筆者の住む北海道にもようやく桜咲く季節がやってきた。コロナに戦争、浮世の心配事は絶えないが、何か新しいことを始めたくなる季節でもある。そんな春めいた気分にぴったりなのが、ウッドハウスの一冊。
 
■P・G・ウッドハウス『ブランディングズ城のスカラベ騒動』


 あのジーヴズ物の書き手であり、今に至るも新しい読者を生み出し続けている英国生まれのユーモア作家P・G・ウッドハウス。〈ブランディングズ城サーガ〉と呼ばれるシリーズの第1作『ブランディングズ城のスカラベ騒動』(1915) が論創海外ミステリから初邦訳でお目見え。
 この〈ブランディングズ城サーガ〉は、六十余年にわたって書き続けられ、長編十作余 (分類によって11作とも14作とも)、短編10編に及ぶという長尺のシリーズで、既に4冊の邦訳もある。広壮な城に住まうエムズワース卿の関係者が城にやってきて引き起こす騒動-というのが基本パターンのようだが、この第1作もその例に漏れない。
 物語は、ロンドンの裏町で、本編の主人公アッシュ・マーソンが新式の体操にいそしむところから始まる。アッシュは、運動選手としてならしたオックスフォード大卒業生だが、お堅い職業にはつけず、現在は、三文小説の書き手として糊口をしのいでいる。(「捜査官グリドリー・クエイルの冒険」シリーズというのが彼の作品だが、ミステリファンの目を惹きつけよう) 彼の体操姿をみて、歌うように笑い、後に詫びてくるのが本編のヒロイン、ジョーン・ヴァレンタイン。彼女も、同じアパートに住み、三流紙に短編を書いている同業者と判明する。少々できすぎの、でも何か新しいこと(原題Something New) の予感に満ちたボーイ・ミーツ・ガールで、本編は幕を開ける。
 この二人が巻き込まれることになるのは、タイトルにもなっているスカラベ騒動。スカラベとは、ヴァン・ダイン『カブト虫殺人事件』やR・オースティン・フリーマン「青いスカラベ」に親しんだ人は、黄金虫を象どった古代エジプトの工芸品と知っているだろう。
 そもそもは、ブランディングズ城主エムズワース卿のうっかりに端を発する。ぼんやりしていることでは人後に落ちない卿は、次男の婚約者の父親で、アメリカの大富豪ピーターズのコレクションのスカラベを見ている間にその逸品を無意識にポケットに入れ、後にもらったものと思い込む! ピーターズとしては、娘の結婚を控え、事を荒立てるわけにもいかず、一計を案じる。
 この大富豪によるスカラベ奪還作戦で、主人公アッシュとジョーンが鉢合わせ。いい感じになりはじめた二人は、ブランディングズ城における奪還作戦ではライバル同士になるのだ。卿の次男とその婚約者の娘、彼女に思いを寄せる男の三角関係や、次男と関わりのある賭博の胴元の思惑も入り交じり、事態は混迷を深めていく。
 本編は、ウッドハウスの小説としても初期に属するが、筆運びは軽く滑らかで、笑いの技巧を総動員して微苦笑を生み続けていくのは、既に堂に入っている。一癖も二癖もある人物が登場するが、悪党であっても憎めないキャラクターになっているのも、ウッドハウス流だ。現代から見ると、実に春風駘蕩、のびのびとしたユーモアが横溢している。
 瞠目すべきは、ジョーンのキャラクターで、彼女は生活のために様々な職業をこなしてきた自立する女。婦人参政権運動等を背景に社会に登場してきた新しい女の一人で、アッシュにも冒険を勧めただけに、スカラベ争奪に当たって、彼に「勝ち」を譲ってもらうことを良しとしない。二人の成行きは、後のハリウッドのスクリューボール・コメディを先取りするような、男と女の闘争、恋の闘争の顛末を描いたものとして出色だ。
 一方で、笑いにまぶされているが、風刺の切っ先は鋭い。
 アッシュが大富豪ピーターズの従者として、ブランディングズ城に乗り込もうとするとき、
貴族の小間使いの経験をもつジョーンから忠告される。
 使用人の食事部屋の席につくにも社交界の規則より厳しい規則がある。主賓であるピーターズの従者であるアッシュは序列が高いが、それでもその前には、執事、家政婦長、客室係、卿の従者、卿の姉の従者、次男の従者…がいて、次がやっとアッシュの番、その後にも大勢が続くという具合。その食事の場所も、台所メイドと洗い場メイドは台所、運転手、従僕、副執事らは使用人ホール…という具合に、厳密な規則は延々と続く。
 誇張はもちろんあるのだろうが、名門貴族の使用人も恐るべき階級社会に属しているというのは、当時の英国社会への皮肉が効いている。大騒動の後に、この城の社会的障壁が取り除かれ、二度と元には戻らなかった様子が描かれるが、騒動自体が一種の「革命」であり、「何か新しいこと」でもあったことが了解できる。
 この物語の中心にいるのは、エムズワース卿だが、彼は度し難いうっかり屋で騒動の引き金を引きながら、物語においては独り幸福感に浸り何もしない虚ろな中心。登場人物たちはその周囲をメリーゴーランドのようにあくせくして経巡り、駆け抜ける。その構図自体がしみじみおかしくもある。

