■パトリシア・ハイスミス『サスペンス小説の書き方』


 怜悧にして孤高、純文学志向のイメージのあるハイスミスが、創作志望者向けの指南書を書いていたとは一種の驚きである。『サスペンス小説の書き方』(初版1966、翻訳の底本は2015) は、自作や他作家の作品への多数の言及を交えながら、サスペンス小説を書くこと、作家として仕事をすることについて率直に語っている。
 創作志望者に勇気を与えることばの数々には大いにイメージを裏切られる。「序」には、こんな言葉がある。

「すべての駆け出しの書き手が、すでに作家であることを保証しよう。良かれ悪しかれ、みな自分の感情と、気まぐれと、人生に対する姿勢を、世間の目にさらすリスクを取ろうとしているのだから」

 創作初心者に対して類のない励ましを与え、そして戒めの言葉としても受け取れるのではないだろうか。
 冒頭に、「この本は、ハウツー式の手引書ではない。どうすれば良い本、つまり読みやすい本が書けるかを説明することは不可能である」と作家は断っている。なるほど、本書には、アイディアをいかに見つけるか、経験をもちいることについて、サスペンス短編小説の特徴、プロットの立て方、行き詰まりの打開法や作家が自作を宣伝すること等作家の執筆にまつわる興味深い話題を取り上げているが、それらは創作の方程式のようなものではない。ハイスミスは、もっぱら創作に関わる書き手の姿勢について語っている。必然的に本書は、ハイスミスという作家という自画像を描き出していることにもなる。

 「本というのはいつでも、直接的で、実際にその中にいるように感じられる経験を含んでいる方がいい」
「作家が素材について十分に熟考していて、やがて心と人生の一部となり、それについて考えながら寝たり起きたりするようになれば、最終的に執筆を始めた時、作品は自ら流れ出すはずである」
「作家は登場人物がなぜそのように振る舞うかをわかっているべきであり、自分自身がその質問に答えられなければならない。それによって深い洞察が生まれるのであり、それによって本が価値を得るのである」

 ハイスミスの姿勢は、純文学的アプローチのように捉えられるが、彼女の小説に特有な心理のリアリティと洞察は、こうした姿勢によるものと首肯できる。
 もちろん、ハイスミスとて、プロットを甘くみているわけではない。それどころか、本書にはプロットの立て方、改良、発展のさせ方にも筆が割かれている。ただし、作者の信念は、「プロットは完了させるべきでない」ということだ。なぜなら、「自分自身の楽しみについても考えるべきだ」なるほど! こと、サスペンス小説のようなジャンルにおいて、最後まで何が起こるか分かっていたら、作者の楽しみも半減するわけか。
 ハイスミスは、己の創作姿勢に固執しているわけではない。すべての人間は隣人とは違う言葉をもっており、その個別性が創作のすべてであること、さらに、書くことの喜びについても十分に語っている。
 創作志望者は、本書によって大いに励まされることだろうが、簡単にサスペンス作家を志望してもいけないのかもしれない。『殺意の迷宮』の初稿を拒否されたハイスミスは、別な出版社に40頁ほど削除するよう言い渡され、その作業をしつつ、ダミー原稿を30回ほど読んだと書いている。既に映画化された作品を含む7作の長編の実績のある作家にしてこれなのだということも噛みしめるべきだろう。

