける。趣味は競馬と麻雀〕

 


白石朗

  仕事中はおおむね音楽を何かしら流しています。この半年は新譜をはさみつつ、坂本龍一の膨大な作品群をくりかえし再生していました。とりわけ聞くともなしに流していたのは映画音楽、それも2007年の『トニー滝谷』以降の作品です。有名な『The Revenant(蘇えりし者)』や映画音楽としては最後になった『怪物』の書き下ろし楽曲は晩年のソロ三作に通じる響きで間然するところがありませんが、『怒り』『天命の城』『約束の宇宙』『MINAMATA』もおなじくらい響きが美しく、『さよなら、ティラノ』『BECKETT』『Exception』あたりも仕事への没入度を高めてくれました。そんななかで仕事より音楽に耳がむいてしまったのは『第一炉香(英題:Love After Love)』のサントラ。映画は未見ですが、これは機会があれば鑑賞したいものです。

〔しらいしろう:老眼翻訳者。最近の訳書は、凄腕暗殺者の最後の仕事をテーマにしたスティーヴン・キングの超異色作『ビリー・サマーズ』。同じくキングの日本版オリジナル中篇集も準備中。ツイッターアカウントは @R_SRIS

 


東野さやか

 ちょっと前の話になりますが、オンライン書店の honto が三月末で本の通販を終了したのが残念で、長年の友を失ったような気持ちでいます。なんと大げさなと思われるでしょうが、bk1のころから利用していたので、二十年以上のつき合いだったんですよ。わたしにとってはとても使い勝手のいいオンライン書店だったので、なかなかほかに移行できず、ほしい本があるのに買えない状態がつづいています。モノレールで十五分のところにジュンク堂があるんだから、そこに行けって話なんですけどね。
 ところで、第十五回にして最後の翻訳ミステリー大賞の本投票の締め切りが迫ってきました。有資格者のみなさま、投票できるのは五月六日の二十三時五十九分までです。どうぞよろしくお願いいたします。

〔ひがしのさやか:最新訳書はシェルビー・ヴァン・ペルト『親愛なる八本脚の友だち 』。その他、クレイヴン『グレイラットの殺人』、スロウカム『バイオリン狂騒曲』、チャイルズ『クリスマス・ティーと最後の貴婦人』。ツイッターアカウント@andrea2121

 


加賀山卓朗

 七福神でも評判だった『両京十五日』、ほんと最高です。内容がものすごいのはもちろん、この欄では自分の仕事の話をすると、漢語・漢文交じりの翻訳が、もううっとりするほどすばらしい。一読わからない単語や文句がたくさん出てきます。でもぜんぜん苦にならないどころか、むしろ快感である。これ、翻訳上の革命(昔からあったものの再発見なわけですが)と言ってもいいと思います。
 いま(ここ数十年?)翻訳は、読者にわかりやすくということが金科玉条で、そのために関係者のたいへんな努力が費やされている。そこにこの難解なはずなのに気持ちがよくて、ドライブ感があって、ついでに勉強にもなる漢文だらけの翻訳ですよ(于謙もっとやれ)! 私たちには漢文の読み下しがあったではないか、という。日本語の奥深さを改めて感じ、視野がわっと広がった気がしました。まちがって読みがちな人名には毎回ルビがふってある気配りもうれしい。私、あまり興奮しない性質ですが、この作品には本気で快哉を叫びました。未読のかたはぜひ読んでみてください!

〔かがやまたくろう:ジョン・ル・カレ、デニス・ルヘイン、ロバート・B・パーカー、ディケンズなどを翻訳〕

 


上條ひろみ

 まずは大好きなドタバタユーモアミステリ二連発。
 クイーム・マクドネル『有名すぎて尾行ができない』(青木悦子訳/創元推理文庫)は、『平凡すぎて殺される』につづくシリーズ第二弾。個性爆発なキャラクターと予想できない展開、オフビートな笑いが大好きです。平凡すぎる青年ポールはどうにもたよりないけど、はたしてちゃんと探偵事務所をやっていけるのか。けっこう暴力的なシーンもあるのに、笑って読めちゃうのがすごいです。フロスト警部以来の衝撃的な訳語のオンパレードも最高。
 みんな大好きジャナ・デリオンのワニ町シリーズ。第七弾『嵐にも負けず』(島村浩子訳/創元推理文庫)ではCIA工作員のフォーチュンとカーター保安官助手のロマンスに大きな障害が! 嵐は来るし、偽札は舞うし、やばい組織には狙われるしで、シリーズ最大のピンチ!と思いきや、フォーチュンってやっぱり強くてかっこいい。もちろんアイダ・ベルとガーティもね。スワンプスリーは永遠です。
 