■レオ・ペルッツ『テュルリュパン』


 巻末の著作リストをみると、レオ・ペルッツ作品の邦訳も進み、合作や翻訳・翻案を除くと、本作品『テュルリュパン』(1924) が最後のものになるようだ(ただし、3番目の著作は、梶竜雄訳★梶龍雄訳?★による中学生向け抄訳) 。著作順としては、アンチミステリの評もある『最後の審判の巨匠』(1923) に次ぐ第8の作品。
 本書は、17世紀フランスに材をとった歴史奇想小説とでもいうべき作品だが、一種のミステリ味も感じさせないでもない。例えば、「わたしは探偵で犯人で被害者で証人なのだ」と冒頭で宣言するタイプのミステリのように。そんなことがどうして可能なのか、それを説明するのが小説本体ということになる。
 本書の第1章の宣言は、次のようなものだ。

 「フランス革命より150年も前の1642年、聖マルタンの日に、宰相リシュリューの陰謀により、全フランスの貴族1万7000人が虐殺されるはずであった。テュルリュパンという一人の床屋がその陰謀を阻止した」

 貴族の首をシャトルコックのようはね飛ばす「羽根突き大会」と称される巨大な陰謀がなぜ一人の床屋によって阻止されうるのか、その理路を状況の積み重ねによる必然として描いていくのが、本書なのである。
 テュルリュパンは捨て子であったが、理髪の修行をし、今は寡婦サボー夫人が所有する床屋を切り盛りしている。いつかは、真実の父が見つけてくれるだろうと、若いのに一房ある白髪を顔にたらしている。彼は、物乞いの葬儀に向かうさなか、修道院で貴族ラヴァン公爵の葬儀に遭遇する。葬儀の間、公爵の奥方がずっとテュルリュパンを見続けている。彼は、彼女が真実の母だと信じる。それなりに幸せに暮らしていた床屋を飛び出したテュルリュパンは、ラヴァン公爵の邸宅に向かう…。
 ここからがテュルリュパンの冒険の始まりなのだが、彼は、民話やおとぎ噺に出てくる賢者や愚者を彷彿させる(「彼は、空想家で愚か者だった」)。いわゆるトリックスターであり、おうおうにして、秩序を破壊し、世界を活性化させる役割を担っている。
 テュルリュパンの性格付けで面白いのが、必ずしもおとぎ噺のような無垢の人ではないこと。彼は物乞いに恵みを施すが、物乞いたちは神のスパイだと思い込んでいるからである。物乞いの葬式に行くのも、神によく思われたいがためであり、極めて、現世的人物でもある。
 ある殺された貴族に扮して、公爵の邸宅に紛れ込んでからも、会話に激して決闘を約束したり、決闘役を別の貴族に押し付けようと下手な画策をする当たりが人間臭い。出自に関し問われ、床屋で聞きかじった情報で逃げを打つところも浅慮極まりない。単に「トリックスター」の一語でくくれない人物なのだ。ここの場面では、ペルッツの小説ではあまり感じなかった諧謔味も感じさせる。