■パトリシア・ハイスミス『水の墓碑銘』


 『水の墓碑銘』(1957) は、パトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』(1955) に続く初期代表作。1991年に柿沼瑛子訳で河出文庫から刊行されているが、この度同じ訳者により、30年ぶりに改訳された。
 郊外の街で趣味的に小出版社を営む資産家ヴィク。その妻メリンダは美しく奔放で、次々と愛人と関係をもつ。偶然に愛人の一人が殺害されたとき、ヴィクは、自分が殺したと今の妻の愛人に嘘をつき、町中の噂となる。またも妻が愛人をつくると、ヴィクはその男をプールで沈めてしまう…。
 ヴィクの肖像が読む者の心をかき乱す。親切で人当たりのいい、街で敬愛されている男。多趣味で娘トリクシー届くとの仲は睦まじい。妻と愛人がパーティやリビングでいちゃつくのを横目に、愛想よくふるまう男。かたつむりや南京虫の飼育という風変りな趣味をもつ男(ここでは嫌でも同じ作者の「かたつむり観察者」(★『11の物語』所収)を思い出さざるを得ない)。彼は、穏やかで温厚という仮面をかぶっている男であり、実際には普通の人間と同様、腹の中は嫉妬で煮えたぎっている。殺人を犯して以降、なんら後悔の念をもたないことから、仮面の下の異常性が伝わってくる。しかし、ヴィクの異常さはその点に見られるだけで、あとは我々と大きく変わるところはないのだ。善とも悪とも一方的に断じることもできない、その存在が読み手の心をかき乱す。
 ヴィクの殺人行為も、彼の街での評判も手伝って、警察の追及するところにはならない。街の人々の多くは、ヴィクを擁護する。
 ヴィクが殺人を犯したと疑わないのは、妻のメリンダだ。メリンダは、同様の疑いをもつ人物と組んで、夫を告発しようとする。このメリンダの性格もとらえ難い。酔いどれでふしだらな女だが、夫を告発しようとする点にはモラルはある。夫の深いところに異常性があるとすれば、彼女の愛人への逃避もまた首肯できるものかもしれないのだ。
 こうして、いずれもモラルとアモラルの双面をもつ夫と妻の神経戦が周囲の人を巻き込んで展開していく。結末に至って、ヴィクの穏やかな男という擬態は、彼の闘争-敗れ去る運命にある-の一形態だったのだと読者は知らされる。
 ストーリーは、富裕層の社交を中心に細々とした日常生活や出版業のディテールの積み重ねのもとで進行し、抜群のリアリティと、いやでも読み進めざる得ない推進力を本書はもっている。その手触りは、男性が書いたノワールとはまた異質で、独特の割り切れなさを持ち合わせている。
 『サスペンス小説の書き方』と照らし合わせるのも、また一興。「感じのいい犯罪者」「他の職業について学ぶべき」といった記述は、いずれも、本書において実践されていると思われる。
 本書の訳者あとがきで、ハイスミスについて、相次いで評伝が書かれ、2021年には膨大な「日記」も刊行されて、その私生活や女性との恋愛による苦悩、作品への自らの恋愛関係の投影といった事情が明らかになってきたことが詳しく書かれている。
 本書の登場人物にも、ハイスミスの当時の恋愛関係が大きく影響しているとのことであり、興味のある方は一読願いたい。
 本書原作の2022年映画『底知れぬ愛の闇』がAMAZON PRIMEで配信されている。
 舞台は現代に移されている(娘のトリクシーはアレクサと歌っている)。ストーリーは割合忠実に追い、エイドリアン・ライン監督らしいエロティックな要素が入っているが、原作の後に読むと表面をなぞった感が否めない。ヴィック(ベン・アフレック)とメリンダ(アナ・デ・アルマス)は適役。