 ここから韓国特集。
 カン・ファギル『大仏ホテルの幽霊』(小山内園子訳/白水社)は、今も韓国の仁川に実在する「大仏ホテル」を舞台に、1950年代と現代に生きる孤独な魂の交錯を描く。不吉な出来事が相次ぎ、幽霊に取り憑かれていると噂される大仏ホテルでは、シャーリー・ジャクスンが幽霊の出てくる小説を執筆中で、エミリー・ブロンテの幽霊も現れ……ファンタジー要素が歴史的背景とうまくマッチしていて、意外な真相も読み応えがあります。ゴシックホラーもラブストーリーもどんでん返しもあり、エンタメ要素多め。
 ミステリではないけど、イ・ドウの『私書箱一一〇号の郵便物』(佐藤結訳/アチーブメント出版)もおもしろかった。ラジオ局を舞台に臆病な大人の恋愛を描いたラブストーリーです。丁寧に描かれる恋人たちの心模様が、30話ぐらいのドラマで見るのにぴったりのムズムズ具合でした。前クールの日本のドラマ「EYE LOVE YOU」で見た梨花洞(イファドン)の駱山(ナクサン)公園が出てきて感慨深かったです。同じ作家の『天気が良ければ訪ねて行きます』はすでにドラマ化されていて、こちらもいい話。
 短編集ではイ・ギホの『誰にでも親切な教会のお兄さんカン・ミノ』(斎藤真理子訳/亜紀書房)がお勧め。これもミステリではないけど。理想と現実のあいだで苦悩するふつうの人々を描いた短編集で、落ちがやるせないけど、読みやすくてどれもおもしろいです。訳者解説によると、イ・ギホの短編小説は一見とっつきやすいものが多いが、その芯は以外に硬く、ハードなグミキャンディのような味わいと表現されていて、なるほど、うまいこと言うなあと思った。

〔かみじょうひろみ:英米文学翻訳者。おもな訳書はジョアン・フルークの〈お菓子探偵ハンナ〉シリーズ、ジュリア・バックレイ『そのお鍋、押収します』、カレン・マキナニー『ママ、探偵はじめます』、エリー・グリフィス『見知らぬ人』、『窓辺の愛書家』など。最新訳書はフルーク『トリプルチョコレート・チーズケーキが噂する』〕

 


武藤陽生

【今月はお休みです】

〔むとうようせい:エイドリアン・マッキンティの刑事ショーン・ダフィ・シリーズを手がける。出版、ゲーム翻訳者。最近また格闘ゲームを遊んでいます。ストリートファイター5のランクは上位1%(2%からさらに上達しました。まあ、大したことないんですが……)で、最も格ゲーがうまい翻訳者を自負しております〕

 


鈴木 恵

 このひと月のあいだに読んだのは、仕事がらみの本をのぞけば、読みかけだった『源氏物語』を「潤一郎新訳」で最後までと、ユルスナール『東方綺譚』から「源氏の君の最後の恋」(再読)と、谷崎潤一郎『夢の浮橋』、さらに工藤重矩『源氏物語の結婚』と、ほぼ源氏づくしでした。
 とくに『源氏物語の結婚』(中公新書)は、源氏物語をひととおり読んだ人なら絶対に面白いはず。登場人物のさまざまな行動にこめられた意味を、鮮やかに解き明かしてくれます。当時の読者は当然そこまで読んでいたんですよね。遅まきながら源氏物語を読みおえたことで、自分の読書世界が未知の方面へ広がったような、晴れやかな気分。
 仕事に関しては、クリス・ウィタカーの2作目『All The Wicked Girls 』がようやく完全に手を離れて、見本ができるのを待つばかりとなりました。デビュー作の『消えた子供 トールオークスの秘密』(2016)と、CWA賞最優秀長編賞を受賞した第3作の『われら闇より天を見る』(2020)のあいだに書かれた作品で、やはりアメリカの片田舎の小さな町を舞台にしています。もちろんミステリー小説なのですが、ほかの2作と同様に少年少女の成長物語という側面もあわせ持っていて、読後がやはりとてもいいのです。
 邦題は『終わりなき夜に少女は』、発売日は5月22日です。ご期待ください。

〔すずきめぐみ:この長屋の万年月番。映画好き。最近面白かった映画は《悪い子バビー》《落下の解剖学》