 200頁余りの短い長編で描写は質素で簡潔だが、ストーリーに曲折をもたせつつ、意外な形で冒頭の宣言は達成される。読後に振り返ると、床屋による陰謀の阻止という一点に向けて収斂させていく状況設定や叙述の精緻さに舌を巻かざるを得ない。その必然性の徹底がミステリファンも捉えるだろう。テュルリュパンが孤児であることも、一房ある白髪をたらしていたことも、物乞いの葬儀に行ったことも、ラヴァン公爵の奥方がずっと彼を見続けていたことも、その他諸々が結末に結びつき、作者の奇想を成立させているのだ。
 本書の副題は「ある運命の話」だが、プログラミングされた自動機械のように、一人の床屋の「運命」は進む。こうした一個の人間を翻弄する「運命」への視点は、「アンチクリストの誕生」等にも共通するものだ。そのプログラムを誰がなぜ書いたのかが、シニカルな最後の一行で明らかにされる点も、この物語の構成の妙といえよう。

■『ユーモア・スケッチ傑作展3』


 国書刊行会『ユーモア・スケッチ傑作展』も次々と出て、はや3冊目。4冊目も既に手元にある。とりあえず、今回は3のみ。
 この3には、早川書房で単行本化された全25編に、単行本未収録14編を収める。
 今回は、第四室「女流作家特別展示」があるのが目新しい。『ユーモア・スケッチ傑作展1』の若島正解説では、収録作家に女性作家が極めて少ないことが指摘され、女性ユーモリストの系譜をたどっているが、本書ではシャーリイ・ジャクスン『野蛮人との生活』にも似た子育て奮戦記ジーン・カー「ひな菊を食べないで」や、往時のアメリカン・ユーモアの総本山だった社交サークル「アルゴンキン・ラウンド・テーブル」に参加した唯一の女性ドロシー・パーカーの辛辣で観察が行き届いた三編などが読めるのが貴重。
 今回も、ユーモア譚からホラーになるジャック・ダグラス「恐竜だあ!」、アメリカにおける降霊会事情をワサビたっぷりに綴ったH・アレン・スミス「マンハッタン降霊会始末」、イギリスのハチャメチャ学園物J・B・モートン「ファウリナフ船長の生活と意見」「悪徳学園の新入生」、グルーチョ・マルクスの普段の奇行の数々やラジオのクイズ番組の型破りの司会ぶりを伝える爆笑編レオ・ロステン「グルーチョ」、当時流行した少年冒険シリーズをパロっているうちに、メタフィクショナルな凄味すら帯びてくるコーリイ・フォード「ロロ・ボーイズ万歳!」などなど多士済々。
 未収録作も、途方もないほら話が炸裂するチャールズ・フィッツヒュー・トールマン「笑みだけ虎の顔の上」、短い電報文だけで週末のドタバタ騒動を描くジェフリー・カー「ロング・アイランドの週末」、SFに近いような誇大妄想ジョージ・S・コーフマン「コーフマンいじめ株式会社」、パロデイがシュールの域に達しているラリー・シーゲル「少年連合軍-第一次大戦秘話」、アンチミステリとも読めるロン・グーラート「ベンチリー連続殺人の謎」などなど遜色ない。
 改めて、ユーモアのバリエーションの幅広さ、豊饒さを感じさせる一冊だ。さあ、次は最終巻。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita





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