■キャロリン・キーン『ナンシー・ドルーと象牙のお守り』


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 次に記す『都筑道夫創訳ミステリ集成』に収録された『象牙のお守り』の原作ということで、ヒラヤマ探偵文庫で全訳された長編。少女探偵ナンシー・ドルーは、1930年に遡る少女向けミステリの人気シリーズ。近年では、2007年から2012年まで、創元推理文庫で8巻が刊行されたことも、記憶に残る。新保博久氏の解説によれば、キャロリン・キーンは、創作工房ストラテマイヤー・シンジケートがつくったハウスネーム。シリーズは、今世紀に至って、総計175冊に及び、そのうち25作目までが「価値ある逸品」と見なされているというが、4冊を除き、ジュニア向けレーベルなどで、すべて翻訳があるというのも驚きだ。
 本レヴュー「玉手箱」では、エラリー・クイーンJr名義で発表された作品など一部を除き、ジュニア向けミステリを扱っていないが、欧米の分厚いミステリの歴史の土壌には新たな読者を耕し続けたジュニア向けミステリという存在があることも、また忘れてはいけない事実だろう。
 さて、本書は、ナンシー・ドルー物の第13作。キャンプ帰りのナンシーとベス、ジョージの女の子3人組は、サーカス団で虐待を受けているインド人少年と出会い、ナンシーは彼を家に連れ帰ることになる。少年の出自も謎に包まれているが、奇妙な訪問者が訪れるなどナンシーの周囲でも異変が次々と起こり、3人組は、事件に巻き込まれることに。筋は偶然の要素が散見され、ミステリとしての構成は褒められたものではないが、謎のお守りに、謎の家、宝探し、少年の運命、サーカスでの冒険とテンポよく読者の興味をつないでいくのは、年少読者には、なかなかのごちそうだろう。結末近くでは、大統領夫人に招待され歓待されるなど、ナンシーは、この事件でも一層名を挙げる。
 ナンシーが18歳という娘盛りだったのは、少し意外。シリーズの読者層にとっては、少しお姉さんの冒険というところが、憧れの一要素だったろうか。

■『都筑道夫創訳ミステリ集成』


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 本書は、創作・評論を通じ我が国ミステリに大きな足跡を残した都筑道夫による、翻訳にして創作たる児童向けミステリ・SFを3作一挙に復刻した大冊。元本は刊行以来再刊されていない激レア本だ。
 収録作は、ジョン・P・マーカンドのミスター・モト物『銀のたばこケースの謎』、カロリン・キーン『象牙のお守り』、エドガー・ライス・バローズ『火星のくも人間』。復刻されている元本のカバー・挿絵の描き手が、小松崎茂、武部本一郎、司修と並べるだけでも豪華だ。少年少女向けの小説と挿絵で、往時を懐かしむというのも本書の正統的な楽しみだと思うが、都筑ファンが気になるのは、翻訳した酔いどれ探偵カート・キャノンシリーズの終了を惜しむ声にこたえ、その続編を書いたという「なり切り」の逸話ももつ作者がどのように各作品を料理したかという点だろう。
 その都筑流翻案を本書では「創訳」と称しているわけだ。
 新保博久氏・平山雄一氏の作品注釈と新保氏の行き届いた解説で、各小説について、原作との相違、その成立の事情が明らかにされている。
 『銀のたばこケースの謎』(原作は、『天皇の密偵 Mr.モトの冒険』(角川文庫)として後に邦訳がある)は、〈少年少女世界探偵小説全書〉10巻として1957年に出版されたもの。新保解説から、戸川安宣氏のエッセイ(「都筑さんのこと」)を孫引きすると、翻訳が都筑のところに廻ってきて原書を読んでみると「これが本格的なポリティカル・スリラーで、このままではとても子供向けにはならない。といって広告を打ってしまったから今さら作品も変更できない」という理由で、原作の大筋だけ借りて創作してしまったというのが本書だという。
 原作の発表は、1938年。当時の複雑な日中情勢にアメリカの青年ゲイツが巻き込まれ、そこにモト氏が絡んでいくスリラー。舞台は、奉天(瀋陽)、北平(北京)、張家口と移動していく。
 都筑流創訳は、実に大胆。日本を舞台にした第一章がまるまる創作されている。それ以降も、原作には登場しない少年を主要人物として登場させたり、馬賊の襲撃という派手な展開があったり、エピソードの改変、入れ替えも頻繁、本来は脇役であるミスター・モトを活躍させるための苦心も随所にうかがわれる。原作にはない謎の老人が意外な役回りを果たしているのも嬉しい趣向だ。
 『象牙のお守り』は、あてがわれた同作品が「まさに薄みもいいところで、おもしろくもなんともない」(『推理作家の出来るまで』)と感じた都筑が、大幅に書き替えたもの。『銀のたばこケースの謎』に比べると、途中までは素直に原作の筋を追っている印象だが、ナンシーがインド語を読めるなどという不自然さも解消されている。途中からは、原作にはない遺体も登場し、一人二役トリックをナンシーに暴かせるなど、作者の面目躍如。登場人物は整理され、象牙のお守りの秘密自体も変えられ、クライマックスシーンには原作にはないサーカスの空中ブランコをもってきて効果的。なるべく筋の偶然を排してご都合主義に陥らないようにし、物語をよりドラマティックにしようという苦心の跡がみられる。
 『火星のくも人間』の原作は、『火星のチェス人間』。バローズの火星シリーズ第5作で、地球から火星に飛んで大将軍になったジョン・カーターの娘・王女ターラがヒロインで異国の奇怪な生命体や異形の帝国マナトールと遭遇、ターラを慕う若い王ガハンが必死で救出を試みるという冒険譚。生きた人間を駒にして行われる血みどろの火星将棋も出てくる怪奇味の濃い一編。
 「バローズの火星ものは、たいてい腰くだけになって、ラストがつまらない。このときも、最後のほうは、勝手につくりかえてしまった」というのが改変の経緯のようだ。
 マナトール帝国には、家々のバルコニーには動かない群像がいるが、死人がいつまでも生きて見守っているという説明を加えて幻想味が強調されているのが秀逸。原作では、地下に住む剥製師が実はマナトールの影の支配者であり、張り巡らせた伝声管を通じ、すべてを掌握としているという設定も、映画『怪人マブゼ博士(マブゼ博士の千の眼)』(1960) めいていて、話のスケールの大きさを加えている。火星チェスを巡ってトリッキーな入れ替えを行っているのは、ミステリ作家としての性のようなものだろう。
 完全訳が求められる今、こうした創訳は、眉をひそめられるかもしれないが、都筑道夫だからこそ肯定できる、ジュニア向けというフィールドで行われた小説の冒険という見方も可能だ。
 熱心な都筑読者でなくても、本書を読み込むことで、偶然をできるだけ排除し、話のスケールを高め、場面の効果を最大限にしていくツヅキ流創作術の秘密を見出すことができるだろう。

■戸川安宣編『世界推理短編傑作集6』


 これまたびっくりの一冊。
 江戸川乱歩編『世界推理短編傑作集』全5巻は、海外ミステリ短編の里程標として、長い間ファンに親しまれてきたが、2018年に、ポオ、ドイル、チェスタトンの作品を加えるなどリニュアルが施された。(リニュアル以前のタイトルは『世界短編傑作集』)その担当は、東京創元社社長も務めた編集者・戸川安宣氏だったから、うってつけだった。今回、6巻目が加わったのは、小森収編『短編ミステリの二百年』全6巻に対抗した、というのは邪推で、乱歩編5巻本の補遺をつくりたかったのだという。
 例えば、5巻本には、乱歩はシムノンを入れたように書いているが実際には入っていない、元版の全集版からはパール・S・バック「身代金」が省かれている。それに50年代までの作家のうち、チャンドラーやガードナーのような作品が採られていない巨匠もいる、というわけで、5巻本を補完する形の一冊ということで構想されたわけだ。結果として、『世界推理短編傑作集』の影の内閣(シャドウ・キャビネット)を目論んだ『短編ミステリの二百年』同様に、6巻本という体裁を整えたことになる。
 作品は、あくまでも「乱歩ならどうする」という基準にのっとって、乱歩の選択眼をなぞるように、セレクトされているのが、いかにも名編集者らしい。
 本書には、いうまでもなく、「玉」が並んでいる。
 エミール・ガボリオ「パティニョールの老人」黎明期の作品ながら、探偵と弟子コンビによる推理中心の作品。探偵の奥さんの推理が攪乱要素になっているのも面白い。
 ニコラス・カーター「ディキンスン夫人の謎」乱造されたニック・カーター物だが、こんな出来のいい短編もあるのかと感嘆。
 M・P・シール「エドマンズベリー僧院の宝石」安楽椅子探偵プリンス・ザレスキー物。手記の形で奇怪な事件、奇怪な想念が展開する異色編。ザレスキーの超論理がなければ解けない謎だろう。
 E・W・ホーナング「仮装芝居」は、紳士強盗ラッフルズ物。ラッフルズのためなら死んでもいいと言いつつ、がたがた震え、ついにはラッフルズを呪う相棒バーニーが可笑しい。
 オルダス・ハックスリ―「ジョコンダの微笑」話の行き先は見えるが、自らの欲望に翻弄される中年男の心理に目が離せない。
 レイモンド・チャンドラー「雨の殺人者」スキャンダラスな事件と探偵の冷徹ぶりの対比。『大いなる眠り』の原型中編。
 パール・S・バック「身代金」愛児を誘拐された夫婦に焦点を当てた純度の高いサスペンス。
 ジョルジュ・シムノン「メグレのパイプ」妄想的な訴えをする中年女にメグレが興味をもったわけは? ゆったりとした構えが意想外の結末に着地するのが見事。
 イーヴリン・ウォー「戦術の演習」プロパー作家も顔色なからしめる夫と妻の殺人テーマの佳品。
 ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」『短編ミステリの二百年』所収の新訳版とは違う永井淳訳で。
 E・S・ガードナー「緋の接吻」倒叙的な冒頭、ペリー・メイスンが登場してからの流れるような展開、法廷での真犯人当てとシリーズの魅力を凝縮したような中編。
 ロバート・アーサー「五十一番目の密室 またはMWAの殺人」密室物ばかり書いた作家の密室殺人。MWAの面々も顔を出す楽屋落ち的作品ながら、批評の切っ先は鋭い。
 マイケル・イネス「死者の靴」地に足がついていながらファンタスティックな本格物の名編。違う色の靴を履いた男という印象的な冒頭から、作者は思いもよらぬ結末をひねり出す。
 
 編者のもう一つのねらいとしては、翻訳界のレジェンドといわれる先人たちの名訳を集大成したいということがあったという。そこで、本書には、中村能三、浅倉久志、宇野利泰、稲葉明雄らといった名訳者が顔を揃えることになった。本短編集は、「翻訳家とは、音楽の演奏にける指揮者のようなもの」という名編集者からの名訳者への敬意溢れる一冊でもある。

■レックス・スタウト『殺人は自策で』


 最近では中編の翻訳が進んでいるものの、本書『殺人は自策で』(1959) は、ネロ・ウルフ物長編の久しぶりの邦訳であり、長編は論創海外ミステリでも初めて。
本作の舞台となるのは、出版界。ウルフへの依頼人は、出版社や著者からなる盗作問題合同調査委員会。出版界では、近年大きな盗作問題が5件相次いでいる。発刊したばかりのベストセラーが自作の盗作だと騒ぎ立てる男や女が現れ、盗作されたと称する小説が著者の周辺から発見される。盗作の訴訟は虚偽と知りつつ、著者は裁判沙汰を避け、盗作を主張する者に多額の金銭を支払う。こうした事態が立て続けに起こっているというのだ。詐欺なのは明らかだが、盗作を主張する書き手は、4人の別の人物。背後で糸を引いている人物がいるのか。
 1年に200冊は本を読むというウルフが綿密な文章の分析を行い、盗作のもととなっている作品の書き手はすべて同一人物だと断じるのが面白い。しかし、そこからが大変。ウルフは犯人を炙り出すために一計を案じるが、結果は裏目に出て、連続殺人事件に発展してしまう。
 ウルフの怒りに火がつく。

「戻せ。犯人の喉に指をかけるまで、ビールは飲まない。それに、肉も口にしないことにする」
「そんな無茶な! ひな鳥がクリームに漬けてあるんですよ!」
「捨ててしまえ」

 ビールと美食がルーティーンのウルフの怒り具合が判ろうというもの。
 出版界が舞台だけあって、もっぱら助手のアーチーが見聞きする作家や出版者たちが個性的だし、物語の展開も殺人が相次ぐなど、サスペンスにも富んでいる。ラストもウルフファミリーを総動員した大捕物があり、かなり意外な犯人が指摘される。読者への挑戦めいたアーチーの台詞もあり、手がかりにも気配りある。短めの長編ながら、類のない盗作詐欺事件を発端にプロットも引き締まっている。ウルフ物長編に幻の小説原稿を扱った『編集者を殺せ』(1951) という作品があるが、本書はビブリオミステリとしてもちょっとない型の作品だろう。
 中編も面白いが、アーチーに殺人容疑がかけられるなど、警察とのさや当てやあれこれあって、容疑者一同がウルフ宅に集まり犯人が指摘されるというフォーマットになじむと多少飽きも出てくる。その点、長編は、筋の膨らませ方にも融通が利き、プロット本位の楽しみも味わえる。ウルフ物の未訳長編はまだかなりあり、そちらの翻訳も楽しみにしたい。

■R.L.スティーブンソン『カトリアナ』


 漱石も親しんだ歴史冒険小説の雄編、『さらわれて』の続編。『さらわれて』の翌年、作者は海外に居を求め、本書が出版されたのは、南太平洋サモアでの死の前年1893年。作家の集大成ともいえる作品であり、作者自身「自分の作品のなかでもいちばん価値のあるもの」と認めている。
 ただし、基本的に子ども向けに書かれた前作に溢れる冒険成分は、控え目。18世紀スコットランドの複雑な政治事情の中で、一人の青年が何を果たせるのか、それに加えて、青年の恋が成就するのかが、冒険物語の主成分になる。『さらわれて』が肉体の冒険とするなら、『カトリアナ』はより困難な精神(ソウル)の冒険なのだ。
 『さらわれて』の巻末で財産を得た本書の主人公デイビッドが巻き込まれている事態は、こうだ。
 〈アッピン殺人事件〉の犯人とされたジェイムズ・オブ・ザ・グレンズの無罪を現場にいたデイビッドは知っている。しかし、暗黒の政治裁判が進行する中、デイビッドが証言をすることは可能なのか。
 〈アッピン殺人事件〉は、スコットランド法制史上最悪の暗黒裁判と呼ばれた現実の事件にまつわる裁判。そこにデイビッドという創作上の人物が役割を果たしうるかというのが、というのが物語の前半の主筋。〈アッピン殺人事件〉の裁判は、一見の冷静な手続きに見えても、実のところ、「野蛮な氏族同士の氏族間闘争」なのだということをデイビッドは身に染みて知ることになっていく。デイビッドが証言をして筋を通せば、氏族間闘争をさらに煽り立てるものとならざるを得ず、容疑者周辺以外の者は誰も望まない。ゆえに、デイビッドは、島への幽閉により、裁判からも排除される成行きになる。
 もう一つの難問は、デイビッドの恋だ。恋したのは、灰色の瞳のカトリアナ。投獄されているスコットランド高地人の娘だ。デイビッドは一途に思いを寄せるが、カトリアナは本心を明らかにしたと思えば何度も心が離れていくように見える。物語後半、オランダで、二人は、兄妹を装って暮らし始めるのだが、カトリアナの父の登場もあり、この恋はなかなか成就しない。二人の純情を疑わない読者にはもどかしい限りだ。
 ここにデウスエクスマキナのように登場するのが、『さらわれて』で最高の相棒となった年上のアラン。彼は胸のすくような活躍をみせ、物語を大団円にもっていく。
 デイビッドの証言の成否を握る司法長官の底知れぬ懐の広さや、その長女で奔放な知恵者、デイビッドとカトリアナの教育係のようにもみえるバーバラ等周辺の人物も異彩を放っている。
 一見、物語は、政治と恋愛に分裂しているかにみえるが、答えのない難問であることは共通している。その中で、世の矛盾に心身をよじりながら成長していくデイビッドの青春がまぶしくもある。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita




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